後ろを向いてて。着替えるから
「アンジェロ!」
アンジェロ。僕は日本人の名前を捨てた。アリシアがそう呼ぶからだ。
「アンジェロ! 来て、手伝って」
「どうしたの? アリシア」
「火がつかないの……」
「馬鹿だなあ。瓶にヒビが入ってて、中の水が薪に垂れちゃってるじゃないか」
「ごめんなさい……」
空気が少し湿り気を帯びてきた。雨が降るのだろうか?
降り出す前に、山へ行って乾いた薪を拾ってこなければ。
謝るアリシアの姿は、まるで雨に濡れた子犬のようだ。僕は彼女のふわふわとした髪を撫でた。
彼女は着替えていた。その黒い衣服からは、古い物特有の古びた匂いが漂っている。おそらく、彼女の祖母の服だろう。
あの、F-wordを好き放題に使い、熊をけしかけて村人の頭を食いちぎらせて楽しんでいた、あの老魔女の。
「近くで薪を拾ってくるよ。君はその割れた瓶を捨てておいてくれる?」
そういえば、なぜ瓶にヒビが入っていたのだろう? 地震か? なぜヒビの入った瓶に水を入れたのか……いや、彼女は気づかなかっただけだろう。
待てよ。さっきまであの瓶は地下牢にあった。僕のすぐ横に。まだ水は入っていなかったはずだ。
アリシアが放ったあの一発の『FXXK』が命中して、ヒビが入ったのだ。僕はそう結論づけるしかなかった。
「やだ、私も一緒に行く」
甘えん坊な子だ。
僕は飼い慣らされ、彼女のペットになった。そして彼女もまた飼い慣らされ、僕のペットになったのだ。
「せめてブーツを履いたら? 石を踏んだら危ないよ」
彼女のふくらはぎには、小さな切り傷や、傷が治った痕がある。虐待ではない。単に裸足で山を歩く癖があるだけだ。
「えー……好きじゃない」
「薬もないんだよ。カンセン(感染)したら大変だ」
「カンラン(橄欖/オリーブ)? どういう意味?」
「感染っていうのはね、微小なバイ菌が傷口に入り込んで、治らなくしてしまうことだよ」
「なんだか深淵な言葉ね。あなた、魔法使いなの?」
「違うよ、僕は……」
僕は現代社会で死に、中世ファンタジー風の異世界のような場所に転生した、ただの死人だ。
天使はここを煉獄だと言った。困ったものだ。
ここもまた、別の地獄に過ぎない……いや、もしかすると……。
「わかったわ。アンジェロが言うなら、我慢して履く」
いい子だ。僕は彼女を抱き上げ、ベッドに座らせた。
古いが、清潔なベッドだ。
彼女の服から漂う、ハーブの香りと混じり合った古びた匂いに、僕は思わず泣きそうになる。
彼女はこうして抱き上げられるのが好きらしい。その笑顔は直視できないほど眩しい。心をすべて奪われてしまいそうで怖いからだ。だから僕は悪戯っぽく彼女の頬をつねり、変顔をして見せた。
「でも……男物の服と靴ばかりだね」
FXXKで催眠状態に陥り、オリジナルの(・・・)アンジェロに頭を食いちぎられた村人たちの死体を、まだ片付けていなかった。
彼らはかつてアンジェロの夕食だったが、今やそのアンジェロも僕らが食べてしまった。
二人ではそんなに肉を食べきれないし、死体の処理も面倒だ。幸いまだ暑い季節ではないので数日は保つだろうが、遅かれ早かれ処理しなければならない。
荷車でも作って、森に隠してあるあのキャンピングカーで、巨熊と村人の死体を深山まで運んで証拠隠滅するか。
アリシアと一緒にやろう。熊の肉はうまくなかった。僕はアリシアを連れてこの辺りから離れ、別の場所へ行きたいと思っている。
なにせ彼女と彼女の祖母は、あまりにも人を殺しすぎた。
「探してみるよ。合いそうなものがあるかもしれない。何人かの靴は材質が良さそうだったから、後で職人に頼んで直してもらおう」
「職人? 村には革職人がいるわ。おばあちゃんの本の表紙も、その職人が作ったの」
「その人は死んだの?」
利用し尽くしてから殺す。アリシアの祖母ならやりかねない。
僕もいつかそうされるのだろうか? いや、そうなる前に先手を打てばいいだけだ。
「ううん、たしか生きてるはず。おばあちゃんは彼を殺さなかったわ」
二人で裏庭に出ると、死体は硬直し始めていた。死後硬直だ。当然だろう。
身につけているのはボロ布ばかりだが、その中の一足の靴が僕の注意を引いた。
その靴は……明らかに一般の村人が履くようなものではない。小商人か……市民階級が履くようなデザインだ。サイズを直せば、きっとアリシアの足に似合うだろう。
死体の体格は小柄で、履けないこともない。だが……この死体、何かがおかしい。
「アリシア、アンジェロはどうやって死んだの……」
「アンジェロ? 何の話?」
「あの熊のことだよ。君が死ぬように命じたのか?」
「ああ、あの子のこと? 違うわよ。そんな残酷なことするわけないじゃない。あの子はもう歳だったの。いつ死んでもおかしくないって、おばあちゃんが言ってたわ」
「じゃあ、あいつは……」
「私が見た時には、もう眠るように死んでいたわ。ついにこの日が来たんだなって……私、随分泣いたのよ。それで、あなたのことを思い出したの」
「怖がらないで、僕がいるよ」
僕は彼女を抱き寄せ、背中を優しく叩いた。
死体がおかしい……。その靴は、山歩きや農作業には不向きな、革製のショートブーツだ。
服も不自然だ。頭は食いちぎられているが、服が破れている。
僕はアリシアを降ろし、死体に近づいて屈み込んだ。
服をそっとめくると、それは男の服を着た、女性の死体だった。
胸に刺し傷がある。
それは断じて、熊による傷ではない。
この人物……存在した覚えがない。紛れ込んでいたのか。
その傷跡を見て、もし僕の元の世界にいた探偵の友人がここにいたら、こう言っただろう。
『この人物は、熊に頭を噛み砕かれるよりもずっと前に、すでに死んでいたね』と。
僕は、頭を失ってもなお動き続けていたあの男のことを思い出した。
「アリシア、もし死体に『FXXK』を使ったら……何が起きる?」
+++
マーカスとデイジーは村に戻っていた。
彼らは村長の家に泊めてもらっている。
村長は部屋が余っていないと言い、二人は同じ部屋に泊まることになった。
「後ろを向いてて。着替えるから」
「だめだ、デイジー。後ろを向くわけにはいかない。着替えるなら、俺の目の前で着替えてくれ」
「やるわね。今回は引っかからなかった」
マーカスは、この程度の戦術なら見抜けるようになっていた。アメリカ人と同室にいる時、相手がどんな言い訳を使おうとも、背中を見せてはいけないのだ。
デイジーにとって、マーカスとはどういう男なのか?
彼はハンサムではない。むしろ逆で、奇妙な顔立ちの男だ。
大男ではないが、チビでもない。顔の幅が広く、眉毛の形は滑稽で、目は怒っているようでありながら、口元は許しを乞うているように見える。
もっとも、それは彼が無表情の時の話だが。
そんな顔立ちにもかかわらず、マーカスは人に好かれやすかった。おそらく彼の人柄のせいだろう。
こんな奴でも愛されるのなら、この世界もそう捨てたもんじゃない。マーカスと長く過ごした人間は、多かれ少なかれそう思うようになる。
マーカスは、一緒にいて気楽な青年なのだ。
マーカスは生涯で一度も座禅を組んだことがないが、一日に十回もFXXKを使える。天賦の才と言っていい。
だが同時に、彼は反応が鈍く、その才能を無駄にしていた。
このままでは、こいつはいざという時の対決で……必ず負ける。
だからあの時、デイジーが放った一発のFXXKには、殺意が込められていた。
ここで彼を殺してしまうのが、おそらく最も合理的な判断だった。彼は必ず負け、足手まといになるからだ。
もしマーカスが敵に操られたら、デイジーはつい彼を助けようとしてしまうだろう。マーカスは愛すべき青年だからだ。
それなら、いっそ今ここで死んでくれたほうが、二人セットで共倒れになるより、少なくとも一人は生き残れる。
神に委ねよう。そんな思いと共に、デイジーは一瞬のFXXKに、相手を殺すに足る呪いを込めたのだ。
結果は、外れた。
それが神の意志なのか、単にデイジーが外しただけなのかはわからない。
デイジーはマーカスの前で服を脱ぎ、寝間着に着替えた。
「デイジー、ありがとう」
「何がありがとうよ。馬鹿ね」




