天使との休日
「……い……、起きろ。葵」
「う、ん……?」
誰かの声が聞こえる。誰だ、せっかくの睡眠を邪魔するなんて……。
薄く目を開くとほんのりと太陽の光に照らされた天井が目に入った。つまり、まだ早朝だ。こんな時間に、私の部屋に人がいる……?
「―――誰っ!?」
「俺だ」
がばっと飛び起きると、ベッドの脇にはなんと天河会長が立っていた。
「な、な、なんで、どうして」
「俺の権限でマスターキーを借りた。俺はとても忙しく早朝しか時間がないから今来た」
さらりと答える会長。そうなんですか、と頷きそうになったが、いかん。例え敵だろうが間者だろうが、女子の寝室に無断で立ち入るなんて許されるわけがない。
「文句は受け付けない、黙って聞け。それから、はだけているぞ」
「え?わっ!」
指差されたパジャマのボタンが外れ、胸元が見えていた。慌てて閉める。きっと刻印までしっかりと見えただろう。
天河会長は涼しい表情だ。そうでしょうね、意識も何もしないでしょうね。
「……生徒会のメンバー以外に刻印を見せるなよ。元間者に刻印があると知られたら面倒なことになる」
「気をつけます」
私はベッドの上で正座をする。とにかくさっさと出ていって欲しい、話があるなら早くしてくれ。
「今日のことだが。昼前にはユーリス様のところへ行くように。それから、決して反抗するな。とりあえず従っておけ」
「……どうして私を呼んでいるんですか?」
どうしてもそれは気になったので尋ねてみた。会長は眉を寄せる。
「お前に会いたいだけ……だとは思うが。ユーリス様も、何か企んでいるかもしれない。気をつけろ」
「……はい」
うう、胃が痛い。やだなぁ、行きたくないなぁ。
「俺が付き添えればいいんだが、生憎忙しい上にユーリス様に拒否された。二人きりがいいとな」
なんてこった……。ただでさえ頼れる人がいないのに。いや、だからって生徒会を頼りたくないですけど。
ふと天河会長の目が変わる。
「この間言ったこと、あれは冗談ではないからな」
ユーリス様を追放したいと言っていたことか。
「お前がユーリス様に告発したとしてもそちらに利益はないし、俺に従った方が利益があるから明かしたんだ。よく考えろよ、自分がどう行動するのが最善か」
「私が学園から逃げても構わないんですか?」
「波留辺りが捕まえるだろうが……まあ、お前一人逃げたところで《天使の使い》の優位は変わらないから構わん」
成程、自信たっぷりですね。
「では、私なりに考えさせていただきます。話は以上ですか?」
「ああ。あと、生活用品で足りないものがあれば紙に書いて生徒会の誰かに提出しろ。以上だ」
「分かりました」
生活用品は十分揃っているから構わない。強いて言うなら携帯が欲しいが無理だろうな。
天河会長は堂々と扉から出ていった。生徒会なら女子寮でも入れてしまう制度はどうにかならないだろうか……。
まだ寝足りない私はベッドに倒れ込んだ。
「や、ば、いーーーー!!」
昼前には行くように――そう言われていたのに、時刻はすでに午後の一時。
天河会長がいなくなった後、あろうことかぐっすりと寝てしまい目が覚めたのはつい五分前。
五分で着替えて髪をセットして歯磨きやら洗顔やらを済ませて、大慌てで寮を飛び出した。
制服姿でダッシュする私に休日を満喫している生徒たちの視線が突き刺さる。
ユーリスが怒っていたらどうしよう……!彼のおかげで殺されずに済んだのに、機嫌を損ねてやっぱり処刑しよう、と言われるかも。ここ数日の頑張りが無駄になってしまう。
それだけは嫌だ……!
辿り着いた第三校舎。他の校舎より小さいが洋風の装飾が施されている、小さな城のような校舎だ。
そっと入り口の扉を押し開けると、百合の香りが中から溢れてきた。
「葵」
金髪の美貌の天使がエントランスに立っていた。
「ユーリス様……」
彼の表情は柔らかく、怒っているようには見えない。中に入ると扉が勝手に閉まった。
「遅かったね、心配していたんだよ」
「す、すみません。寝坊…してしまって」
正直に理由を話すとユーリスは可笑しそうに笑った。
「そうか、ならよかった。侑に様子を見に行かせようと思っていたけど、大丈夫だったようだね」
危ない危ない。天河会長が来ていたら、確実に叱られていた。
「さあ、おいで。葵のために昼食を用意したんだ。その様子ならまだ食べていないんだろう?」
「はい」
ありがたい。走っている間もお腹がすいて力が出なかった。まずは腹ごしらえだ。
ユーリスは階段を昇らずそのまま一階の奥へ案内した。そこには広い食堂があった。本当にお城の中みたいだ。
大人数が座れるテーブルの中心に、向かい合わせに二人分の食事が用意されている。
「給仕する者がいないから先に運ばせてもらったんだ。さあ、座って」
椅子をひかれたので大人しく座る。いいんだろうか、天使様に世話してもらって。
ユーリスが椅子の背もたれに手を置いたまま動かないので、振り返ろうとすると肩に顔を埋められる。
「………っ!?」
「……ああ、夢みたいだ。君がこんなに近くにいるだなんて」
艶やかな甘い声が耳のすぐ側で響いて肌が粟立った。
「あ、あのっ……!」
「いい香りがするね。無垢で穢れを知らない、処女の香りかな」
「っ!?や、やめてくださいっ」
さらりととんでもない発言をされた気がする。思わず前のめりになってユーリスから逃げると、彼はようやく顔を離してくれた。
「ごめん、抑えきれなくて」
「い、いえ……は、早く食べましょう。冷める前に」
色んな意味で危険だ、この天使。何かを奪われる前にさっさと逃げたい。
ユーリスが正面に座る。目の前に並ぶのはフランス料理だ。テーブルマナーはうろ覚えなのだが、失礼のないように食べられるだろうか。
「ふふ、気を遣わなくてもいいよ、葵。マナーは気にしないから」
えっ、心を読まれた!?……まさかね。
「い、いただきます」
日本式の挨拶でいいのか不明だが、とりあえず手を合わせる。ユーリスもそれに倣って手を合わせた。
天使も悪魔も人間の話す言語はすべて話せる。ならば文化はどうなっているのだろう。服は洋風だよね。……まあ金髪碧眼で着物ってのも変か。
まず、琥珀色のスープに手をつけた。大きめにカットされた野菜やベーコンが入っている。
「おいしい……」
「よかった。いいシェフに頼んだ甲斐があったようだね」
ユーリスは食事に手をつけずに私をずっと観察している。落ち着かない。
「あの、召し上がらないんですか」
「それほどお腹がすいていないんだ。ほんの少しで十分。……それに、葵のことを見ていたいから」
いいから食え、とは言えず。私はなるべく目が合わないように俯く。
如月先輩とも話したことだが、ユーリスは何故ここまで私に執着するんだろう。ただ好き、じゃなくて……そのうち愛してる、と言いそうなレベルだ。5歳の私はそんなに魅力的だったの?ユーリス様、あなたロリコンですか?
おっと、悠長に考えてる場合じゃなかった。早く食べよう。
「葵は、変わらないね。あの時と変わらず美しい」
うう、いい加減その甘ったるい台詞どうにかなりませんか。
料理に夢中になっているふりをして黙々と食べ進める。ユーリスはうっとりとした瞳を向けてくる。
「君のすべてが愛しいよ。離れている間はなんとか我慢できたけど、もう抑えられない。……葵のすべてが欲しい」
おいおい、なんだかおかしな方向に向かってないか。これが噂のヤンデレ……ってヤンデレだったら私の身、かなり危ないんじゃ。
逃げたい逃げたい、天河会長でも如月先輩でも誰でもいいから助けてください。
カシャン!
緊張のあまり、手汗でフォークを滑らせて落としてしまう。それがきっかけだった。
「愛してるよ、葵」
「っ……!!」
一瞬で背後に移動したユーリスに抱きしめられる。
私の中には恐怖しかない。理由の分からない、重い愛を向けられるなんて恐怖でしかない。
「は、離してください!」
「……怖がらないで。葵。君を傷つけたりしないから」
ユーリスはすりすりと頬を擦り寄せてくる。それが限界だった。
「やめて!」
ガシャン!
無我夢中に振り上げた手がナイフに触れた。それを掴み、腕を上げてユーリスに向ける。
「触らないでください!」
ユーリスが弾かれたように私から離れた。ナイフを向けたまま振り返ると、ユーリスは傷ついたような表情をしていた。
「葵……」
「……わ、私がまだ《悪魔の使い》だってこと、お忘れになっていませんか?」
これは賭けだ。
勝てば、ユーリスより優位に立てる。
負けてユーリスが激怒でもしたら、私は終わり。
慎重に、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私は、あなたの望み通り大人しくする気はありませんし、想いに応える気も今のところありません。あなたのことは敵だと思っているので」
茫然としていたユーリスは、毅然とナイフを向ける私を上から下まで眺めて―――何故か、笑った。
優雅な微笑みではなく、幼く見える笑いだ。
「ははっ、そうだね。忘れかけていた。穢れていないとはいえ、君は《悪魔の使い》だったんだ。私が迂闊だった」
怒っては…いないようね。
「私に心を開いてほしいなら、時間をかけてください。私が拒否したら、すぐに離れてください。……それだけです」
「分かった。ゆっくり、近付いていけばいいんだね」
よし、ひとまず勝てた。身の危険は多少はなくなっただろう。
ナイフをテーブルの上に置いて、料理が暴れたせいでぐちゃぐちゃになっていることに気付く。
「ごめんなさい……」
「いや、私も悪いから。どうしようか、全然食べていないだろう?何か食べ物を……」
「いえ、私はもう……」
帰る口実を見つけ、それを伝えようとする。しかしユーリスの方が早かった。
「スイーツなら沢山あるんだ。さあ、こっちへどうぞ」
「う……はい」
スイーツ、の響きについ惹かれてしまった。
まあ十分牽制はしたし、危険なことはないよね……。
…………危険ではないけど。何この状況。
「どうしたんだい?」
いや、どうしたんだい? じゃなくて。
簡単に説明すると、私はユーリスに「あーん」をされている。
フォークの先のショートケーキが甘い香りで私を誘惑する。駄目だ。食べたい。食べたいけどフォークはユーリスの持つ一本だけだ。
「あ、あの。自分で食べられますから」
「このぐらいいいでしょ?葵に触るわけじゃないし」
そういう問題じゃない。
ユーリスに連れてこられたのは二階の一室。くつろぐ為の部屋らしく、ソファとテーブルがあるだけ。現在はテーブルに数え切れないほどのスイーツが並び、甘い香りが充満していた。
触れないように一人分のスペースを空けたユーリスは腕だけを伸ばして私に「あーん」させようとしている。
「葵に触るのを我慢してるご褒美、くれないの?」
くっ、そんな子犬みたいな目をしても駄目です。そもそもご褒美も何もあれは……。
「……食べて?」
中性的な美貌のお顔が寂しさで陰る。母性本能とやらがくすぐられる姿だ。
ああもう、食べればいいんでしょ!
ぱくっとフォークをくわえると、生クリームとイチゴの味が口一杯に広がった。
「……おいひい……」
「よかった」
ユーリスは心底嬉しそうに微笑んだ。更にもう一口、と運んでくる。
これ、かなり恥ずかしいけど食べなきゃ満足してくれないようだし。仕方なく、またフォークを口にくわえた。
「もうお腹一杯?」
「は、はい……若干胃もたれが……」
「ごめん、食べさせすぎたかな。でも、葵が可愛いから」
「……ははは……」
最早ユーリスの言葉だけで胃にダメージが来そうなほど甘い。早く帰りたい。
「あの、今何時でしょうか」
「三時前かな。何か用事でもあるの?」
「そういうわけじゃないんですけど……。あの、ユーリス様」
そろそろ聞いておかないと。
「今日は一体、何のご用で私を呼んだんですか?」
「んー…、特に用はないんだけど」
は?
えっ、天河会長の予想通りただ呼んだだけなんですか?
「休日ならお互い暇もあるでしょ?葵と過ごす時間が欲しくて、ね」
……分からない。何故こんなにも好かれているんだ。
「ユーリス様。十年前……私とあなたの間に何があったんですか?」
彼は、今度はすぐに答えず沈黙した。そして、悪戯っぽく首を傾げる。
「さぁ、何があったんだろうね?」
「え…」
「今はまだ話したくないし、できれば葵自身に思い出してほしいな」
「5歳のときのことなんて、思い出せるわけないです」
むっとしてユーリスを睨む。彼は何がおかしいのかくすくすと笑う。
「普通はね。でも、その記憶は封じられたものだから封印が解ければ思い出せるよ」
「封じられたって、誰に…」
「さあ、どうでしょう?」
教えてくれたっていいじゃないか。そんなに秘密にしたいことじゃないでしょ?
「――ああ、来客だ」
「え?」
ユーリスが扉を見ると同時に、それが開いて人が入ってくる。
「失礼します。浅倉を迎えに来ました」
天河会長!
よかった、やっとユーリスから解放される……。
「ノックぐらいしたらどうかな、侑」
「ノックなどせずとも、俺が校舎に入ってきた時点で気配に気付いていたでしょう」
あ、もしかして……。
天河会長に聞かれたくないから、ユーリスは話してくれなかったのかも。
それも話さない理由のひとつのようね。また今度聞いたら話してくれる可能性があるかも。
「まだ浅倉にご用がおありでしょうか」
「欲を言うならまだ一緒にいたいけど、葵が疲れたなら侑に任せるよ」
疲れました、とても。帰りたいです。
目で天河会長にその思いを伝える。伝わったらしく会長は肩をすくめた。
「疲れているようなので寮まで送ります」
「うん、頼むよ」
私はソファから立ち上がってユーリスに向かい頭を下げる。
「今日はご馳走して頂きありがとうございました」
「どういたしまして。また来てくれると嬉しいな。来週末にでも」
「はは、考えておきます」
早すぎるだろ。とりあえず二週間は来ません。
天河会長が扉を開けてくれたので先に出る。――だから私は気付かなかった。
私が背を向けている一瞬、ユーリスと会長が睨み合っていたことに。
「何か有益なことはあったか?」
「全くありません」
寮へと向かう途中、会長からの質問をばっさりと切り捨てる。
「あのひとは苦手です。思わずナイフを向けてしまいました」
「は?ナイフってお前、反抗するなと……」
「大丈夫です、触らせないように約束させただけです」
「……ああ、スキンシップ激しそうだなお前には……」
頭のいい会長は察してくれたようだ。
「何かされそうになったら反抗しろ。正当防衛だ」
「はい。……あの、会長はどうして私を迎えに?」
「お前が早く帰りたがっているかと思ってな。仕事は楓たちに預けてきた」
ありがたい……。
天河会長のことを信用しているわけではないが、対ユーリス用の護衛としては一番信頼できる。
「明日、お前を生徒会役員に任命する。それなりに生徒たちは動揺するだろうが気にするな」
言われなくとも気にしません。既に視線が痛いので慣れましたよ。
女子寮の前に着いたので、私は立ち止まり天河会長に頭を下げた。
「それでは、また明日」
「ああ。……浅倉」
「はい?」
顔を上げると、会長と真っ直ぐに目が合った。こんなに真正面から向かい合うのは多分初めてだ。
会長の形のいい唇が薄く開く。
「…………お前、寝坊したらしいな」
「えっ」
何を言われるのかとはらはらしていた私は、ぎくりと身を強ばらせた。
「な、なんのことデショウ?」
「声が裏返ってるぞ。……波留が休憩中に、慌てて寮から出ていくお前を見たそうだ」
「すみませんでした」
さっきよりも深く頭を下げる。ああ、如月先輩め。黙ってくれたっていいじゃないか。
「今度は気をつけろよ。じゃ、俺は戻る」
「はい、さようなら」
明日は絶対寝坊しない。私は強く誓った。