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紫微綾の事件簿 case2 白き子羊の檻 (Vシネ風×百合×バイオレンス×探偵)』  作者:
4章

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15話 追いかけっこ

 あの人が言ってたっけ。

 状況ってやつはどれだけ行動しても、動かないときは動かないが、動くときは一気に動くって。

 まさに、こういうことを言うんだろうね。


 窓の外では、午後の柔らかな日差しが白壁女学院の整えられた中庭を照らしている。

 昼ごはんを食べ終え、睡魔を誘う時間帯。これまた眠くなる数学の授業だった。


 静まり返った教室に、チョークが黒板を叩く乾燥した音だけが規則正しく響く。

 その平穏を破ったのは、制服のポケットに忍ばせた端末の、肌を刺すような鋭い振動だった。

 私は迷わず、真っ直ぐに手を上げた。


 「先生、すみません」


「どうかいたしましたか? 綿津見(わたつみ)さん」

 

数学の先生がこちらを向く。私は小さく声を絞り出した。


「少しおなか痛くて……トイレの方に。もしかしたら……」


 ……無茶苦茶恥ずかしい。

 何で二十四にもなって、生理の報告なんてしなきゃいけないの。

 あまりの恥ずかしさに死にそうになる。

 私は熱くなった顔を隠すように俯いた。

 きっと顔が真っ赤になっていたのだろう。

 深刻だと思った先生が、すぐに向かいなさいと言ってくれた。

 

 廊下に出てからは、音もなく駆けた。

 トイレまで行って、誰もいないことを確認してから、個室の通気窓から身を乗り出す。


 指先に力を込め、雨樋のわずかな出っ張りに足をかけて、一気に屋上まで這い上がった。

 風が吹き抜ける屋上。そこだけが唯一、白壁女学院の窮屈な空気から切り離された場所だった。


 スマホを取り出すと、千景(ちかげ)から連絡があったみたいだ。

 

「どうしたの千景。今授業中なんだけど、抜けるのが大変だって知ってるでしょ」


『緊急だからね。例のホームレス、居所がわかったよ。(りん)にも動いてもらってるけど、一人で探すのも大変だからさ、あんたにも行ってもらいたくてね』


 千景の低い、どこか掴みどころのない声が耳元で跳ねる。


「……わかった。私のスマホに地図情報を送っておいて。すぐに向かってみる。ありがとう」


 そこから先は早かった。

 私はすぐ先生に今回生理が重すぎて頭がぐらぐらするので、保健室ではなく部屋の方に戻ると許可をもらって、寮母にも報告をしてから抜け出した。


 自室の鍵を閉め、忌々しい制服を脱ぎ捨てる。

 瞳を偽っていたカラコンを取り、後ろを縛った銀髪をほどいた。

 鏡の中に、本来の剥き出しの赤い眼が映る。

 漆黒のライダースーツに身を包んで、やっといつもの自分という自覚が持ててくる。


 千景から送られてきた目標辺りの地図を見ると、驚いてしまった。

 名古屋拘置所の近くだったから、走れば数分の距離だった。

 耳にイヤホンをつけ、凜に連絡を取った。


「悪いね」


『今どこなの?』


 インカム越しに届く凜の硬い声が、焦りを含んで鼓膜を叩く。


「いま学校から一丁目に向かってるよ」


『そう、なら早く来なさい。私一人だと大変だから』


 突き放すような物言いに、いつもの彼女らしい切迫感を感じて、自然と足が速くなる。


 右手に続く名古屋拘置所の高い塀が、視界の端で延々と、くすんだベージュの壁面を晒し続けていた。

 視界を遮るその巨大な絶壁は、まるですべての情を拒絶しているかのように無機質で冷たく感じる。


 人通りは驚くほどなかった。たまに黒塗りの高級車が、排気音すら立てずに滑るように通り過ぎていくだけで、そのタイヤの摩擦音さえも、すぐにこの静寂に飲み込まれていく。

 アスファルトを叩く自分のブーツの音が、乾いた打撃音となって響き、不快なノイズのように私の耳を抉り続けていた。


 ターゲットは昼間でもここに潜んでるのかな?

 そう思って、自販機で買ったばかりの缶コーヒーを手に持ったときだった。

 そのどんよりした嫌な静寂を、耳の奥にこびりつくような汚れた悲鳴が、一気に引き裂いた。


「ハァ……ッ、ガハッ、ハァ……!」


 視線を向けた先に、前方の角から一人の男が、まるで地面を転がるような無様な勢いで飛び出してきた。

 ボロボロに着古した、泥だらけのウィンドブレーカー。不健康に痩せこけた体は、見ているこっちまで不安になるくらいガタガタと震えている。必死に、狂ったように視線を泳がせ、逃げ場を探しているその姿だった。

 ようやく見つけた。間違いなく、私の追っていたターゲットだ。


 だが、その男の背後に黒い影が見えた瞬間、私の脳内で危険信号が鳴り響いた。

 男の後ろ、わずか数メートルの距離にまで肉薄しているのは、一分の隙もないダークスーツに身を包んだ三人組。

 獲物を追い詰める野獣そのものの勢いで、全速力で追いすがっている。

 白昼堂々、この名古屋のど真ん中で、こんな派手な拉致まがいの追いかけっこなんて、正気じゃない。


 ……やっぱり、あの子たちの情報がビンゴだったみたいね。

 私は迷わずインカムのスイッチを弾き、凜に連絡を入れる。


「ターゲット確認。……今から追うわ!」


 私はインカムに指をかけて短く叫び、一気に地を蹴った。

 視界の端で、通行人たちが、関わりたくないとばかりに一斉に視線を逸らし、霧散していくのがわかる。

 すぐ目の前で、先頭を走るスーツの男がグッと上体を沈めた。

 男が右腕を振り抜く。ごつごつとした大きな手のひらが、逃げる男の背中を掴もうと、じりじりと空気を切り裂いて迫っていく。


 指先がウィンドブレーカーの裾をかすめて、パシッ、と乾いた音が響く。

 ターゲットの男の細い肩が、恐怖でビクッと跳ね上がるのが見えた。


 そこっ!

 私は手にしていた缶コーヒーを、標的を外さないよう、そのまま先頭の男の顔面目がけて渾身の力で叩きつけた。

 まだ開けてもいない、ずっしりと中身の詰まったアルミ缶が空を飛ぶ。本当にもったいないけれど、今はそんなこと言ってられない。


「お仕事中悪いけど、その人、私の先約なのっ!」


 ガツッ! という鈍い衝撃音。

 男の鼻の頭に缶が直撃し、鮮血が飛び散る。前のめりだった男の体が、そのまま大きく仰け反った。

 その隙を、私はコンマ一秒だって逃さない。

 レザージャケットをバサリと翻して、一気に間合いへと踏み込んだ。

 いつもの足運びで一気に踏み込み、ブーツの先で男の手首を思いっきり蹴り上げる。


「――っ、ぐあぁっ!」


 呻き声を上げる男を背後に流し、私は地面に倒れ込んだターゲットの腕をガシリと掴み取った。

 ……細い。掴んだ感覚は、まるで乾燥した枯れ木みたい。

 拍子抜けするくらいに中身が入っていない、ガリガリの腕。


「……立てる?」


 返事はない。喉の奥からヒューヒューと漏れ出す、死にかけの獣みたいな呼吸が返ってくるだけ。


「仕方ないわね」


 私は小さく吐き捨てて、男の痩せ細った腕を強引に自分の肩に回した。

 ズルズルと体を引き上げるようにして、無理やり立ち上がらせる。


「少し我慢して!」


 すぐ先にある公園の入り口が視界に入る。

 歩道の縁石を勢いよく飛び越えて、手入れがされていなくて伸び放題になっている植え込みの脇を強引にすり抜けた。

 

 その瞬間、足の裏に伝わる感触が硬いアスファルトから、湿り気を帯びた土の柔らかい感触へと一気に変わった。

 ぐにり、と靴底が土に沈み込む。

 自分一人の体重ならなんてことないのに、ぐったりとした男を抱えているせいで、目に見えて速度が落ちていくのがわかった。


 背後から迫る足音が、嫌なほどはっきりと近づいてくる。

 タッタッタッ、と土を叩く鋭い音が、すぐ耳の後ろまで追いすがってくる。

 さっきの缶コーヒー一撃で終わるような、甘い相手じゃないことは痛いほど分かっていた。


「はっ……はぁ……、ひゅっ……」


 腕の中に抱えた男の呼吸が、いよいよ限界を告げるようにひきつけを起こし始めている。

 ほとんど意識がないのか、私の肩に回した腕も力なくずり落ちそうになって、そのたびに私は男の体を上へと引き上げ直した。

 このまま無様に引きずって逃げ回っても、捕まるのがオチだし、人を抱えて逃げるのは、無理だよね。

 凜もまだ合流できないとしたら……


「……ここまでね」


 視界の端で、人の気配が完全に途切れた。

 錆びついた遊具が寂しく佇み、周囲を鬱蒼とした木々が囲む、完璧な袋小路。

 私はピタリと足を止めた。

 荒い息をつく男を、近くの古びたベンチに投げ出すようにして下ろす。

 ガクガクと震え、そのまま地面に転げ落ちそうになる男の背中を、手のひらで軽く支えて無理やり座らせた。


「少しだけ、ここで待ってて。……いい子にしてなさいよ」


 短くそれだけ告げて、男の肩から手を離す。

 ゆっくりと、私は体の向きを変えた。

 すぐ目の前に、さっきのスーツの男たちが迫っていた。

 もう、向こうの荒い息遣いまで聞こえるくらいの距離。

 奴らは逃がさないぞと言わんばかりに、私の正面を塞ぐように広がっている。


「鬼ごっこは終わりだ、お嬢さん。その男を渡してもらおうか」 


 先頭に立つ男が、値踏みするような嫌な視線をこちらに向けて吐き捨てた。

 この男を渡したところで、どうなるかなんて火を見るより明らかだ。

 実際、目の前にいるのが例の犯人たちじゃない可能性だってあるけれど、お金を渡そうとした瞬間に、相手を殺す(ばらす)ような連中なんて信じられるわけがない。


 どこを見渡しても逃げ場なんてない、完璧な死角。

 ふう、と肺の奥に溜まった熱い息をゆっくりと吐き出す。

 肩から指先、そして足先に至るまで、余分な力をすうっと抜いて、重心をわずかに下へと沈めた。

 私は、体に染み付いたいつもの構えを取った。 


「さて」


 片方の足元で、軽く地面の土を鳴らす。

 逃げ道を塞ぐように立ちはだかる男たちの顔を、一人ずつ、値踏みするようにじろじろと眺めた。


「強引なナンパは嫌われるわよ。あなたたちこそどきなさい」


 わざと余裕を見せてそう言い放つと、男たちの眉間の皺がピクリと跳ねた。


「バカな女だ。余計な事に首を突っ込むから、高い授業料を支払うことになるぞ!」


「あなた達がね!」

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