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明日の空はしばらく青い

作者: 白湯
掲載日:2026/03/08

 太陽が段々と地平に落ちていくと、教室の中は随分広く感じられる。ほんのり赤く、あるいは白い色をした日の光が部屋の隅を照らすように差し込んでいる。逃げ場はどこにも無い。

 校内には我先に帰ろうとする奴らが地を蹴る甲高い音と、机に腰掛けながら他愛の無い言葉を吐き出している煩わしい話し声が立ち込めている。

 僕はそんな彼らの顔を見ないようにしながら、校舎の中を歩き抜ける。靴を手早く履き替えると一度も人と顔を見合わせることもなく、ただ一つ顔を合わせたものと言えば日の光くらいなものだった。

 校舎の裏へと逃げ込んで、頭をぼうっとさせながら地面を眺めていると、ふと気付いたものがあった。水たまりの反射が空を映している。

 白く濁った空を閉じ込めるように、大地の中の額縁としてその景色を切り取っていた。

 反射した空を眺めながら、確かゲオスミンとか言った雨上がりの匂いが漂って、僅かばかり眉間にしわを寄せさせる。

「はぁ、行くか」

 水たまりを踏み込んで、靴の底を這うようにぬるい液体が染み渡ってどうにも気持ち悪い。

 上がらない足を引っ張り上げながら、周りの人の気配が少なくなる頃、ようやく美術室の前に着いた。呼吸を大きく吐き、辺りの音をかき消すように高鳴る心音と指先を伝う弱い震えを押し込めながら扉に手をかける。

 力を込めると引っかかる程に使い古された扉を、指先を迷わせながら開く。開いた扉からは、むせ返るほどに絵の具の匂いが鼻の奥を駆け巡る。

 夕焼けが支配したその部屋に、踵を返しそうな足を咎めながら踏み入れる。筆がキャンバスの上で踊る音と、間違いを咎めるような唸り声が一人分、あちらこちらへと拡散するように美術室の中に響いていた。

 「今日も、居るんだ」と微笑むように心で呟くと、後ろを向き、今日も先にいた人間の世界を壊さないように外へと逃げ出す。

「──あ」

 足取り軽く美術室を後にしようとした、その時、足元に響く僅かな衝撃。飛び上がる心臓と、それよりも冷静に理解を追い越して肌の上を汗が駆け抜けていく。手を伸ばすよりも早く、積み上げられた画材は大きな音を立てて崩れ落ちた。

 筆が足元を転がっている。絵の具が棚のすき間へと迷い込んでいく。

 焦りに身を包まれて、軽やかなステップは何処か遠くへ。足音さえも無くなって、筆が走る音と、画材の一部が四方八方に地面を転がる音だけが駆け巡っている。

 足を踏み出そうにも鎖で繋がれたように、一つたりとも動かない。今出来る事はただただ、音を出しているその主の背を追うばかり。今の事故さえ気付かぬままに、彼は筆を動かし続けている。

 食い入るようにキャンバスに向かい合っていた彼は、集中して描き終えた。かき混ぜるように筆を洗うノイズと、それをすり抜け、僅かに聞こえる溜息を耳に残して。

 筆が彼の足元へと転がって、ぶつかったところで彼はようやくこちらに気付いた。

「......ん、何事?」

「完全に、ミスった。はぁ、隣いいか?後で片付けるよ」

「あー?なんだお前かよ。いいよ、隣で描けよ」

 描け、という言葉に視線はあちらこちらへと跳んで、結局地面の上を這っている。自然に筆を持つ形を指が作っていたが、頭を振ってそれをすぐに解くと彼の姿を見て言葉を詰まらせた。いつものようにキャンバスに向かい合う彼の姿は、ひときわ眩しい。

「描きに、来たわけじゃないよ」

「なんだ、話しながらとでも思ったのに」

「まぁ話くらいなら付き合うよ」

 頬の端が少しだけくいと上がったのが目に見えて、すぐに適当な椅子を引きずってこっちへと渡してきた。

 横を取る気にはならなくて、背負ったリュックサックを下ろし、一歩引いた位置で彼の背を眺めながら座る。

 座って考えても、話すことは見つからない。思いついたことを口に出しながら逃げ出す方法ばかりが頭を駆け抜けている。

「なんか描いてんの?」

 キャンバスを視界の中に収めるのは、どうにも心が拒否するようで視線を外しながら話題に挙げる。

「んー、空。水たまりっちゃ水たまりなんだけど」

「どういう......ん、あぁ、反射とかそういう」

「正解。さっき外出たら水たまりが目に入ってさ、すげぇ描きたいって思ったんだよね」

 さっき見た、額縁のような水たまりを思い返す。空よりは汚れていて、それでも印象深かった。

「いいね。僕も見たよ、綺麗だった」

「だろー?そういや、お前は何しに来たんだ?なんか用があったんだろ」

 ぴくりと肩が跳ねる。口先を舌で舐めると少し張りついた。呼吸の仕方を頭の中からこぼしてしまう。明確な言葉を吐き出しては、次の一歩を進んでしまう気がした。

「それは、その、やることがあってさ」

「やる事?」

「......言ったほうがいいか」

 苦虫を噛み潰したような、というのはこういう事を言うんだろう。正直やらなければ、とは思ってもやりたいとは思えない。

「そんなに嫌ならいいけど。でも面白そうだから聞かせろよ」

 吐く息が揺れて立ちのぼっている。腹の中が混ぜられるようだ。心臓の音が耳に響く。

 深く吸い込んだ息が心に寄り添って、少しだけ落ち着きを取り戻した。開いた目は、やらなければいけない事を見据えている。

 それでも、怖く。けれど、意を決した。

「捨てに来た、絵をさ。ずっと捨てられなかったんだよ」

 指先がどうなっているか、分からない。夏の陽気を浴びながらも、冬の寒さを思い出すほどに冷え込んでいて、後ろめたさは無いはずなのに、色とりどりに汚れた地面を眺めるばかりだった。

「はぁ?なにそれもったいな。そう言うってことは大事な絵、なんだろ?見せてみろよ」

 何度も聞いたような言葉を貰って、少しだけ苦笑する。そりゃあそうだろう、という話で。

「見るか......よし、よし。いいよ」

 肺の中を、淀んだ空気が駆け巡る。

「自信はあるから」

 リュックサックから丁寧に、気を使わずに取り出す。興味津々な彼が覗き込んで、言葉を失うのはすぐだった。

「どんなも......」

 自分でも久しぶりに、これを直視した。

 鳥のさえずりが耳に届くような、今でも美しいと思ってしまう、青空。折り目が沢山ついて、ずいぶんグシャグシャになった。筆を動かした理由も思い出せやしない、ただ覚えているのは完成した時の嬉しさくらいなもので。

 指先でざらりとした一筋の光と化した絵の具をなぞる。蜘蛛の糸が垂れ下がるように、細く、されど美しく。

 伝うように上へと視線を移せば、そこは突き抜けるみたいで。深海よりも沈み込む程に深く、口の中を洗い流す爽やかなサイダーよりも淡い、その空は青く青く澄んでいた。

 目の裏に焼け付いて離れない。

 絵の中に閉じ込められたみたいに、横顔は目を見開いたままに静止している。指を僅かに震えさせながら、ほんの僅かな涙を流した彼は突然に声を上げた。

「──は.......本当にお前の絵なら、驚きだな」

 どうにも受け入れがたく、ため息をついて、目を逸らす。

「上手いだろ。だから、駄目なんだ」

「駄目ってなんだよ。いい絵だぜ?あー、画家の絵かと思ったよ」

「皆、そう言ったよ、でも......。なぁ、高校来てから僕の作品見たことあるか?」

「え? あー......」

 彼は少しの間固まって、時計の秒針のかちかちという音が耳の奥まで入り込む。

 唇は重たそうに、彼は口を開いた。

「まぁ、考えてみるとあんまりない、な」

「うん、そうだよな。いや多分見たことはあるんだよ。でも、あんまり覚えていない、ってそういう事」

 背中に何かがのしかかる。自分で開いた傷は思ったよりも大きい。

 聞き届けた彼は目を見開いて、舌を迷わせながら言葉を探した。

「それは、つまり、あ~、いや」

 分かっているから、正しく動かない。

 配慮はひどく目に染みた。目頭を押さえながら、僕は自分の人生をリストカットしていく。

「ふぅ......つまりは、高校から、いや。その空を描いてからは、良い作品は一つたりとも存在しない」

 ごろりと、喉の奥につかえた何かが出てきたような気さえする。まだ小骨が喉に刺さっていても、それさえ気にしない程に。

「うん、うん、まぁ、そうなのかも、な。いやぁたまたまじゃないか?」

 合わせた目を逸らされると、彼は再び筆を持って、細部の手直しを始めた。

「濁さなくたっていい。自分で分かってるよ」

 筆が動いている、沈黙はそれだけで十分だった。

「描いたのは確か......五年前かな。皆持て囃してくれてさ、だから夢を見ていいって思ったんだ」

「夢、ね。へぇ、そうかい」

 小骨が喉に引っかかったように、顔を顰めた。筆が走る音は少し、力強くなった。

「だから、捨てたいんだ。もう、夢なんか見たくない」

 筆を動かす腕は止まらない。さっきよりもこっちに興味をなくしたように。

「何かを追いかけるのも、もう疲れたんだ」

 腹の底にこびりついた、いつからか見ないようにしていたはずの言葉が漏れ出る。腹の中が重くなるようで、口を閉ざそうと思っても、上手くは行かない。

「空を描かなければ僕はもっと自由に、ただ楽しんでいられたはずなんだよ。夢なんか見なくて済んだ」

 眉がぴくりと跳ね上がるのが視線に入る。深いため息が僕の言葉を跳ね返す。

「甘いなぁ、お前」

 凍てつく視線が僕を貫いた。心臓が跳ね上がって、そして奥歯を噛んだ。

「どういう意味。僕が甘いって」

「楽しんでも夢を見るんだよ。お前だけじゃねぇって事」

「──っ。知らない、癖に」

 僕を貫いた視線はいつの間にかキャンバスの上に戻っていた。今の言葉さえ混ぜ込んでキャンバスを彩るように。

「俺は描くのが好きなだけだと、そう思うか。合ってるさ。それでも、それでもなんだよ。誰かに届けたいって、そう思う。こいつが夢ってやつなんだろ」

 熱のこもった演説を聞いたように、心の中がかき乱される。夢の中身を聞いて、それが間違いだと言いたかった。

「夢を......」

「お前からすりゃちっぽけかもしれないけどな。誰でも抱えてんだろうさ、夢ってやつは」

 生温い、塩っ辛い液体は僕の頬を伝っていく。喉の奥が口を閉ざさせるように締まって、鼻の奥は熱くなる。

「なんで、なんで─。僕は......この苦しみは、なんで、可笑しいだろ......」

「知らないよ。お前の事情なんて知らないしな。ただ......そう。これで生きて行きたいってのは知ってるけどな」

 馬鹿だ。馬鹿なはずだ。間違っていると言いたい。だけど、いつも見ていた彼の姿が目の中に残っている。いつだって、誰よりも遅くまで居る彼が、眩しかった。

「ぅぁ......そんなに小さい事なのに」

「なんでお前は自分が凄いと思うんだか。俺の絵でも見れば信じてくれるか?」

 差し出されたキャンバスは眼前に広がる。逃げようと目を背ける暇さえ与えられずに。そして、飲み込まれる。

「──」

 呼吸をする事さえ忘れても、ただひたすらにその世界にのめり込むように眺めていた。

 校舎を出て少し足を踏み出した先、石畳の上に溜まった薄氷のような水の層。

 質感は、どう触っても絵だと思えるもの。分かりやすい絵の具の匂いがこびりついている。手触りを思い浮かべることはできても、頭の中で触ることは出来ない。

 水たまりもぬるい嫌な液体じゃない。どうにも澄んで、清流の小川のよう。これが正しいというのはあまりにおかしい事だ。

 そうだったとしても、彼の世界を一度目に映して見れば、あまりに、ため息が出てしまうほどただ普通に美しいものだったのだ。

 水たまりの上に映し出された遠い空は、ただ目に映った空よりも胸の中に突き刺さる程に美しい。青く澄んでもいない。白糸が垂れるようでもない。ただ、現実的に、夢を見ている。

 目を見張るものはない。どこをとっても何処かの誰かが描けるだろう。だと、思っているのに。どう見たって、夢を見せられる。

「──は、あ、あぁ。......駄目だ」

 崩れる音が頭の中で繰り返す。自分の価値観が、自分の持ち物がこぼれていくようだった。

「俺だけが描けるなんて、思えるほど良いもん、とは思わない。そんなには自信は持てない。結局、こいつを描きたかった、だから描いた。それでいい」

「なんで、なんでそんなに、真面目に居られるんだ」

 肩をすくめた彼は、少しだけ考えた後、思考を放り投げた。

「なんで、なんでって?さぁね、知らないな。どうでもいいだろそんなん。やりたいからやるんだよ」

「そんな、そんな事で、出来てたまるか。出来ないと、言ってくれよ」

 縋るような声は彼の横をすり抜けて、空へと霧散する。

「やだね。俺は、描きたいから描くんだよ。お前がどうなろうと知ったこっちゃない。お前も自由に描きゃあいい」

「自由に、自由に?描けるなら描いてるさ!でも、夢を、追いかけて......それで、画家に......違う、違う。思ってない。それが超えたく、て──あ」

 壊れていく。自信を形作る間違いが体から剥がれる音がする。足先が冷えるような絶望が、自分の中を駆け巡る。

「はぁ~ん、成る程。なんだ、どうでもいいじゃないか」

「あれを超える、ために」

 親の声が耳の中で反芻される。まるで、画家のようだ、という母の感想。これなら本当になれるんじゃないかという父の独り言。何より、楽しげにはしゃいでいる自分の真っすぐな笑顔。

「そうじゃ、なかった」

 思考は走馬灯に似て、昔の事が思い出させられる。ひたすらにキャンバスに向かい合って空を描いた、二、三回ほどカレンダーを変える前の春。空さえも描かなくなって、筆を持つことさえ億劫になった一年前の冬。

「あー、あー。そう、かぁ」

 頬を伝う熱情は、いつの間にか乾いていた。

「夢を、忘れたんだな。僕は」

「良いじゃんか。別に」

「何が、だよ。何で生きてきたか、もうわかんないのに」

 目の前は真っ白に見えた。どこを目指せばいいかの端が折れてしまったようで、吹雪のなかに野ざらしになったみたいに何も分からない。

「昨日までが、とかどーだっていいね。どうせ死ねないんだ。どうせまた生きていくんだぜ。俺は明日も絵を描く。それが成果になるとかも、どーでもいい、ってのは嘘だけど」

 羽根が生えたように、というべきじゃない。ヘリウムガスに入った風船のように、僕の気分は浮いていた。どこへ行こうという事すら自分で選べない程に。

「明日、明日。何してるかな。どうでもいいか」

 ぽかんと口を開いた顔がこちらを向いた。眼も理解を僕の方を向いてくるくると観察しているようで。ようやく理解ができたらしい。というよりかは、レコーダーを再生したように。

「は?......そうか、そうかよ。真剣じゃないやつ」

「絵を描く理由なんて、もう無いんだからさ」

 彼は一度筆を止めた。怒りはもう見えなかった。深いため息は、僕のことを押し流すようにこちらに吹く。

「......はぁ、もういいよ、お前。真面目に筆を持ってくれると思ったんだけどな」

 こちらに一瞥もせずに、彼は僕を追い払うように手を降った。

「はぁ?おい、どういうことだよ」

「もう良いよ、片付けは俺がやるから」

「いや、でも」

 追い縋るように手を伸ばそうとしても、それを弾きのけられる。

「だから、出てけよ。もう描く気は無いんだろ」

 振り払う手に、怒りが湧いた。

「描かないなんて言ってないだろ」

「明日の事をどうでもいい、とかいう奴が筆を握るとは思えないけどな」

 拳を少し痛いと思う程に握り込んでいる。奥歯のぎりぎりとした音が、頭の中で響く。

「描くなんて、あぁクソ。余り紙とか、無いか」

「......そこら辺に落ちてるよ」

 何かのプリントを拾って、裏のまだ何も描かれていない面へと裏返す。リュックから取り出した筆は少し汚れて、ボサボサだ。パレットは固まった絵の具と、染み付いた色が時間を訴えている。

 今は筆に指を伸ばそうとしてすんでのところで、また引っ込める。もう少し、臆病でもいいから少しずつ。

 深く吸った息は絵の具の匂いに満ち満ちている。一回目はまだ、心臓の音がうるさい。二つ目の覚悟の時には、指先の震えが静かになっていた。

 そして、ようやく。筆を取る。

 端っこは破れている、角は折れている。だのに、裏紙は随分広大に見えて、筆の先は路頭に迷う。

 引きずってようやく腕が持ち上がる。色をどうやって作るかなんて思い出せない。

 適当な色を混ぜても、筆先は進まない。描くという心はとうに折れている。でも、確か昔に絵を描きたいとそう思った。どうしてか、は分からない。

 今描ける物なんて。

 赤い空を、夕焼けを、あれを、描きたい。手に取った焼け付くような原色の赤を、頭の中と同じ位の真っ白で似たような色に変えていく。

「こうじゃないな」

 もっと赤を、いや、黒を混ぜて。

 段々、段々と色味は形作られていく。再現された温かな夕焼けの赤。やっぱり黄色を少し混ぜてみようか。

 動かせば動かす程に、凸凹した地面が筆の邪魔をする。目に入ったのは、横に置いてあるいつかの空。僕は躊躇さえなく、下に敷いた。どれだけか安定して、不思議な事に過去の栄光は今を支えているようだった。

 心臓の音は今もうるさい。だけど、さっきみたいに煩わしく無かった。エンジンをかけたみたいなもので、指先を絵を描くことの背を押すようだ。

 指先は自由に動く。自由帳に、裏紙に、部屋の壁に、描いた記憶が指先に残っている。ずっと昔に、知っていた。

「あ......そう、そうだった。楽しかった。楽しかったんだよ」

 筆を持つ腕は自分の意思を介在させずに動いている。折り目のついてぐしゃぐしゃだ。色味の作り方も思いつきだから下手くそ。構図なんかも、これでいい、とは言い難い。

 でも、これでいい。これがいい。何かに届く必要はない。何かに追いつく必要はない。

 僕が一心不乱に筆を動かしている横でも、筆は動き続けていた。それは次第に、僕の筆の音に気圧されるように静かになっていく。

 一度筆を置いた音がした。ふっと息を吐いた音がした後、すぐに筆の音が耳の奥に響いてくる。

「なんだよ、出来んのかよ」

 背を向けて走り続けると、彼は少しだけ振り向く。その顔は少し嬉しそうだった

「出来たの、かな」

「知らん、お前次第だろ。俺は出来てると思った」

 ぶっきらぼうな言葉は少しだけトゲが取れていたような気がした。

 それを受け取って、頭の中で反芻しながらも、未だに腕を止めることはない。時計の針の動きと、二人分の筆が動き続ける音が少しの間、美術室の中を支配した。

 時計の針は幾つか回転して、釘付けになった世界は朧気に完成した。

「......出来てるかも。うん、書き上がりかな。へへ、下手だなぁ」

「いや、そんなこ──それは、いいか。そういうもんだろ。もうちょっと色味とか作ろうぜ。ここの隅のあたりとかさ」

 描いた夕焼けを覗き込むと、彼は出しかけた言葉を押し戻して楽しげに笑いながら、隅の方を指し示した。

「ここは、あー、でも白っぽい方が」

「ん〜、ま、好きにしたらいいか」

「でも確かにそっちの方が......あ、絵の具染みてる」

 このキャンバスの下に敷いた青い、青い空。裏紙を貫いてその空に目の覚める赤が付着していた。

「床だろ?良いよ別に。後で掃除しようぜ」

「いや凸凹してたからさっきの敷いちゃってさ」

「さっきの......うげぇ。勿体な」

 持ち上げた下にあった青空は、もはや青空と言えるほど美しいものではない。色が混ざって、時間が進んだように夕焼けの景色が溶け込んでいた。

「良かったのかも。捨てられそうにも無かったからさ」

「そういうもんかね」

「そういうもんだよ」

 絵を手に取って、それを眺める。随分と酷い色味になって、もう栄光の形はない。

 息を吐いた。動かす事が拒まれるように、指先は震える。胸の奥が熱くなるように、心は酷く高鳴った。

 それでも。僕は青空に指をかけた。

「ありがとう、さようなら」

 緩やかに、紙のちぎれる音が響いた。空は白んだ糸を境目にするように、二つの世界に別れていく。指の先に痺れるような振動が伝って、少し指を止めそうになった。名残惜しさは、胸の奥にしまう。そして、ちぎり終えた最後の瞬間は、あっけなかった。

 彼はキュッと息を吸って、名残惜しそうに声を出した。

「......何も破くことなかったんじゃないか?」

「決別するには必要だったんだ」

「ま、わからんでもないけど」

「ね。足枷が外れたみたいな気分だよ」

 足が前を向く。重く苦しい足取りが、なんだか軽くなったような気がする。

「足枷、か。ま、お前が良いなら良いさ。辛気臭い顔も無くなったしな」

「え、辛気臭かった?」

 自分の顔を思い返せど、いまいちどんな顔をしていたか、というのは思い出せない。でも、笑った記憶もあまりない。

 彼はやれやれと言ったように、肩を振って言葉を続けた。

「まー、目で追っちまうくらいにはね」

「マジか、そうだったんだ。気をつけないと」

「そうしてくれ。あんま見たくはない」

 頬をぐっと押し込んだり、唇の両端を上に持ち上げたりして解しながら、反省を繰り返す。しかし結局、それをパタリとやめてしまった。

「気をつける......と思ったけど、もう必要もないかな」

「......なんでだよ。気を付けろよ」

「アレだよ。いや気を付けるけど、もうそんな顔をすることも、そう無いかなって」

 今はモヤついた気持ちも、なにか背を押される感覚もない。自分の足が動いているという感覚がしっかりとある。

「それは......あー、確かにそうか」

「うん、もう悩んでないから。何かあったら相談するよ」

 彼は柔らかな笑みを浮かべた。それがどうにも心地良い。

「そうかい。俺で良かったらいつでも聞くよ」

「当分は平気かな、ありがと。でも、取り敢えず筆を動かしたい!なんか書こっかな!」

「──ふは、良いねぇ!俺も一作描いちゃおうかな」

 驚いたように目を見開いて、楽しげな声をあげる。僕もまた、口の端を綻ばせた。

「お、何描く?」

「あー、あれ。さっきの紙を破くところ」

 思わず声が出るほどに、驚きが溢れる。耳が少し熱を持っていた。

「え、恥ずかしいんだけど」

「残念、好きなもん描くのがポリシーでね」

 いたずらな笑みを浮かべる彼の額ががら空きでデコピンでもしてやろうか、とも思いながら悪戯の返し方も思いつく。

「えー、じゃあ僕も描いてる時の君でも描こうかな」

 彼もまた顔を顰めた。笑みが溢れる程に、面白い顔をしている。

「やられるとちょっと嫌だな」

「ふふっ、そうでしょ?君もやったんだから」

「それもそうか、じゃあおあいこだな。描くか」

 筆を取った。ただ、描きたいものを描く為に。二つの筆が走る音が響いている。互いに背中を押し合うように言葉を交わす事さえ無く、時間を忘れて向かい続けた。

 日の光が消えかけた頃。響く笑い声や話し声さえ、いつの間にか無くなった。

 時間さえ忘れていた時に、響いた先生の声で現実の中に引き戻された。

「お前ら〜、真剣なのはいいけど学校閉まるぞ」

「あ、もうそんな時間っすか?じゃ、帰るか」

「そうだね。片付けだけやっていきます」

「出来れば早く帰れよ。危ないからな」

「はーい」

 流しに出て、筆を洗うと、何となく懐かしい気持ちに駆られた。筆を洗う感覚も久し振りで、冷たい水に目が覚める。

 美術室に戻って、目についたのは散乱した画材。

「あ、そういや倒してた」

「あー、さっさと片付けるぞ」

 隙間に入り込んだ画材を取り出して、並べ直す。二人でやれば案外早くて、学校の外へ出るまでは三十分もかからなかった。

 外へ出た時には、もう既に日の明かりは落ちていた。

 太陽は沈んで、一面を暗がりが包んで世界は随分と窮屈に感じられる。それでも、仄かに青く、或いは細やかな白で月光が包んでいて、未来さえも見えるようだった。

 夕日が暮れて真っ暗になって、ようやく僕らは帰路につく、二人で笑いながら。

「明日も来るか?」

「行くよ。真っ暗になるまで」

 ああ馬鹿みたい。それがいっか。

「それじゃ、また明日!」

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