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閻魔王と姉の初恋

作者: 武田花梨

 地獄の一丁目。

 ヨーロッパの宮殿を思わせるレンガ作りの屋敷。そこに似合わぬ、和装姿の少女、(みお)。黒く長い髪が印象的で美しい。人間的な見た目で言えば、十八歳だが、実際は……。

「姉上。あねうえー! あーねうえっ!」

 玄関ホール脇の窓から外を見ていた澪に話しかけたのは、金色の装飾品を体中につけた少年。そこはかとなく漂う凛とした雰囲気、自信から出る余裕が、見た目の年齢よりも大人びて見える。

「なんですか、閻魔王。もう姉と呼ぶことははやめてくださいと、何十年も前にお願いしたでしょう」

「俺……私が閻魔王になろうとなんだろうと、姉上は姉上だ。二人の時はいいだろう?」

 弟とわかっていても頬が赤くなってしまいそうな笑みを向ける。二人は腹違いの姉弟だ。

「いや、今日はそのことじゃない。他に聞きたいことがあってな」

「何か?」

 弟のためらいがちな態度に、澪は不安になる。いつも、なんでも思ったことを頭で考えずに口に出すような人だ。それが正しいから、閻魔王のカリスマ性は高いのだが、姉としては時折無遠慮にすら感じる。だからこそ、今の状態が珍しい。

 言いにくそうにはしているが、性分に合わないのだろう。まっすぐに澪を見つめ口を開く。

「姉上、俺に嘘ついているだろ」

 わかりやすく、肩が揺れてしまう。

「……閻魔王に嘘をつくバカはいません。ただ、口にしていないだけです。黙秘します、黙秘」

「閻魔王に黙秘が通じるわけがないだろう」

 大きな手で、頬をつかまれ、唇を尖らせられる。

「やめれよ」

 うぐうぐ呻きながら手を離そうとするが、体格のいい弟には敵わない。閻魔王は手を離し、着物の懐から鏡を取り出す。

「これで姉上を映すぞ。いいのか?」

 手にしているのは浄波璃の鏡だ。生前の善悪を映し出すもの。

「わたしたち、生きているとか死んでいるとか、そういう人間みたいな概念がありません。何も映らないはずです」

「バレたか」

「どれだけバカだと思っているの、あなたは」

 すると、閻魔王は、澪と同じように窓の外を見た。

 暗黒の雲、血が吹き荒れる池、針の山は遠くに見えるが、この辺りは綺麗な家が立ち並んでいる。

「あなたが閻魔王になって、一丁目も変わった」

「いいものは取り入れないとなっ」

 嬉しそうに言われるが、澪はため息。人間界に毒されている。悪いことではない、と何度も心に言い聞かせる日々だ。澪が何かを言ったところで考えを変えることはない。

「今度、アウトレットモールも建築予定だ」

「シネコンの次はアウトレット? 何を売るのよ」

「姉上が可愛くなる服!」

 日ごろ、閻魔王として働いているときとは違い、昔のような無邪気な笑みになっていく。

 だけど、澪は今着ている服を見て顔を引きつらせた。

「今だって、神に仕える巫女のような形で不評なのに。これ以上どうするっていうの」

「巫女とはちょっと違うだろ、色とか。あんなのと一緒のデザインなんて無理無理。これは俺のオリジナル。あとこの大きなリボンの帯がいい」

 体の前で大きく結ばれたリボンの帯をちょいちょいと引っ張る。

「そのうち、メイド服とか着せられそう」

「あ、いいね!」

 よくない、と思いつつ、話がそれてほっとした。

「姉上は冷たいなー。俺はこんなに好きなのにー」

 後ろから、ぎゅーっと抱きしめてくる。

「弟なんてカンベンです」

「俺の両親は姉弟だよ?」

「わたしの両親は違います」

 前閻魔王は、息子に後を継がせたあとは、妻複数を連れいろんなところに遊びに行っている。人間界も含め。

 姉弟での結婚もありの世界だが、澪は違う。とはいえ、後ろから耳元で囁かれ続けると、どうにも落ち着かないのだが。

「じゃあ睦月(むつき)ならいいんだ」

「うん」

 反射的に頷いてしまう。しまった、やられたと気がつく頃には、弁解のしようがなかった。

 この話に持ち込むために、わざと嫌がっている話をしてきたのだ。

 抱きしめられたままの腕を解くと、口を結んだまま閻魔王を睨む。しかし閻魔王は飄々と首を可愛らしくかしげる。

「わたしの片思いよ、彼に罰を与えるのはやめて」

「どうかな。あいつは俺の司録(しろく)だ。姉上に色目を使っていたとなれば問題だ」

 さきほどまでの無邪気な顔はどこかへ、また閻魔王の顔に戻り、澪に冷たくなる。

「使われていません。あなたなら分かるでしょ? 睦月はとても真面目で、あなたに忠誠を誓っているのに」

 じっと弟の目を見て否定する。

「認めたくはないが、姉上の言い分が正しい。だが」

 閻魔王は、澪の顎を持ち、強引に自分の方へと顔を向かせた。吐息がかかりそうなほど近くに顔がある。呼吸するのも躊躇われるような、時が止まったかのような空気。

「俺と結婚するか、またはどこにも行かずに私に仕えるか。それしか道はないよ、姉上。俺から離れることは出来ない」

 嫉妬、と言えばそれまでだが、閻魔王の顔は真剣で、気持ちは痛いほどわかった。

 両親を見て、自分も姉と結婚するのだと思い込んでいたのだろう。弟にとって、澪が初恋の人であり、手に入れないと気がすまないという性格上、諦めるというのは選択肢になさそうだ。

 しかし、澪にはそういった考えがなく、昔から無碍にしていた部分はある。澪の両親は他人同士だ。母は、前閻魔王に仕えていた者の妹らしい。結婚前に、部下の家族に手を出すとは。先代の閻魔王は大変お盛んだ。

それに、と澪は弟から目をそらす。

 誰かを好きになるとはどういったことなのかもわからない。

 弟のことだって好きと言えば好きだが、他の誰かのものになってもさほど心は揺れ動かない自信はある。

 けれど、最近弟の司録、つまり一番の側近であり、補佐を勤める男である睦月に対する感情は違う。

 側にいたい、他の誰かと話して欲しくない。今の閻魔王の、澪に対する感情と同じことを思ってしまうくらいだ。

 これが恋なのだろう。

 だけど、結ばれることなんてない。弟の言うとおり、姉となれば、一生を閻魔王に捧げる以外の道はない。 閻魔王にとって、妹はいない。姉も澪だけ。男兄弟すらいない。

 わかっているから、誰にも言わなかったのに。気持ちをむき出しにされ、澪はいたたまれなかった。ぼそぼそとした声で、反論する。

「そうやって怒るから、言いたくなかったの」

「怒ってなどいない。そんな器の小さな男に見えるか」

 ふてくされたように、澪から手を離す。

「今の一連の流れだって、どうせ人間界のドラマを見てマネをしたのでしょう?」

 すると、また昔のいたずらっ子の顔で舌を出した。

「そう、司命の夏目に面白いもの色々探させているんだ。今は海外のドラマも沢山あるから楽しくて仕方ないな!」

 司命(しめい)も、司録同様閻魔王の右腕なのだが、最近ではすっかり人間界からの情報収集ばかりさせられている。司録の睦月と違い、司命の夏目は先代閻魔王から仕えている人だ。澪にとっても「じいちゃん」と呼ぶ親しい仲なので、変な扱いをしないで欲しい。

 とはいえ、夏目も人間界では楽しくやっているらしいが。

「で、どうする。睦月に気持ちを伝えるのか?」

「言わないよ。さっきあなたが言ったんじゃない。わたしはどう転んでも、閻魔王に仕えなくてはならないって」

 諦めは最初からだ。言ってどうにかなるものではない。

 言った本人の閻魔王が、悲しそうな顔をする。

「俺は、こうして姉上に好き好き言えるけど……片思いって大変だな」

「いや、あなたも片思いだからね。ちゃっかり両想いの雰囲気出してもダメだから」

 しかし、閻魔王は「次は初恋と片思いをテーマにした映画とドラマを頼もう」と、懐にしまってあるメモ帳に書き記している。

「あー、スマホ欲しい。タブレットでもいい」とぼやきながら。残念ながら、電波がない。

「ほら、仕事戻りなさい」

 背中をぐいぐい押すと、閻魔王は澪のリボンを手にした。

「私の仕事を手伝いなさい、澪」

 打って変わって落ち着いた声。弟ではなく、閻魔王の口調で言う。逆らえない命令に、しぶしぶ澪は「わかりました」と返事をする。

 仕事を手伝う……つまり、人間界から送られてきた、罪深い人間の相手。地獄の門が開かれる一丁目。もちろん、睦月もそこにいる。

 絶対、楽しんでいる。

 弟の鬼畜っぷりに苦い思いをしていると、本物の鬼畜が「お疲れ様でーす」とにこにこ笑顔ですれ違っていった。

 社員教育はばっちり。お給料もちゃんと給料日に入る。労働組合もあるし、労働基準法も厳密だ。破ったら即・針の山に送られるのだから、破ろうなんて鬼畜はいない。

 人間界のブラック企業よりよほどクリーンな労働環境だ。



 死者は毎日現れる。

 閻魔王が相手にするのは、悪いことや、自殺をした人が主だ。たいては、流れ作業で地獄行きになるが、時折、時間をかける人物もいる。

 この日も、数秒の面談で書類にどんどんとはんこを押していく。その書類の整理と、死者の案内をする手伝いをするのも澪の仕事だ。当然そこには睦月もいる。意識したら、また閻魔王にちょっかいを出される。無心となり、次々と送られる紙と人を整理していく。

 透き通るような白い肌、神経質そうに銀縁のメガネフレームを押し上げる仕草。メガネは「秘書といえば!」と、閻魔王が無理矢理装着させているだけなので、邪魔に思うのは仕方ないが、その仕草でさえも澪にはまぶしい。切れ長の目、堀の深い顔。長い手の指に、薄いピンクの爪。

 誰かを好きになるって、こんな細かいことまでもが愛しくなることなのだろうか。

 澪は一人顔を赤くする。いけない、閻魔王には見られないようにしよう、と書類で顔を半分隠した。

 面談中の閻魔王に、さすがに澪の一挙一動をチェックする余裕がないのが救いだ。書類の影から、睦月をちらちらと見やる。こちらも忙しそうにしていて、澪のことなど気にも留めていない。

 流れ作業の最中、閻魔王はある一人の男の前ではんこを押すことを躊躇った。

 書類を持ち上げ、その男との顔と見比べながら読み上げる。

「好きな女に貢ぐため、会社の金を横領した挙句、その女は金だけ持って別の男の元へ行き、傷心のまま交通事故……。そして最後には地獄に来てしまうとは。あまりの不幸コンボは疑わしいのだが、これは事実か?」

 閻魔王は書類に書かれた文章を要約し、目の前に立つ男に声をかけた。

 苗字は人間界に置いてきた男、正樹。地獄に落ちた理由は、会社の金の横領だ。だが、その後の不幸に閻魔王は興味をもったようだ。

「どうせドラマみたーい、とか思っているんでしょうけどね」

 ぼそり、と澪の独り言が聞こえたのか、その場にいた面々の視線が一斉に突き刺さる。図星なだけでしょう、と慌てるが、恥ずかしくなりうつむいてしまう。

「……で、お主は地獄に落ちる覚悟をしてまで、その女を好いていたわけだが」

「地獄が本当にあるとは思わなかったんですけど」

 困惑した表情で、正樹は口を開く。年齢は三十二ではあるが、清潔感のおかげか、実年齢より若い。地獄に来るような人間は、大抵年齢より老けて見える気がする……という澪の個人リサーチの結果もある。悪いことをする人間、自殺をするほど思いつめた人間とは正反対の外見だった。

「地獄はともかく、罪に問われるようなことをしてきたのは事実だ」

 閻魔王は書類に目を通しながら確認していく。

「で、挙句犬死。だがなぜ、そのようにすがすがしい顔をしていられるのだ?」

 澪も彼の表情に注目した。

 後悔もない。罪悪感もない。まるで子供のような、純粋な瞳。物怖じせず、じっと閻魔王を見つめている。

 なぜ、こんな表情ができるのだろう。

「閻魔王、かの者に質問してもよろしいですか?」

 おずおずと澪が声をあげると、閻魔王はちらり、と見やった。

「慎め。といいたいところだが、今回は特別だ。言ってみよ」

 自分も色々質問して聞いてみたいんじゃないの、とは、今回は言わなかった。こういったドラマ性のある人物には足止めしてもらい、何か話してくれないかと日頃目を輝かせているというのは誰しも知っている。

「そこまで、人を好きになるってどんな気持ちなんでしょうか。こんな地獄に落ちてまでの価値があるというのでしょうか」

「こんな、とは失敬だな。住み良い街にしているつもりだぞ? 人間界の区画整理を参考にしつつも改善し、新興住宅地の……」

「そういう話はいいです」

 クセで、弟の顔を睨みそうになる。閻魔王は気を抜くとすぐ砕けた口調になるから、つられそうになる。

「正樹とやらに聞いているのです。それで、どうなのです。金を持って逃げたその女に、あなたは価値を見出せたのですか」

 睦月も見ているのに、なんてことを聞くのだ。横並びになっている閻魔王の向こうにいるだろう、睦月の表情は窺うことができない。

 澪の真剣な表情に、正樹はすぐに口を開かなかった。そして、言葉を選ぶように視線をめぐらせる。

「価値なんて。そんなこと考えもしなかった。ただ夢中で、彼女のためになりたくて……。気がついたらここにいた、という」

「短絡的な人間ですね」

 ここにきて、初めて睦月が口を開いた。

「あなたの人生はあなただけのもの。なのに、一人の他人に振り回され、あげく地獄へ来てしまった。そのことに後悔は? 迷惑をかけた人への謝罪の気持ちは?」

 畳み掛けるような言葉に、澪も目をみはる。睦月が感情を表に見せることはそうそうない。

 睦月に何があったのだろう。彼のことは何も知らない。突っ込んで聞く勇気もないけれど。

「閻魔王、よろしいですか。わたしがかの者と二人で面談して、それを閻魔王にお伝えします。後ろも詰まっておりますし」

 再び手をあげた澪に、閻魔王は眉をひそめる。しかし、後ろから待たせるなとか、仕事が遅い、役所仕事だという野次が飛んできているのも事実だ。

「しかし……」

「そういたしましょう。正樹、こちらへ」

 澪が正樹の腕をとり、建物から出ようとする。その姿に、閻魔王は椅子から立ち上がる。

「あねう……」

 男の手などとるとはどういうことだ、と言おうとしたが、死人相手に嫉妬も見苦しいと思ったのか、閻魔王は表情を引き締め椅子に座りなおした。ここは公の場だ。

「任せた。では、次」

 背中から嫉妬の炎を感じながら、澪は正樹を連れ出すことに成功した。

 外廊下からは、血の池が噴水ショーのように飛び散る光景が見えた。このまま、血ではなく綺麗な水にして、最終的には娯楽施設にでもするのでは……という心配もあった。

「話すことなんてないです」

 戸惑うような物言いをする正樹を廊下の端に座らせ、澪もその隣に並ぶ。

「というより、わたしが聞きたくて。あなたの、その、恋愛について」

「俺の?」

 不思議そうに、目を丸くさせる姿は三十二歳という年齢にしては幼くみえた。

「どういうことですか」

「興味がありまして。そこまでして、人を好きになるって、どういう意味なのかなって」

 顔を赤くして尋ねる澪に、真意が分かった様子の正樹は小さくうなずいた。

「あなたにも、そういう方がいるのですね」

「や、やだぁ。そこまで言っていません」

 両手で顔を押さえる澪を、正樹は妹を見つめるように、優しく目じりをさげる。見た目年齢では一回りは下に見えるだろうが、実際澪はとんでもなく長い歳月を過ごしている。

「あなたは……失礼、お名前を伺っても?」

「澪といいます」

「澪さんにも好いた方がいて、でもどういう感情か自分でも量りかねている、ということでしょうか」

「そうですね……。きっと実らないけれど、彼のことを思うだけで、とっても幸せになれるのです」

「素敵ですね」

 人のいい笑みで澪を見つめる。恋に狂い、人生を破滅させ地獄に落ちてしまった人間の顔なのだろうか。

「実らない、とは、もうその人には相手がいるということですか」

「いえ。わたしの方に、もう相手がいます。生まれたときから決まっているのです」

 なるほど、と合点がいったように正樹は眉を下げた。うつむくと、言いにくそうに言葉を搾り出す。

「澪さんは、諦めたいのですか? それとも、その恋を成就させたいのですか?」

「まだわからないです。だって、これが恋だとか、そういうのすらよくわかっていなくて」

「俺に聞く、っていうことは、何かを、誰かを犠牲にしても成就させたいのでは。そうでしょう。地獄に落ちるほど恋に狂った男に助言を求めるなんて」

 自らの人生を恥じる様子はない。けれど、誇ることもできない。正樹の中で、それほどまでに情熱を燃やした恋とは、どれほどのものだったのだろうか。

「助言というか……。わたしには、そこまで想う気持ちがわからなくて。だって、地獄に落ちたのですよ。ここに住んでいるわたしが言うのもおかしいですけど、地獄に来る人ってよほどです。ちょっと嘘ついたとか、友達と喧嘩したとか、その程度じゃここには来ません」

 熱弁する澪を横目に、正樹はどこか安心したように、いつくしむように澪を見た。

「地獄の人間なのに、あなたはきっと純粋なんでしょうね」

「純粋? そんなわけないじゃないですか」

 思わず顔が熱くなる。そんなことを言われたことなどない。地獄に純粋なんて言葉は存在しない。

「人間界のほうが、もっともっと、汚れているのかもしれません」

 墳水のように噴き出す血を見ながら言うことでもないだろう、とは思ったけれど、正樹があまりに真剣に言うから。澪は黙って、同じように墳血を見ていた。

「俺が愛した彼女も、いつか地獄に落ちるのでしょうか」

 聞き流してしまいそうなくらい、先ほどとトーンの変わらない様子で言う。危うく聞き逃すところだった。

「あの、落ちて欲しいのでしょうか。あなたを裏切ったその女性に」

 少し腰を引かせながら、澪は正樹の顔を覗き込む。

 正樹はうーん、と小さく首を捻り、子供のように綺麗な瞳で澪を見返した。

「わからない。彼女を一度でも愛した者として、幸せを願っていないわけじゃない。地獄に落ちてきたからって、じゃあやり直そうっていう気持ちもない。けど……人間って不思議なもので、全面的に幸せになれとまでは思えない。幸せになって、そして俺と同じところに落ちて欲しい。こんな感じかな」

 理解出来ない話に、澪はうつむく。

「人間って、みんなそう思うのでしょうか」

 握り締めた手をあごにあてて考え込む様子に、正樹は微笑みを返す。

「十人いれば、十個の答えがある。全面的に幸せになってもらいたいと思う人もいれば、すぐさま地獄に落ちろと思う人もいるだろう。どれが正しいとも言えないと、俺は思っていますけど」

「そうですか……わたしだったら、きっと幸せになってもらいたいと思います」

「どうして?」

 少し砕けたような口調になる正樹に、すぐ返事は出来なかった。この感情もまた、持ち合わせたこともない。睦月と会えなくなる日が来るのか、それとも目の前にいるのに触れることも会話することも出来ない関係が続くのか。

「たぶん、わたしでは彼を幸せにすることができないから。わたしと一緒にいないことが、彼にとっての幸せだから。それしか願うことが出来ない」

 言っていて、悲しくなってきた。

 まず、睦月が澪にどのような気持ちを抱いているかは知らない。万が一にでも、いずれ睦月が澪に好意を抱いていたとして、二人が一緒になることはない。澪は閻魔王の姉だから。それでも一緒にいるということは、睦月も澪もすべてを捨て、とんでもなく大きな罪から逃げ続けなければいけない。

 そんなこと、させられない。だから自分は諦めなくちゃいけない。

「結論が、出たみたいですね」

 正樹に言われ、澪は頷く。初恋が、あっけなく終わった瞬間だった。


 その後、正樹を閻魔王に渡した。地獄行きの結果が覆ることもなく、正樹は地獄へと進んで行った。一度だけ振り返り、澪を見て笑った。それに対し、澪も笑顔を浮かべる。お互いが、泣き笑いのような顔だった。


「あーねうえっ!」

 今日の執務を終えてすぐ、解放された様子の閻魔王は澪に後ろから抱きつく。謁見の間で、まだ睦月を始め部下が残っているというのに。

「ねーねー。正樹ってやつと何話したのー。イチャイチャしなかったよね?」

 後ろから矢継ぎ早に責められるが、澪は傷心中なのだ。相手をする気分になれない。

「していませんから、安心してください」

「なんだよー。もう執務中じゃないんだから、そんなにかしこまらなくたっていいじゃん」

 口を尖らせながら、澪の顔を覗き込む。近すぎて、熱い吐息が耳や頬にかかる。人前であることに変わりは無いのに。

「あの、閻魔王」

「なーに?」

 澪の髪を指に絡ませながら、閻魔王は澪の側にいる。

「決めました。ずっとあなたの側にいるって」

 そう言うと、閻魔王は澪から離れ、飛び上がった。

「ほんと? やった、やった!」

 子供のようにはしゃぎ、飛んで跳ねてバク転して。最終的に目が回ったのか、地面に座り込む。

「ちょっと、大丈夫?」

 覗きこむと、閻魔王はそのまま澪の腕を取って床に押し倒す。

「ひっかっかったー。じゃ、みんなの前で誓いを……」

 黙っていれば美しい顔を無様に歪め、口を尖らせ澪に迫る。

 まだ気持ちにはっきり整理もついていない状態で、睦月にこんなところを見られるのは一生の不覚!

「閻魔王の誇りを持ちなさい!」

 固く握られた澪の拳は、閻魔王の顎にヒットした。

 人の形をしている以上、急所も人間と一緒だ。

 閻魔王は今度こそ力を失い、そのまま澪の体の上で伸びてしまった。


  *


 閻魔王が目をさますと、自室のベッドだった。側には睦月がついている。

 先ほどの出来事は、夢だったのか、と不安になる。

「軽い脳震盪だったようなので、しばらく休めば大丈夫だそうです」

 地獄にも医者はいる。健康管理は、上に立つものとして当然なのだ。

「すまない、みっともないところを見せたな」

 どうやら、夢ではなかったらしい。安堵のため息を隠す。

「閻魔王の、澪様への思いは周知のことですから。知らないのは澪様だけ、といっても過言ではない程」

「姉上はあれでも相当鬱陶しく感じているようだからな。私が裏でもっともっと姉上愛を語っていたと知ったら、さらに引くだろうな」

「贅沢なお方です」

 閻魔王は起き上がり、側にあったコップから水を一気に飲む。

「……お前には、聞きたくもなければ、見たくもないシーンだったであろう」

 睦月はメガネを外すと、憂いを帯びたような笑顔で答える。

「そうですね。でも、私がいくら澪様を思っていても、あの方は幸せにはなれない。先ほどの男を見て、私利私欲に生きるつもりは私にはないと確信しました」

「身を引けるとは、かっこいいな」

 睦月は謙遜するように、首を振る。

「澪様は、閻魔王と一緒になることが一番だと思います。私ではとても。しかし、その気持ちを知ってもなお、私を司録から外さなかった閻魔王のお気持ちの方が、とても素晴らしいです」

「私は器の大きな男だからな」

 すべては偶然だった。タイミングよく現れた正樹のおかげで、二人の気持ちがある意味では同じベクトルになったことに気がついた。

 それを利用して、ああして公の場で澪から「閻魔王と一緒になる」と言わせたのは、もちろん閻魔王なのだが。

 良心が痛まないわけではない。澪の思いも、睦月の思いも知っておきながら長らく隠してきた。

 そうでもしなければ、澪を手に入れることは出来ない。知ってしまえば、二人はどこかへ行ってしまう。

 己の力不足を呪う。いつか自分も、地獄の業火に焼かれる日がくるのだろうか。それでも澪を手放したくない。生まれた時から、澪しか頭の中にない。どんな報いを受けても。

「私になにかあったら、後のことは頼んだぞ、睦月」

「何をおっしゃって……」

 部屋の扉がノックされた。入ってきたのは澪だった。申し訳なさそうに、顔を少しだけ覗かせる。睦月がいたことに驚きながらも、先ほどの暴力を謝罪する。

 澪は誰にも渡さない、閻魔王という地位が無くなっても。

 うつむく澪と睦月を見ながら、閻魔王は優しい微笑みを見せた。

 澪を惚れさせてみせる。幸せにしてみせる。




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