死なないで
多くの死体が、アンジェロと呼ばれるあの熊によって、次々と頭を食いちぎられていった。
その死体の中に一体……女でありながら男の服を着た、明らかに偽装されたものがあった。 彼女は最初から死体であり、一行の中に紛れ込んでいたのだ。
死体は全部で九体。そのうち一人は全裸だった。自分の服を俺に貸してくれたからだ。 俺はある大胆な仮説を立て、紛れ込んでいた女の死体をバラバラにして野山に捨てた。
翌日、俺は女の死体の周りで、狼の死骸を目にした。 狼は女の肉を食らい、そして死んだのだ。 つまり、あの女の死体は……最初からアンジェロを仕留めるために用意されたものだったのではないか。
脳裏に別の仮説が浮かび、俺は右手を挙げ、地面に転がる狼の死骸を指差した。まだ硬直の始まっていないその亡骸に向かって、一言こう告げる。
「FXXK」
口元に血の匂いが漂った。これは腐った人肉の味だろうか。死んだ狼の感覚が伝わってくる。
「立て」
狼に反応はない。 俺は想像力を働かせ、狼の体を操ろうと試みた。すると、それは歪な姿勢で立ち上がった。 現時点では、ただのゾンビウルフだ。動きは硬く、表情は虚ろ。 俺はラジコンを操作するように想像力で狼をあちこち動かしてみる。不自然さは拭えないが、あることに気づいた。
もし訓練を積み、十分な「演技」をさせれば、この狼を生きているかのように見せかけることも可能ではないか。
だとすれば、村人を操っているのはアイリシアではなく、別に黒幕がいる。 そいつはあらかじめ一人を殺害した。毒殺か、あるいは死体に毒を仕込み、それを「FXXK」で操られた生きた人間の中に混ぜたのだ。彼女が食われることを前提として。
目的は……アンジェロを狙い撃つためか? そうとしか考えられない。 「FXXK」を使って九人をここまで操るには、少なくとも三人の術者が必要だ。普通の人間なら、一日に「FXXK」を使えるのはせいぜい四回までなのだから。
敵は少なくとも三人……少なくとも三人の人間が、まるでボス攻略でもするかのように、ここを攻略しようとしている。
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「アイリシア、事情はこういうことだ。君は村人に『FXXK』を使っていないんだな?」 「使ってないよ。でも、アンジェロがその方がいいって言うなら、使うけど」 「いや……だが、すぐにお世話になる時が来るかもしれない」
アイリシアは世間知らずで道徳観が欠如しているのかもしれないが、彼女が自ら進んで誰かを傷つけることはない。 呪われるべきは、別にいる。 俺は自分にそう言い聞かせた。
「おんぶ、してくれる?」 アイリシアが唐突に尋ねてきた。 「え? ああ、いいけど……」 「怒ってない?」 「いや、どうして俺が怒るんだ?」 「よかった。じゃあ、しゃがんでよアンジェロ。あなた、大きすぎて登れないわ」 「わかった、わかったよ」
俺は彼女に背を向け、腰を落とした。 「ほら、来い」 「うんっ!」
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「どんな状況でも、魔女に背中を見せるな。……わかってるって、デイジー。耳にタコができるよ」 マーカスは投げやりに言った。
デイジーは、彼をこうまで厳しく仕込んできたことを少し後悔していた。もし魔女との戦いであっさりと死んでくれたなら、その方が都合がいいかもしれない。だが、やはり彼には死んでほしくなかった。どこがいいのかは自分でも分からないが、彼はどこか憎めない青年だったから。
五メートル以内の距離になれば、勝負の行方は分からない。 だからこそ、当初の計画では決戦の距離を五メートル以上に保つことが基本だった。
「マーカス、村人から聞いたはずよ。魔女は愚直に村人へFワードを叩き込むような真似はしない」 「知ってるよ。熊、なんだろ?」 「そう。Fワードで熊を支配すれば、魔女は姿を現すまでもなく、殺したいだけの無実の村人を殺せるわ」 「ただの野良の熊が村人を襲って、村人がそれを魔女のせいにしただけって可能性はないのか?」 「その可能性もゼロじゃない。けど、私たちは探偵ごっこをしに来たわけじゃないの。相手が善い魔女か悪い魔女かなんて関係ない。彼女は事実上の異教の象徴になっている。村には魔女を信仰する無知な連中も多いわ」
服従すれば慈悲を与え、背けば過酷な罰を与える。噂に聞くその「魔女」と呼ばれる老婆は、峻烈でありながら慈愛に満ちた女性だという。 まるで彼女のようだ、とデイジーは思った。彼女が最も愛し、そして自分を最も愛してくれた女性。 デイジーは無意識のうちに老魔女の姿を、失踪した母親の面影に重ねていた。だがそれは独りよがりの幻想に過ぎない。彼女は魔女に会ったこともないし、ただ母親の愛に飢えていただけなのだから。
「熊にはこれを使うわ。標的が大きいからね」 デイジーは箱を取り出し、蓋を開けた。中には木材や金属のパーツが詰め込まれている。 「面白そうだな、俺にも触らせてくれよ」 「ダメよ、あんたは不器用なんだから」
デイジーはパーツに油を差し、熟練の手つきで慎重に組み立てていく。 三十分後、小ぶりなクロスボウが完成した。 このような機械は本来、違法だ。 どこにでもいる農民であっても、簡単な訓練さえ積めばこの武器を使いこなし、騎士や貴族に致命傷を負わせることができるからだ。
だが、熊を仕留めるにはあまりに……心許ない。 「そんなもんで熊が殺せんのか?」 マーカスが問う。 「当然、無理よ。でもマーカス、はっきり言っておくわ。あんたみたいな出来損ないが正面から魔女に挑んでも、勝率はゼロ。百パーセント負ける」 「否定はしないよ」 「もしあんたが直接、熊にFワードを使ったらどうなると思う? 考えたけれど、リスクが高すぎるわ」 「キーキー!」 マーカスが茶化すように奇声を上げた。デイジーは彼を鋭く睨みつける。 「分かっているならいいわ」
以前、マーカスが放った「FXXK」が不運にもリスに当たってしまったことがあった。その時、彼は精神を弛緩させていたせいで、逆にリスの精神に同調し、おかしくなりかけたのだ。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」 「その時が来たら、あんたはこのボルト(矢)に『FXXK』を込めなさい。そしてこのクロスボウで熊を射つの。矢を受けた熊の松果体は錯乱し、ショック死する可能性だってあるわ」 「……どんな原理だよ、それ」 「デカルトという学者がそう教えてくれたわ。人間や動物の魂は、松果体に宿っているんですって」 「へえ……」
マーカスは自分の額を指でさすった。そこが松果体のある場所だと言われている。 もし本当なら、自分の松果体には申し訳ないことをしているな、と彼は思った。
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マーカスは眠気に襲われていた。 というのも、彼にとって「いかにしてあの熊を殺すか」という議論は退屈極まりないものだったからだ。彼は自分が鈍重で、怠惰で、一対一の決闘ではまず勝てない人間であることを自覚していた。 熊や魔女を相手にする以前に、人生そのものに勝ち目がない。 彼は勝ったことがほとんどない。だが、勝てないからといって生きていけないわけではない。負け組の人生だって、それなりにやっていけるのだ。
だからこそ、彼は「勝つこと」に執着する人間が理解できなかった。 なぜ、そこまでして勝ちたいのか。
もしマーカスが「絶対に負ける人間」だとするなら、デイジーは「勝てるかもしれない人間」だった。 だからこそ危ういのだ。勝てる見込みがあるからこそ、あんな危険な熊狩りの計画を立ててしまう。
クロスボウの射程はせいぜい二十メートル。最大でも五十メートルといったところか。 デイジーのような「勝てるかもしれない」人間にとって、五メートルが二十メートルになることは四倍以上の有利を意味する。いや、それは数字の問題ではなく、質的な決定打だ。五メートルなら負けるかもしれないが、二十メートルなら負けるはずがない。ただそれだけのこと。 だが、マーカスにとっては五メートルだろうが二十メートルだろうが、大した違いはなかった。
決闘なら、デイジーが負けることはまずないだろう。 けれど、俺はデイジーを死なせたくない。
毎日、彼女が自分の目の前で着替えるのを眺めていられる。彼女は自分が美しいことを自覚しているようだ。 それだけで十分だった。彼女を死なせたくない。まだ、このまま一緒に旅を続けたい。
だから、マーカスは数日前にすでに「根回し」を済ませていた。
彼は「FXXK」を使い、魔女を信仰する八人の村人と、一人の少女の死体を操った。その死体は、知り合って間もない墓荒らしから買い取った、埋葬されたばかりの新鮮なものだ。 美しい死体だったため、マーカスはかなりの上乗せ料金を支払わされた。あんなことに使うだけなのに、なぜこれほど金を払わねばならないのかと不満だったが、それが墓荒らしの手元にある中で最も「新鮮」なものだったのだ。「あっちの用」ではないのだから、鮮度にこだわる必要もなかったのだが。
マーカスは屍毒に満ちたその死体を村人の中に紛れ込ませ、熊狩りのために山へ向かわせた。 九人を同時に操るのは容易ではない。マーカスの松果体は今にも弾けそうだった。幸い、村人たちは皆お人好しで善良だった。もし相手がデイジーのような人間なら、たった一人を操るだけでマーカスの松果体はオーバーヒートしていただろう。
熊が村人の頭を一つずつ噛み砕いている間、マーカスは「腹を壊した」と言って便所にこもっていた。 便所の中で割れるような頭痛に耐え、熊があの女の死体の首を食いちぎったのを確認して、ようやく彼は支配を解いたのだ。
デイジー、俺はどうせ最後には負ける人間だ。 でも、あんただけは死なないでくれ。
できることなら、あんたを連れてどこかへ逃げ出したい。




