接触、契約
本物の『黒猫』を見付けた時、契約が交わせるだろう。
必読はここまでです。想像以上に長くなってしまったごめんなさい。
夜空には三日月が輝く。俺は再びヴァイスストリートを訪れていた。手にはあの日見付けたカード。静かな路地に俺の息遣いだけが木霊する。
一体どのくらい此処で立ち尽くしていただろうか。あの日の屍は誰かが処理をしたようで血痕すら残っていなかった。手元の携帯端末に表示された時間は午前二時を過ぎている。
こんな場所で何時間も来るかどうかすら分からない相手を待って、俺は一体何をしているんだろうか。あと三十分、あと三十分待っても来なかったら帰ろう。
そう思って顔を上げた時、ひとつの足音が聞こえた。ヒールを履いているのだろうか。狭い路地に反響するその足音は確実にこちらへ向かってきていた。もしも、殺されたりしたら。逃げ出したくなる衝動を抑えて、道の先を見つめる。徐々に大きくなる足音に、速くなる鼓動。緊張が最高点に到達した時、一つの影が目の前に現れた。
三日月を背負い、立ち止まる人影。逆光で顔は良く見えないが、シルエットからしてどうやら少女のようだ。
「今晩は」
少女らしいソプラノの、楽しそうな声。一歩、その少女がこちらに踏み出したことで顔が見えた。およそヴァイスストリートに似合わぬ、まだ幼さを残した少女がこちらを見て微笑んでいる。俺よりもいくつか年下であろうその少女は十四、五歳くらいだろうか。夜闇によく似た濃藍の髪は胸の下辺りまでのストレートで、金色の大きな瞳。童顔だが整った顔立ちをしていた。綺麗、と言うより可愛い。厚底の膝丈ブーツに黒い網ニーハイ、フリルの沢山ついた真っ黒なゴシックロリータのワンピースには独特な形をした白いコルセットが着けられ、その上から赤く大きなリボンが背中で結ばれていた。羽織ったフード付きケープは同じく真っ黒で、赤いリボンで留められている。その首には、同じく赤いリボンにつけられた鈴が揺れていた。俺の肩程までしかない身長も相まって、まるで人形のようだ。
「……今晩は」
不信感を全面に表した声音で返事をしても、少女は微笑んだまま。
「こんな時間にこんな所で、なにをしているのですか?」
柔らかい声が俺に問う。何故少女がこんなところにと考えるより先、頭に浮かぶのはあのサイトで見た言葉。目の前の少女に、思い付いたのは一つの可能性。確か、黒猫を探していると言う事を口外してはならないんだったか。
「ちょっと探し物を」
「探し物、ですか。私もお手伝いします。何をお探しですか?」
これは困った。何を、と訊かれても答える事は出来ないじゃないか。返答に迷って手中のカードに目を落とす。
あ、そうか。
「三日月を見上げる、えっと、黄色い目に、鈴のついた赤い首輪の黒猫を探しているんです」
間違ったことは言っていないはずだ。手中のカードには確かに三日月を見上げるその猫が描かれていた。
「そう、なんですか。……それは良かった、お探しの猫は見付かったみたいです」
その言葉に驚き顔を上げれば、いつの間にか少女は目の前で笑っている。満面の笑みを浮かべ、それはそれは楽しそうに。
「は?」
茫然と見つめる俺に、少女は右手を差し出した。いつまでもその手をとらないでいれば、痺れを切らした彼女は無理矢理俺の右手をとる。
「ハジメマシテ、契約者様」
あくまでも可能性として考えてはいた。だがこんな、俺よりも年下にしか見えない少女が本当にあの情報屋『黒猫』なのだろうか。
何も答えない俺に構わず、少女は一枚の紙とペンを差し出した。その紙の一番上には『契約書』の文字。
「これにサインお願いしますー」
まだ信じられないが、取り敢えず壁を台代わりにサインをして彼女に渡す。それを受け取った彼女は至極楽しそうに笑い、俺に抱き着いてきた。
「契約完了です! これからよろしくお願いしますね、ゴシュジンサマ!」
「あ、嗚呼……」
俺の胸に顔を埋め、ご機嫌で鼻歌を歌う少女。これからどうすれば、と持て余した手は空中を彷徨う。すると黒猫の頭を何かが叩いた。
『いつまでやってるの。困ってるじゃないか』
不意に近くで聴こえる声に辺りを見回すが、生憎俺とこの少女以外に人影は見えない。一体なんなんだ、と思うよりも先に少女が声を上げた。
「痛いよスイ!」
叩かれたらしい頭を押さえ、少女は右斜め後ろを振り返る。当然そこには何も居ないはずなのだが、彼女はお構いなしに話し続ける。
「何も叩くことないじゃない」
『あーはいはい僕が悪かったよ。ほら、もうちょっとちゃんと挨拶したらどうなの』
姿は視えないのに、少年のような声だけが聴こえる。何が起きているのか分からず目を白黒させていると、俺から一歩離れた少女がスカートの裾を掴んで優雅に一礼して見せた。
「ご挨拶が遅れてごめんなさい。私は情報屋『黒猫』。もとい、『りん』と申します」
「え、あ、どうも。俺はシヴル。シヴで構わない」
慌てて姿勢を正し、自分も名乗る。一瞬嬉しそうに笑った少女は、再び後ろを振り返って姿の見えないなにかに声を掛けた。
「スイ、スイもご挨拶しなよー!」
『言われなくても解ってるよ』
その言葉と共に、一瞬強い風が吹いて彼女の髪と服を揺らす。音をたてる鈴に気を取られていれば、りんと名乗った少女の視線の先に声の主が姿を現した。
見た目は十歳そこそこの男の子。群青色の水干に似た装束に、同色のロングマフラー。垂らした袖とマフラーの先には鈴が着けられている。今は神事以外で見ることはなくなったような服装だ。それよりも驚いたのは蘇芳色の瞳、癖のついた白金の髪、そしてその髪の隙間から覗く、同じく白金の獣耳と揺れる尾だった。
「初めまして、シヴルさん。……まあ、貴方がカードを探しに来たのを見ていたから本当は初めてじゃないんだけど。僕は、翠嵐。見ての通り人間じゃない」
「スイはね、天狐なんだよ!」
「りん。僕はもう空狐だよ」
開いた口が塞がらない。天狐だの空狐だのと言っている、ということはつまり妖怪なのだろうか。確かに、人間ならば耳も尾もなければ姿を消すことだってできやしない。俺はそういう『人間じゃないモノ』は信じている性質だ。でも、一つ気になる事がある。
「……天狐でも空狐でも良いが、一尾なのか? 天狐も空狐も九尾狐だったと思うんだが」
「だから空狐だって。……僕は生まれつき一尾なんだ。だから山を追い出されて、そこでりんに会った。そこからは恩返しというより腐れ縁、かな」
「スイはね、私の大事な親友で、大事な相棒なんだ!」
翠嵐の袖を握って、りんは自慢気に笑った。その話から推測するには、情報屋『黒猫』と言うのはりんと翠嵐のコンビで成り立っているらしい。
「じゃ、自己紹介も済んだところで。シヴはどんな情報が知りたいの?」
先程の笑顔から一変、りんが真剣な顔で尋ねてくる。なんとなく罰が悪くなって、あーだのうーだのと言葉を濁しつつ視線を彷徨わせた。
「あー、その話なんだけどさ……」
「うん。何でも言ってよ! 今はシヴが私のゴシュジンサマなんだから」
期待に満ちた視線を向けられて言葉に詰まる。言い辛い。とてつもなく言い辛い。が、嘘を吐こうにも上手い嘘が思い浮かばない。沈黙に耐え切れず、俺は素直に話すことを選んだ。いつまでも期待させても悪いだろう。
「えっと、あの、な?」
「うん!」
「無茶苦茶言い辛いんだけど、その……無い、んだよな」
「え、ない? 私を探してたのに?」
きょとんとしてただでさえ大きな目を見開くものだから零れそうで怖い。罪悪感に押しつぶされそうだ。
「ただ、ネットで情報屋『黒猫』の噂を聞いて気になって……本当にごめん!」
勢いよく頭を下げる。それこそ、自分の足に鼻先がぶつかるほどに。ああ、身体が痛い。
暫くそのままの体勢で固まっていれば、目の前にいたりんが失笑した。それに釣られるように翠嵐の控えめな笑い声が聞こえる。
「わ、私と契約して『調べたいことはありません』って、あはははは!」
「ふふ、りん、そんなに笑っちゃ失礼だって、ふふふ」
拍子抜けして顔を上げた。長い袖で口元を覆って笑いを堪える翠嵐と、女の子らしさは何処に行ったのかと思う程お腹を抱えて大笑いするりん。笑ってはいるが翠嵐の方がよっぽど控えめで女性らしい振る舞いだ。……妖怪に性別があるのかは知らないが、見た目からして翠嵐は男だとは思う。やはり空狐のように身分の高い妖は振る舞いも優雅なのだろうか。
「いや、あの、りんサン?」
未だ笑い転げるりんに戸惑いながら声を掛けた。りんは笑い過ぎた所為で出た涙を拭い、何度か深呼吸をしてから漸くこちらを向く。
「はーお腹痛い。シヴって面白いんだね、気に入ったよ」
「え、気に入ったって……じゃあ契約は」
「契約は続行、だよ! 勿論、衣食住と身の安全は確保してもらう。情報がいらないなら報酬はもらわないけど、シヴと一緒なら楽しそうだもん! ね、スイ」
後ろで手を組んだりんは翠嵐に同意を求めた。そんなりんに頷いた翠嵐は、今一度俺に向き直って礼儀正しく一礼。
「これからお世話になります。……先に言っておくけど、りんはこんなだからきっと苦労するよ。まあ、りんに気に入られたのが運の尽きだと思って諦めて」
「なによー! だいじょーぶだって、きっと毎日楽しいよ!」
どうやら翠嵐は優雅な振る舞いに似合わず毒舌らしい。そんな二人のやり取りに苦笑してみせれば、りんが再び俺に抱き着いてきた。
「改めて、よろしくねシヴ!」
「嗚呼。こちらこそよろしく」
楽天家なりんと、毒舌だが面倒見の良い妖怪翠嵐。これから賑やかになりそうだ。そんな事を思いながら、三人で帰路についた。
シヴはりんちゃんに振り回されてればいい。そして翠嵐はそれを見守る係。
翠嵐はそのうち過去話を書くかもしれない。あくまで予定は未定です。