黒猫と王子
猫達と竜が暮らすしょしんしゃのもりには、とても大きな老木がある。
地上からかなり高いところに猫が一匹は入れる程度のうろのあるそこは、猫達にとって憧れの棲家であった。
近くには川が流れていて、イネ科の植物が群生している。
それらはネズミの良い食料になり、身を隠す隠れ家にもなっていた。
だが、賢く狩に長けた猫であれば、そのネズミたちを容易に狩る事ができる。
何より、隠れ家としても優秀であった。
狼や熊といった猫を狩る事ができる獣は、大抵が木登りが得意ではない。
そのため、隠れやすく住み心地も良い老木のうろは、非常に優秀な隠れ家なのである。
猫達にとってご馳走であるネズミが沢山居て、ほかの獣が入って来れない位高い位置にある寝心地の良い棲家。
そこは猫達にとって、最高に理想的な棲家なのだ。
その理想的な寝床で、一匹の猫が丸まっていた。
体はなかなかに大きくたくましい。
つやの無い少しだけふわりとした毛並みは、闇に溶け込むような黒である。
まるで影を落としたように見事な闇色の猫の体躯。
唯一それが途切れるのは、金色をたたえるその双眸と、鋭い牙を隠す口。
そして、瞳から頬辺りまで一直線に走る、傷跡だけであった。
既に塞がって久しいその傷は、唯でさえ威厳に満ちた黒猫に、さらに迫力を与えている。
その傷は、黒猫が熊と戦ったときに出来たものであった。
普通であれば、猫達は熊に適わない。
それはいかに竜に教育された猫だとしても、同じ事である。
なにせ地力が違いすぎるのだ。
六本の脚と赤褐色の毛皮を持つこの森の熊は、恐ろしく凶暴で強力なのである。
普通の猫なら十匹掛りでも敵わないこの化け物を、黒猫はなんと一匹だけで倒してしまったのだ。
猫が熊を倒すなど、前代未聞の事であった。
まして受けたのは、そのまぶたから頬にかけての傷一つであると言うのだから、驚愕に値する。
この黒猫はそのときから、猫達の英雄となったのだ。
英雄たる黒猫の住処に、ぎゃぁぎゃぁと賑やかな集団が集まってきた。
白や黒、茶色や斑模様の毛皮の集団は、沢山の子猫たちである。
「きずのおじちゃん!」
「きずのおじちゃん、あそぼー!」
「あしょぼー! あーしょーぼー!」
うろの中でまどろんでいた黒猫は、不快そうに顔を上げ大きく欠伸をする。
のろのろとしたしぐさで顔を外に出すと、ぎゃいぎゃいと騒いでいる子猫たちが目に入った。
そういえば子育ての季節である。
どこぞの仲間が子猫の散歩をさせているのだろうと思った黒猫であったが、ふとその顔ぶれを見て目を細めた。
その子猫達は、今年竜の洞窟で生まれた子供達であったからだ。
と言う事は、当然それを引き連れてきたのは洞窟の主と言う事になる。
黒猫の予想通り、子猫達の近くには背中にコウモリのような翼を背負った猫が座っていた。
猫の姿に変身した竜である。
何事かと思った黒猫は、首をかしげながらものっそりと木のうろから這い出した。
するすると木を降りて地面に立つと、子猫達は一斉に黒猫へと殺到する。
老木の前は、彼らが狩りの練習に行くときの通り道であった。
その毛の色にふさわしく夜を狩りの時間としている黒猫は、昼間は寝床で体を休めるのを常としている。
昼間に狩りの練習をする子猫達とは、よく顔を合わせているのだ。
自身に子供が居ないためか黒猫はとても子猫達を可愛がっており、今ではすっかりなつかれていた。
子猫達を前足と尻尾で転がしながら、黒猫は竜の前へと進む。
「まだ寝ている頃合かと思ったのだが、すまないな」
「いえ。羽のおじちゃんがそれを知ったうえで訪ねていらっしゃるとは珍しい事。よほどの事なのでしょう。何事ですか」
「うむ。実はな、お前に王城に行って欲しいのだ」
竜の言葉を聞き、黒猫は目を大きく見開いた。
あまり人間を良く思っていないことで有名な竜がこんな事ををいうのが、とても珍しかったからである。
というよりも、黒猫は竜が積極的に人間の街に行けというのを、初めて聞いた。
「何かよほどの事があったのですか?」
「何が、と言うかだな。なんというか、人の王に、子供が生まれたそうなのだ」
「そうでしたか。それで私にお呼びが掛かった訳ですね」
黒猫は納得したように頷いた。
しょしんしゃのもりと呼ばれる猫達が暮らす森の近くには、人間達が住む国がある。
その国の王族は、代々森の猫たちと友好を結び、互いに栄えてきた。
王族に子供が生まれると、森や街に住む猫の何匹かが挨拶に行く。
猫が子供を気に入れば、友として生涯を過ごすのである。
「今の王の初めてのお子でしたか。オスでしたか、メスでしたか?」
「それがな、オスだったという話なのだ」
「成る程成る程、次の王になるオスという事ですか。成らば私を行かせようとするのも分かります。分かりました、すぐにでもいくとしましょう」
「行ってくれるか。すまないな」
竜はほっとしたように胸を撫で下ろす。
黒猫の噂は、街に暮らす猫達の間にも広まっていた。
多くの猫達にとって、熊を倒して退けた黒猫は誇りであり、自慢である。
次の王の友人になるのは、黒猫がふさわしいと言うのが、多くの猫達の思いであったのだ。
王の友人になる猫は取り立てて強くなければいけない、と言うわけではない。
ただ、殆どの場合、王の友人になる猫は、非常に優秀な事が多かったのである。
それは、一番最初に王と友人になった猫もそうであったのだと言う。
王の妻が身ごもったと言う話が出始めた頃から、竜の元には沢山の町に暮らす猫がやってきていた。
どの猫達も、強い猫は居ないかとせっつくためにやってきていたのだ。
国の人間達は、今度の王になる子供にはどんな猫が友人になるのかと、大いに期待しているという。
猫達はそんな人間達に、良いところが見せたいのである。
街に住む猫達は、とても人間を気に入っていた。
そして、猫と言うのは基本的にお調子者であった。
自分たちのお気に入りの人間達に、少しでも良い格好をして見せたいのである。
そのためか、黒猫が熊を倒した事を一番喜んだのは、街の猫達であった。
今でも時々街の顔役である猫が獲物を咥えてやって来ては、王に子が出来たら、顔を見るだけでも良いから寄ってくれと頭を下げていくのだ。
当然、竜もその事は知っていた。
竜のところにも、沢山の猫があの黒猫を説得してくれと集まってきたからである。
驚く事に、竜のところには街の猫だけではなく、森の猫達もやってきたと言う。
曰く、「街の人間達に、すごい猫を自慢してやりたい!」だとか。
つまるところ要するに、ケット・シーと言う猫はお調子者なのである。
「ですが、私が王子を気に入るとは限りませんよ?」
「そうだろうとも! 少し顔を見てくるだけで構わんのだ!」
今でも竜は、人間と言う生き物を信じ切れては居ない様子であった。
多くの猫達から頼まれたから仕方無しにやってきたものの、未だに人間と付き合うのは好ましく思っていないのだ。
それでも猫達が人間と友人になる事を強く止めていないのは、恐らく身内ゆえの甘さなのだろう。
子猫達と竜はその後しばらく遊んでから、洞窟へと帰っていった。
帰り際竜は、「くれぐれも言うか、顔を見るだけで構わんのだぞ。気にいらんだろうから、すぐに帰ってくるといい」と何度も念を押していった。
黒猫は苦笑いで、そのたびに了解の意を示す。
竜に言われなくても、黒猫はあまり王の子供と言うのには関心が無かった。
黒猫は生粋の狩人であり、自分の子供すら作っていないのだ。
子供が嫌いだと言うわけではなく、むしろ好きではあったのだが、あまり教育とか育てると言った事に自信が無かったのである。
そんな自分がいまさら人間の子供を気に入るとは、黒猫にはとても思えなかったのだ。
黒猫は子猫達と竜を見送ると、大きく一つ欠伸をした。
昼間の日が高い時間と言うのは、黒猫にとっては休息の時間なのである。
王城へ向かうのは今日の夜にしようと決めると、黒猫はするすると古木を登りうろのにもぐり込むと、体を丸めて寝息を立て始めるのであった。
夜が更けてから老木のうろを抜け出した黒猫は、のんびりと歩きながら人間達の街を目指した。
大急ぎに急げば翌日の昼には到着できるだろうが、そこまで急ぐ事もないだろう。
散策を楽しみながら、ネズミや虫、木の実などを食べつつ、黒猫は進んでいった。
ケット・シーは唯の猫と違い、木の実なども食べる事ができる雑食性である。
様々なものを食べられるのだが、味の好みは猫それぞれであった。
昆虫を好むものも居れば、魚を好むものも居る。
黒猫はとりわけ、動物の肉と木の実を好んでいた。
中でも、よく動き回って身の引き締まったネズミ。
そして、角が三本になった角ウサギが大好物であった。
前者は川沿いのイネ科の植物が群生した場所で、後者は森の中で時折見つけることが出来る。
ただ、どちらも有り付くにはなかなか骨の折れる獲物であった。
まず、イネ科の群生地に居るネズミは、穴を掘りなかなかそこから出てこないのである。
身を隠しながら近くの草をかじり倒し、その茎や実を食べて過ごすのだ。
そのため動き回る必要は無く、丸々と肥えているものが殆どなのである。
多くの猫は肥えたネズミを好むのだが、黒猫はよく動き回った身の引き締まったネズミが好みであったのだ。
最もそういったネズミは非常に少数派であり、見つけるのに非常に苦労する。
黒猫があの木を住処としたのは、それを見つける確率を上げるため、と言うのが一つであった。
後者である角ウサギは、普通の角ウサギよりも長生きしたものであった。
角ウサギは年齢によって、一年目は一本、二年目は二本と角を増やすのだ。
三本の角をもつ角ウサギとは、つまり三年生きた角ウサギと言う事である。
森に住む角ウサギは、その殆どが一本から二本の角を持つものであった。
最大でも四年しか生きず、また、子を沢山残して繁栄を図る種類の獣である彼らは、そもそも三年も生き残る事が珍しいものなのだ。
当然見つけようと思えば、広い範囲を相当の労力を割いて探し回る事になる。
黒猫が強くなったのは、そのための広い縄張りを得るため、と言うのが一つであった。
そう、黒猫は存外、食べることを愛するいわゆる食道楽であったのだ。
そんな黒猫にとって今回の遠出は、久しぶりの縄張り外の獲物を食べる絶好の機会であった。
たまたま見かけた小動物、木の実などを食べながら歩くのは、実に胸の弾むものであったのだ。
ほかの猫の縄張りを横切る事にはなるのだが、住み着こうとしない限り、猫達は基本的には寛大である。
あちらこちらと歩きながら、美味そうなものを見つけては食べていく。
結局黒猫が人間達の街へとたどり着いたのは、出発してから二日目の夜の事であった。
人間の街にたどり着いた黒猫は、早速王城へと向かった。
街の猫達に挨拶をして行こうかとも思ったのだが、辺りはすっかり暗くなっている。
ケット・シーは夜行性と思われがちなのだが、実は自分の好きな時間帯に起きているだけであった。
自分の好きな獲物が昼間に手に入りやすいのであれば、昼間起きて夜を寝て過ごす。
勿論その逆である事もあり、黒猫は夜に狩を行い、昼を寝て過ごしているのである。
そのため黒猫は夜を選んで街に入ったわけだが、街に暮らす猫はその殆どが昼を起きて過ごしていた。
人間達の近くに住む事を決めた彼らは、人間と生活様式を合わせていることが殆どなのだ。
こんな夜更けに訪ねていっても、おそらく皆眠っているだろう。
家々の屋根を飛び移りながら、黒猫はもっとも大きな建物、王城を目指して足を進めた。
王城は街の中心にあり、もっとも大きな建物である。
実は一度も王城にいったことのない黒猫であったが、よく目立つ建物であるため、迷う事はない。
街を歩いていれば猫に出くわす事もあるかと思っていた黒猫だったが、結局王城の外壁に着くまで人にも猫にも出くわさなかった。
やはり夜更けは、街に住む猫達にとって休息の時間のようである。
さあ、城の中に入ろう、と思ったところで、黒猫は大きな問題に突き当たった。
どうやって中に入るのか、という事である。
壁はとても高く、天辺には返しもつけられているため上りにくい。
門のほうへ回れば人が居るだろうが、急に現れた猫一匹をやすやすと通してくれるとも思えなかった。
さてどうしたものかとしばらく考え、黒猫は仕方ないとでも言うようにため息を付く。
尻尾を二度三度と左右に振ると、そこから淡い光が漏れた。
尻尾からいくらかの光で出来た粉のようなものが舞うと、するすると意思があるもののように前足と後ろ足に絡みつく。
これは黒猫が得意とする魔法の一つであった。
筋力と強靭さを底上げする、狩りには実に有益な魔法である。
黒猫はぐっと足を縮めて力をためると、思い切り地面を蹴った。
そして、人間の男二人分はあろうかという壁の天辺に、ぴたりと着地する。
壁の横幅は意外と広く、猫がすれ違えるほどであった。
こんなものを何に使うのかと考えた黒猫であったが、はたと竜の授業を思い出す。
黒猫は竜の洞窟で生まれ育った猫であったのだ。
竜の話に寄れば、この壁は身を守るためのものなのだという。
同じ人間やそれ以外の外敵が襲ってきたときに、この中に隠れるのだ、とか。
黒猫はその話を思い出し、成る程と納得した。
コレならばたとえ狼や熊が来たとしても、やすやすとは中に入って来られないだろう。
様は黒猫の住処と同じである。
だが、コレだけのものを作るのには、相当の労力が必要なはずだ。
元来お調子者で飽きっぽい所のある猫達では、とてもとてもこんなものは作り上げられない。
精々が、用便を足す穴を掘るぐらいであろうか。
それだけ人間達は勤勉で、この壁の中に居るものを守りたいということなのだろう。
そう考え出すと、黒猫は壁を簡単に乗り越えてしまった事にいささかの罪悪感を感じ始めてしまった。
わざわざ苦労して中に入れないようにと作った苦労を、無にしてしまったような気がしたからである。
しばらく悩んでいた黒猫であったが、今は考えても仕方ない事だろう、と、思考を切り替えることにした。
今はとりあえず、王の子供とやらを見に行くのが先決だと考えたからだ。
黒猫は王城のほうへと体を向けると、ひょいと壁を蹴り近くの建物の屋根へと飛び移った。
普通の人間や猫ではとても届かないであろう距離ではあるが、黒猫にとっては訳も無い。
黒猫は一度ぐるりと視線を巡らせると、王城へ向かって足を進めた。
城の中をいくらか歩き回り、いくつかの窓の前を横切ったところで、黒猫は自分が肝心な事を忘れていることに気が付いた。
王の子供というのがどこに居るのか、まったく知らなかったのである。
そもそも、黒猫は人間の子供というものを見たことが無かった。
森で暮らす黒猫が人間の子供と出会う機会など、皆無であったからだ。
どこに居るのか分からない、そもそも人間の子供がどんなものか分からないでは、まったく話にもならないではないか。
その事にようやく思い至り、黒猫は深い深いため息を付いた。
猫はお調子者で行き当たりばったりに物事をする事が殆どであった。
どうやら黒猫も、ご多分に漏れなかったようである。
黒猫は今日のところは探索を諦め、日が昇ってから王と友人である猫のところに行く事にした。
その猫であれば、王の子供の事もよく知っているはずである。
黒猫は小さな窓から城の外へと抜け出し、僅かな足がかりを見つけ上へと昇っていった。
今日はもう探さないとなれば、体を休める場所を探す必要があるからだ。
幸い、既に当てはつけていた。
城の窓から窓へと移っているときに、丁度よさそうな出窓を見つけていたのだ。
幸い今の時期は外気も暖かく、むき出しの場所であっても体が冷える事はまずありえない。
何よりも、高い位置にあって見晴らしがよさそうであるところが良かった。
黒猫は、高いところが好きであったのだ。
ひょいひょいと足場を飛び移りながら、黒猫は目的の出窓へと降り立った。
遠くで見ていたときよりもなかなかに広さを感じるそこは、人間も外に出る事ができるほどの広さである。
子猫達ならば、十数匹がのびのびと遊ぶ事ができるだろう。
掃除も行き届いているらしく、なかなかに清潔そうである。
黒猫は満足そうに目を細めると、早速どこで体を休めようかと辺りを見回し始めた。
そこで、城側の窓が僅かに開いているのを発見する。
恐らく換気と温度調整のためであろう。
内部を伺ってみると、なかなかに立派なつくりになっている様子である。
といっても、黒猫に人間にとっての価値が分かるわけでもない。
何とはなしに、広くて落着いた雰囲気であると分かる程度であった。
不思議と興味を引かれた黒猫は、窓の僅かな隙間から室内へと入っていく。
ここで、黒猫は生物の気配を感じ取った。
かなり微弱であるそれは、その主が寝ているか気絶しているかであろうことを感じさせる。
なんにしても、危険は少ないだろう。
それでも万が一のために、尻尾に魔力をためておくのは忘れない。
歩いているうちに、黒猫は足元に違和感を覚えた。
ほかの部屋と比べて、いやにもこもこしているのだ。
子猫を寝かせる、干草のようである。
次に、ほかの部屋に比べ家具の類が少なかった。
というよりも、硬そうなものが少ないのである。
タンスや机のようなものが無く、有ったとしても近くにはクッションのようなものが置かれていた。
黒猫は首をかしげながらも、部屋の中を見回していく。
すると、奇妙な家具が目に入った。
木の棒で作った箱を二段重ねにしたようなそれは、黒猫が今まで一度も見たことの無いものである。
もっとも黒猫はあまり街に来たことが無いので、知っている家具というのも少ないわけだが。
強く興味を引かれた黒猫は、その奇妙な家具へと顔を向けた。
どうやら先ほどから感じていた生き物の気配は、そこから来るものであるらしい。
黒猫は僅かに身構えながら、ゆっくりと奇妙な家具へと近づいていく。
気配を殺し、音を立てないように歩けば、暗闇の中に居る黒猫を見つけられるものはそうそう居るものではない。
徐々に距離をつめていく黒猫だったが、ここで思いもかけないことが起こった。
奇妙な家具の中に居るであろう生き物が、突然声を上げ始めたのだ。
ぐずぐずとした甲高い声は、まるで子供のようである。
黒猫ははっと何かに気が付くと、すばやく走り奇妙な家具の上へと飛び乗った。
中を覗き込んだ黒猫の目に映ったのは、なんとも頼りなげな、小さな生き物であった。
手足は短く、やわらかそうである。
筋肉は殆ど無いように見えるから、恐らく立つ事も歩く事もままならないだろう。
ぷにゃりとした顔は人のようではあったが、それにしては丸々としていてなんとも愛らしい。
一体何という生き物なのだろうと思った黒猫であったが、ふとその正体に思い至った。
この生き物は、恐らく人間の子供なのだ。
そう考えれば、合点がいくことが多い。
恐らくこの部屋は、この子供が怪我をしないように作られているのだ。
もこもこした床は、怪我をしないためのものなのだろう。
机やタンス等が無いのも、ぶつかる物を少なくするための工夫なのだ。
黒猫が妙に感心している間にも、子供はぐずぐずとした泣き声を徐々に大きくしていった。
子供、というよりも、赤ん坊という方が適切だろう。
黒猫は慌てて赤ん坊の枕元に降り立つと、その顔を覗き込んだ。
赤ん坊は突然現れた黒猫に驚いたのか、僅かに声を詰まらせた。
だが、すぐにまたむずがるような声を上げ始める。
黒猫はどうしたものかと考え、自分の尻尾に目を留めた。
子猫達が黒猫の尻尾にじゃれ付いているのを思い出したのだ。
黒猫は尻尾を持ち上げると、赤ん坊の顔の前でひらひらと動かした。
少しの間ぐずっていた赤ん坊であったが、徐々に声を落着け、目の前の尻尾に意識を移していく。
その様子を見た黒猫は、ほっと胸を撫で下ろした。
黒猫は赤ん坊の泣き声というのがどうにも苦手であった。
きんきんと響く高音は、夜の狩りを好む黒猫にとっては天敵なのだ。
人間の子供の泣き声というのは聞いた事がない黒猫であったが、予想をつけることぐらいならば出来た。
目方で言えば、赤ん坊は黒猫よりも少し小さいぐらいであろう。
そんな大きな赤ん坊が、あらん限りの声を上げて泣けばどうなるか。
恐ろしい想像に、黒猫は思わず身震いをする。
しばらく尻尾を揺らしていると、赤ん坊はすっかりその動きに夢中になっていた。
熱心にその動きを追い、何事か楽しそうな声を上げている。
言葉を話せる年齢ではないだろうから、恐らく楽しくてはしゃいでいるという所だろう。
黒猫は尻尾を揺らしながら、そっと身を横たえた。
こうしてしばらく遊ばせていれば、そのうち疲れて眠るだろうと考えたのだ。
なにより、赤ん坊の寝ているここは、存外寝心地が良かった。
赤ん坊をあやしている駄賃というわけではないが、一時の宿を借りようと考えたのだ。
うとうととしつつも黒猫はふりふりと尻尾を動かす。
赤ん坊は楽しそうに声を上げていたのだが、不意にその手を伸ばした。
思いのほかすばやいその手は、しっかりと黒猫の尻尾を掴み取る。
赤ん坊はすこぶる嬉しそうに声を上げ、その尻尾を口へと運ぶ。
黒猫は慌てることなく、するりと赤ん坊の手から尻尾を抜き取った。
気に入ったものを口に入れようとするのは猫の子供も人間の子供も変わらない様である。
よく子猫達の相手をしていた黒猫は、すっかりそれに馴れていたのだ。
手の中から尻尾が抜け出す感触が気持ちよかったのか、赤ん坊はきゃっきゃと声を上げて喜ぶ。
両手と両足をバタつかせ、全身で楽しさを表していた。
そしてしばらくすると、また興味を黒猫の尻尾へと移す。
少しの間尻尾を観察して、再び手を伸ばした。
尻尾を捕まえると、赤ん坊は自分の口へとそれを運ぶ。
当然、黒猫はするりと尻尾を抜け出させる。
その感触に、赤ん坊は実に嬉しそうな喜ぶ。
そんな事を何回か繰り返すうち、赤ん坊はうとうととし始めた。
そして、とうとう黒猫の尻尾を掴んだまま、ぐっすりと眠りに落ちたのである。
黒猫はその様子を確認すると、自身もゆっくりと目を閉じた。
日が昇り、しばらくした頃。
黒猫は何かが近づいてくる気配を感じ、ゆっくりと目を開いた。
横を見ると、人間の赤ん坊が幸せそうな顔で眠っている。
寝ている間中そうしていたのか、未だに黒猫の尻尾を握ったままであった。
無碍に振りほどくのも可愛そうに思い、黒猫は一先ず動かずに居る事にした。
近づいてくる気配が危険なものならばすぐにでも立ち上がりたいところではあるが、幸いそうではなさそうであったからだ。
耳がよく、気配にも敏い黒猫は、気配の主を人間のメスだと感知していたからである。
人間は危険な生き物だが、個体差が凄まじく激しい。
黒猫でも身の危険を感じるほどの相手もいれば、巣立ったばかりの若猫にすら脅威にならないものも居る。
近づいてくる気配の主は、どうやら後者側のものであると、黒猫は認識したのであった。
ドアが開き、気配の主が部屋の中へと入ってくる。
静かに音を立てぬように歩いているのは、恐らく赤ん坊を気遣っての事だろう。
猫は身じろぎもせず、じっとそちらの様子を伺った。
赤ん坊の方へと近づいてきた人間のメスは、黒猫に気が付き目を丸くする。
だが、流石はこの国の人間と言った所だろうか。
すぐに黒猫が尋常の猫ではない事を悟ると、ゆっくりと深呼吸をして己を落着けた。
「貴方は帝竜様が守る、森の猫様でいらっしゃいますか?」
帝竜というのは、森の竜の事である。
様々な知識と、膨大な力を持つ竜のことを、人間達はそう呼ぶのだ。
「ああ。確かに私は森に暮らす猫の一匹だ。人間の王に子供が出来たと聞き、顔を見るためにやってきた。だが、夜中に到着してしまってな。あちこち散策していたら、泣きそうになっているこの子に出会った。あやしていたら、いつの間にかこうなってしまったよ」
そういうと、黒猫は尻尾を持ち上げた。
赤ん坊の手はしっかりとそれを握っており、まったく動く気配も無い。
それを見た人間のメスは、思わずといった様子で笑いを漏らす。
「夜泣きが無かったのは、そういうことでしたか。どうやら王子は、貴方の事がお気にに召したようです」
その言葉を聞いて、黒猫は僅かに目を細めた。
黒猫の記憶が確かならば、王子というのは確か王の子供をさす言葉であったはずだ。
どうやら黒猫は、知らないうちに王子と出会っていたという事らしい。
黒猫は幸せそうに眠っている赤ん坊、王子の顔をまじまじと見つた。
やおら前足を伸ばすと、ぽんと王子の頬に乗せる。
黒猫は極力爪を立てないように気をつけながら、もにもにと王子の頬をこね回した。
王子は何かを咀嚼するように口を動かすものの、起きる様子はまったく無い。
「まいったな。子に会うときは先に親に挨拶をするものだと思うのだが、これでは私から会いに行く事ができない。呼びつけるのもまずいだろうから、順番が前後すると伝えてもらえるか?」
黒猫がそういうと、人間のメスはおかしそうに笑った。
赤ん坊が目を覚まし尻尾が開放されるのを待ち、黒猫は王の下へと赴いた。
黒猫が離れようとすると赤ん坊はぐずぐずと泣き出しそうになったが、黒猫が後でまた来ると声をかけると、不思議と泣き止んだ。
言葉が分かるほど成長していないと思われるのだが、言わんとした事が通じたのでだろう。
王は黒猫を、大層嬉しそうに迎え入れた。
どうしてかと思えば、なんと黒猫の噂は王の耳にも届いていたという。
「あの大熊を一匹で倒してのける英雄が居ると聞いたが、君がそうなのか! いや、確かに見事な面魂だ!」
豪快に笑う王に、黒猫は目を見張った。
見事な面魂だといった王であるが、黒猫に言わせればそれは王にこそ向けたい言葉であった。
普段余り人間を見ないため、黒猫にその外見の良し悪しはわからない。
だが、王の体躯はその黒猫の目から見てもすばらしいものに映ったのである。
時折森にやってくる、ぼうけんしゃとかいう連中よりも数段優れている事は間違えないだろう。
もし黒猫と王が戦う事になれば、恐らくなかなかに良い勝負をする事になるであると、黒猫は思っていた。
勿論、そんな気はまったく無く、よしんばそうなったとしても負けるつもりは一切無いのだが。
しかし、なぜ人間の街に住む王が、熊のことを知っているように話すのであろうか。
黒猫のそんな疑問には、隣に居た猫が答えた。
彼は王の友人であり、王に様々な魔法を教えた猫である。
「りー坊はね、昔はよくお城を抜け出して、森に遊びに行ってたんだ。そこで狩りをしたりもしてたんだよ。そのときに熊に追いかけられたこともあるんだ」
どうやらこの王は、随分と無茶な事をしていたらしい。
あまり詳しくは無いものの、黒猫は竜から人間達の暮らしについて教わっていた。
王と言うのがどういう役割を持つものかということも、きちんと知っている。
「その通り! あれには散々煮え湯を飲まされた! いくら魔術に長けるとはいえ、猫の身でそれを倒すとは! いやはや想像も付かない!」
豪快に笑う王。
その様子を見て、周りの人間達は至極苦しそうな表情になった。
人間の表情の機微にあまり敏くない黒猫だったが、それでも伝わってくるほどの苦悶の表情である。
恐らく王はこの人間達を相当に困らせているのだろう。
「時に、黒猫殿! 我が息子は如何か! お眼鏡に適いそうかな?」
この問いかけに、黒猫はどう答えたものかと首を捻った。
既に顔を合わせたとはいえ、やり取りは殆ど無く、あやして寝かしつけただけであったからだ。
一応別れ際に言葉を交わしはしたが、あの程度では何も分からない。
隣で寝ていた訳であるし、一緒に居た時間はそれなりにありはしたが、別に何を試すといった事をしたわけではない。
それではどうだったかと聞かれても、答えようが無いだろう。
黒猫がそのように言うと、王もその友人である猫も、顔を見合わせた。
そして、何事か思い出したように、王の友人である猫は笑い声を上げる。
何事かと首をかしげる黒猫に、王は笑いをこらえるような様子で話す。
「いやなに! コレが寝ているときに私がちょっかいをかけたのが、コレとの出会いでな! あれは私が五歳になった頃だったか! いや、面白い事もあるものだ!」
どうやら彼らの出会いとは逆であるといいたいらしい。
黒猫はまだ友人になると決めたわけでもないので、彼らとは事情が異なるはずだ。
そんな考えを黒猫が告げると、人間の王は成る程とうなずいた。
「ならば、じっくりと見定めていってくれ! なに、必ず気に入るはずだなどと親馬鹿な事を言うつもりは無い! 君は英雄なのだからな!」
大声で笑う人間の王に、黒猫は僅かに気おされた。
普段夜に静かな狩りばかりしている黒猫に、王の声はなかなかに響くものだったのだ。
この後2、3言葉を交わし、黒猫は王の下を後にした。
向かうのは、あの王子の下である。
会ってすぐに寝てしまったため、未だ言葉も交わしていない。
だが、なにやら面白いものであるという予感はあった。
歩を進める黒猫の足は、いつもよりも僅かに軽やかである。
王子の部屋へと戻った黒猫は、早速その器量を測ろうとその隣に腰を下ろす。
だが、はたとその方法にまったく心当たりが無い事に気が付いた。
なにか指針は無いものかと頭を悩ませ、以前人間と友人になった猫達にどうしてその人間を選んだのか、と尋ねたことがあったのを思い出す。
猫達が挙げた理由は、言い方こそ違うものの押しなべて同じような内容であった。
「なんとなく、一緒にいたいなーと思ったから」
どうにもまったく参考にならない話である。
唸りながら頭をひねる黒猫だったが、どうにもその方法は思いつかなかった。
どうしたものかと考えあぐねる黒猫を、王子は興味深そうに観察している。
あうあうと言葉にならない声を上げ、のっそりとした動きで手を伸ばした。
その手の先にあるのは、黒猫の尻尾である。
どうやら王子は、黒猫の尻尾がいたくお気に召したらしい。
じたじたと両手と両足を動かし、王子は黒猫の尻尾へと迫る。
どうやらまだハイハイも出来ないらしい。
それでも何とか両手両足をバタつかせ、徐々にではあるが前へと進んでいた。
黒猫はそんな王子の様子を、しばらくの間じっと眺めていた。
そして、何事か思い立ったのか、ふらふらと尻尾を揺らしはじめる。
王子は興奮した様子で声を上げると、猛然と手足を動かし始めた。
わずかに移動速度が上がったその様子に、黒猫は思わずといった様子で笑い声を上げる。
王子はまだまだ赤ん坊だ。
まだ見極めるも何もあったものではないではないか。
これではすぐにどうこうと決められるものでは到底ない。
だが、黒猫は赤ん坊を見定めようと心に決めていた。
一度決めたことを曲げるというのはよろしくない。
やり遂げることこそが肝要であると、竜もよく言ってたものである。
ならばここは、王子が見定めるに耐える年齢になるまで、そばにいるのも一興ではなかろうか。
この王子がどのように成長し、どのような男になるか見定めるのである。
突然の思い付きではあったが、黒猫にはそれがなかなかにいい考えに思えてならなかった。
そうと決まれば、やることがいくつかある。
まずは縄張りの放棄だ。
いつまた帰れるともわからないので、あの場所をほかの猫に明け渡す必要がある。
老木のうろはとても居心地がよく、餌場にも近い最高の寝床だ。
しばらく帰らないのであれば、ほかの猫に譲らなければならない。
となると、今度は城の中か、街中に縄張りを作る必要がある。
元々いた猫と争うことになるだろうが、黒猫は早々負ける気はしなかった。
何せ黒猫は熊を倒すほどの猛者であり、その黒猫に敵う猫などそうそう居ないのだ。
思い立ったら、行動は早いほうがいい。
まずは森の入り口近くを縄張りにしている猫に会いに行き、あの場所を放棄したと伝えなければならない。
猫達には独特の情報網があるので、あっという間に話は広まるだろう。
2、3日もすれば、老木のうろには新しい主が収まるはずである。
早速森まで走ろうと、黒猫はやおら立ち上がった。
そして、歩き出そうとしたそのとき。
がくりと体を引かれ、仰け反る様に立ち止まった。
何事かと振り向いた黒猫は、目に飛び込んできた光景に愕然とする。
なんと、王子が黒猫の尻尾をつかんでいたのだ。
それも、両手両足でを使い、体を起こしてである。
先ほどまでハイハイもできなかったはずの王子が、初めてそれを成し遂げ、黒猫の尻尾をつかんだのだ。
うれしそうにきゃっきゃとはしゃぐ王子を見て、黒猫は大きな笑い声を上げた。
黒猫が王子を見守るようになってから、五年が過ぎた。
その間に王子は二本の足で歩けるようになり、言葉を話すようになっていた。
どうやら王子は父である王子に似たらしく、実にやんちゃで腕白だ。
自分の部屋や廊下だけでは飽き足らず、庭園なども所狭しと走り回った、
物を倒したり壊したりしては、乳母であるという人間のメスと黒猫にこっぴどくしかられる。
一時は反省したような姿勢を見せる王子だったが、次の日にはやはり同じように走り回っていた。
人間達は一様にため息をついていたが、黒猫にはそんな様子が実に好ましく見えた。
元気がいいのは何よりいいことである。
どんなことでもそうだが、まずは体が資本なのだ。
丈夫な体があってこそ、何事にも取り組めるのである。
人間の成長は、猫のそれよりもずっと遅い。
しかし、王子の成長を見守る猫は、まるでそれがあっという間であるように感じていた。
つい最近まで四つん這いだと思っていた王子が、いつの間にか二本の足で走り回っているのだ。
いつも黒猫の尻尾をつかもうとしていたその手が、さまざまなものを握り締めているのである。
人間というのは実に不思議なものであると、黒猫はしみじみと思った。
その日も、王子は庭を駆け回っていた。
護衛達は慌てふためいているが、王子はまったくどこ吹く風である。
そのうち王子は走り回るのに飽きたのか、今度は木を登り始めた。
何とかやめさせようと声をかける護衛達だが、王子はまったく聞く耳を持たない。
黒猫は護衛達の前に出ると、ここは私が見るから安心するように、と告げる。
護衛達も黒猫の魔法の巧みさは重々承知であり、ほっと胸をなでおろした。
黒猫はもはや護衛たちにとって、救い主になっていたのだ。
もっとも、気まぐれに練兵場に現れて訓練の相手になるときは、まさに鬼神のごとく恐ろしい存在であったのだが。
毎日のように訓練に励んでいる彼らとの手合わせは、黒猫にとって恰好の狩りの訓練になっていたのである。
黒猫は王子の登っている木に前足をかけると、するするとその表面を登っていった。
あっという間に王子を追い抜くと、手頃な枝の上に飛び乗る。
王子は笑いながら、わずかに遅れて同じ枝へとしがみついた。
「流石はクロバネだな。私では到底追いつけそうもない」
クロバネというのは、黒猫の名前であった。
真っ黒なその体をカラスの羽のようだ、と、黒猫の母猫が称したのが切欠で付けられた名前である。
王子は枝の上にのぼり、黒猫の隣へ腰を下ろす。
黒猫が寝そべるのを見ながら、わずかに目を細めた。
「なあ、クロバネ。そろそろ私にも魔法を教えてくれないか?」
「教えん。宮廷魔道師とやらから魔術の鍛錬を受けるのは、八つになってからだろう」
ここ最近頻繁に出る王子の言葉に、黒猫はいつもと同じ答えを返した。
以前まではそうでもなかったのだが、ここ最近になって王子は急に自分に魔法を教えろと言い出したのだ。
何か心境の変化があったのだろうが、黒猫にはついぞ心当たりがない。
そっけない黒猫の答えに、王子はため息をつき、きょろきょろと周りを見渡した。
そして何事か考え込むように腕を組むと、決心したように膝を叩いた。
「なあ、クロバネよ。実は先日、私は冒険者と言うのをはじめて見てな。何でもそのものは有名な冒険者なのだそうだが、私はついぞ名前を聞いたことがなかった」
いつに無く真剣な様子で語りはじめた王子に、黒猫はわずかに眉を寄せた。
黒猫は王子が、それこそハイハイをはじめたときから一緒に居るのだ。
王子が知っていることは、黒猫も知っている。
確かに先日、とある冒険者達が国王に謁見に来ていた。
ここよりはるか遠くの国に現れた、魔王と名乗る輩を退治したと言う冒険者達である。
何でもなかなかに厄介なものであったそうで、いくつかの国が傾くほどに困り果てていたと言う。
この国や猫達が住む森には被害は出ていなかったものの、うわさだけは黒猫の耳にもよく入っていた。
何でも早々に竜が「猫に手を出せば殺す」と脅しを掛けたそうで、それを恐れたのか連中はこのあたりには一切手を出さなかったのだそうだ。
まあ、賢明な判断であろう、と、黒猫は思っていた。
羽のおじちゃんはよそには一切興味を示さないが、こと猫が絡めば欠片も手加減をしないのだ。
その脅しのついでに、彼らの手札のひとつであったと言う浮遊城砦を吹き飛ばしたと言うのも言葉に真実味を持たせる結果になったのだろう。
まあ、それはともかくとして、である。
その冒険者達は、魔王との戦いを援助したお礼とかで、各地を回っていたのだと言う。
そういえば兵力は貸さなかったものの、この国の王も物資は援助していたらしいというはなしは、黒猫の耳にも届いていた。
戦いの功労者であり、もっとも活躍したと言うその冒険者達が各国を回ることで、最大限の礼を表した形になるのだろう。
なにせ魔王と戦っていた国々は、どこも疲弊しきった恰好である。
すぐに出せる礼といえば、その位しかなかったのだろう。
しかし、と、猫は冒険者達の顔を見たときのことを思い出した。
何時もは冷静な黒猫が、そのときばかりは思わず大声を上げてしまったのだ。
何しろ居並ぶ冒険者達の中に、一人、いや、正確には一匹、よくよく見知った顔を見つけたのだから。
人間の社会にまぎれて冒険者になるとはいっていたし、多少便宜も図った。
だが、まさかこんなことになっていようとは。
もしこれが竜の耳にでも入れば、おそらくただではすまないだろう。
そもそもアレが冒険者になって魔王とやら戦っていると知れば、羽のおじちゃんは間違いなく血相を変えて割り込んでいたに違いない。
最もそうなった場合、十中八九人間の国も魔王とやらと共に消し飛んでいたのだろうが。
まあ、それもともかくとして、である。
「なあ、クロバネよ。私は城を出たことがほとんど無い。父上や護衛諸君に守られて散策に出た程度だろうか」
それ自体は別に、不思議なことではないだろう。
何せ王子は、一国の王子なのである。
おいそれと外へ出せるわけも無い。
ましてまだ齢五歳の子供である。
それに、王子は知らない事実であろうが、これでもほかの国の王族に比べれば外出は多いほうなのであった。
王その人が昔はよく城を抜け出し、しょしんしゃのもりを闊歩していたことが原因であるだろう。
「あの四人の冒険者達を見たとき、私は大いに驚いたのだ。今まで父上とクロバネの纏っているあの雰囲気は、父上は王たる者ゆえ、クロバネは強者ゆえだと思っていた。だが、どうだ。冒険者であると言うあの者達が、父上と同じほどの気配を持っているではないか!」
それは確かに、黒猫も感じていたことであった。
一人のオスと、二人のメス、そして、一匹のオス。
どのものも実によい気配を纏っていた。
強者のそれ、とでも言えばいいのだろうか。
とはいえ、当然黒猫は彼らと戦っても、負ける気は一切しなかった。
森での狩りをしていないとはいえ、黒猫は今も猫の英雄であり、狩りの名手なのである。
「それを見て私は思った。冒険だ。冒険こそがそのものを強く、逞しく変えるのだと。思えば父上もクロバネも、あの森で冒険の日々を送っていたではないか!」
黒猫の暮らしていたしょしんしゃのもりは、本当の意味で初心者の森では無くなっていた。
竜が居なかった数百年前ならばいざ知らず、今やあの森は世界でも類を見ない魔の巣窟である。
そんな森での生活を冒険と言うのであれば、黒猫はまさに冒険の中に身をおいていたと言っていいだろう。
「ならばクロバネ。私は冒険をせねばならんだろう。立派な王に成る為に。父上や、あの冒険者達以上の冒険をせねばならん! いやさ、少し違うな……」
王子は考え込むように腕を組むと、うなり声を上げる。
そして、何事か思い立ったのか、ぽんと手を打った。
「クロバネ! 私は君のように成りたいのだ!」
その言葉に、黒猫は木から落ちそうになるほど動揺した。
いったいどういう理屈で自分の名が出てくるのか、理解できなかったからだ。
「父上やあの冒険者達が纏っていた気配は、間違いなく英傑のものだろう! だがなクロバネ! 私のもっと身近に一匹、彼らを凌駕するものが居る! 君だ! 私は王に成るものである前に、君の隣に立つにふさわしい男となりたいのだよ!」
王子にとって黒猫は、常に身近に居る存在であり、友人にも似た存在であった。
その関係は、今の王とその友人である猫に似ているだろう。
だが、同じではない。
黒猫はまだ、王子を友人として認めていなかったからである。
黒猫はいまだ、王子を見定めている最中なのだ。
「ならばクロバネ。やはり冒険だ! 君の横に立つためには、冒険をせねばならん! そのためには魔法が必ず必要だろう!」
熱心に語る王子を見て、黒猫はあきれたようなため息を吐いた。
なんとも突拍子も無い発想をする王子である。
歴代の王族は、猫と友人になることで魔法の教えを受けてきた。
だがこの王子は、猫と友人に成るために、魔法を教えてくれと言ってきたのだ。
なんとも変わった、なんとも面白い王子である。
だがその言葉は、大いに黒猫の心を揺さぶった。
英雄たる黒猫と友人たる為に、その黒猫に魔法を教えてくれと言うのだ。
突拍子も無い、子供の思いつきのような話である。
まあ、まさに子供であるわけだが。
黒猫は大声を上げて笑った。
なんともむちゃくちゃな王子である。
だが、その無茶っぷりが、黒猫には心地よかった。
「王子よ。私に並び立つと言うのならば、魔法だけでは無理だ。魔法に、爪と牙。これこそが猫の武器なのだからな。人間ならば武器も使えなければ成らん」
「そうか。ならば武器の扱いも覚えよう」
「冒険に出るのであれば、言葉遣いも使い分けられなくてわな。冒険者と言うのはいかにも荒々しい言葉を使う」
「そういうものか。ならば、それも練習せねばな」
護衛も乳母も話しを聞けない木の上で、黒猫と王子は大いに語り、大いに笑いあった。
この王子が、黒猫と共に城を抜け出し、国をも抜け出し。
さまざまな国をわたり、さまざまな冒険を経験し。
いつしか英雄王と呼ばれ、七英雄の一人と呼ばれるようになるのは、いま少し後のことである。