Fの魔術、アメリカ人の血統
「無駄ね。どうやらあなたは『本物』みたい。」
冬の湖のような瞳をした少女が、私にそう言った。
一体……どういう意味だ?
やばい……死ぬのか……? なぜ彼女はさっきから『FXXK』と言っているんだ……。
「あなたも私と同じ、アメリカ国民ね。」
「ふ……ふざけるな! 俺は日本人だ!」
私は思わず口走ってしまったが、すぐに後悔した。なんといっても……彼女はあのアメリカハイイログマ(グリズリー)を操れるようなのだから。
グリズリー。それは極めて恐ろしい生物だ。その体躯は小高い肉の山のように膨れ上がっているが、この距離における瞬発力は時速50キロを超えると言われている。想像してみてほしい。荷物を満載したダンプカーが高速道路並みのスピードで突っ込んでくる様子を。しかもそのダンプカーには、ナイフよりも長い牙が生えていて、あなたの頭をスイカのように噛み砕こうと口を開けているのだ。
総じて言えば、人間が素手で熊に勝てるわけがない。ましてや通常の熊より一回りも巨大な、この異世界のグリズリー相手ではなおさらだ。
もっとも、私――三島車男は、確かにアメリカ人ではない。もし私がアメリカ人だったなら、あの時、蜜村さんは……あの外国人の胸に飛び込んだりしなかっただろう。
私が我に返ると、相手は不思議そうに私を見ていた。
「日本人? それって地底に住む神話生物のこと? あなた、お伽話の読みすぎじゃない?」
「なに?」
「亡くなったお祖母様が教えてくれたわ。小柄な日本人は地下に住み、奇妙な機械を作るのが得意で……ほぼ全員が男性なのだと。」
それは日本人じゃなくて、ノームかドワーフの亜種だろう……。
この子、よく見ると着ているものは服と呼べるような代物ではない。だが、全身から漂う人を寄せ付けない雰囲気は、貴族様ですら彼女の前では横柄な態度を取れないだろうと思わせるものだった……。
強いて言うなら、森のエルフ。彼女からはそんな感じがする……。
「君は誰だ……エルフ……それとも妖怪?」
「ヨウカイ? また難しい言葉を使うのね。面白いわ。」
そういえば、言語だ。最初から誰とでも言葉の壁なく話せている気がする……まあ、そんなことはどうでもいい。
少女の手首は華奢で、足首も細く、片手で握れそうだ。足首や指の関節には赤みが差しているが、その髪色と灰青色の瞳は、彼女が人間ではないように見せている。
彼女は言った。 「あなた、会った瞬間から休むことなく『FXXK』と言っているわね。だいたい何回言った? 少なくとも三回……いや、四回ね。そんなに私が嫌い?」
「あ……ごめんなさい……」
よく分かっていないまま、私は反射的に謝罪した。 なにしろ『FXXK』は音の響きだけで言えば、聞こえ方は……『FUCK』とほとんど変わらない。間の二つのXは発音しないからだ。そして『FUCK』は、アメリカ人が使う下品な言葉に過ぎない。
あの時の私は、まだ気づいていなかった……その微細な違いに。そしてその小さな違いが、5年後に巨大な悲劇を醸成し、元いた世界にまで波及することになろうとは。
FUCK、それは地獄からの低吟。
一回の『FUCK』に、三回の『FXXK』。合計四回の言葉が構成する構造が、数学的な角度からしていかに神への冒涜であるか、当時の私には全く概念がなかった。
無知とは罪である。仏教でいう三毒、貪・瞋・痴。 貪は貪欲、瞋は激怒、そして痴とは……。
単なる無知であり、仏の教えを理解できないことだ。
無知それ自体が、罪を構成しうるのだ。
「つまり、あなたが今日言えるのはあと最大で一回の『FXXK』だけ。私の勝ちね!」
彼女は笑い出した。いや待て、彼女自身も問いかける時に二回連続で言っていたじゃないか? 最初に出会った時の一回に加え、今の二回。君だって三回言ってるぞ!
私は突然、あることに気づいた。まさか……。
「FXXK。」
彼女は無表情にそう言った。 その瞬間、生命力のようなものが全身のあらゆる穴という穴から絶えず流出していくのを感じた。耳、鼻孔、口、尻の穴、さらにはナニからも。
人体の内部と外部を繋ぐ全てのトポロジー(位相幾何学)構造が、漏出のための穴と化した。私は口を閉じ、耳を塞いだが、鼻の穴をつまむことなどできず、他の穴は言うまでもなかった。
生命力のようなものが噴出し、自分の身体の存在が感じられない……。同時に、身体のあらゆる感覚がユーゴスラビア解体のようにバラバラになった。全ての感覚器官が独自に行動し始め、経済的に発達したと自負する部位は、遅れた地域の足かせから逃れようと、西側陣営に亡命しようとさえしていた。
その噴出していったもの……後に私は理解した。あれは……人間の『主体性』だったのだと。
人間の全ての感覚を統合していたその自意識が、消解されてしまったのだ。
かつて、外国の生活を紹介する雑誌で読んだことがある……。 一般的な中流階級のアメリカ人は、一日に最大四回まで『FXXK』と言うことができる。もし坐禅に励めばその回数を増やせ、真に道を極めた(得道した)アメリカ人は、『FXXK』を読点のように使いこなせるという。それは修為の極めて高いラッパー(Rapper)にしか到達できない領域だ。
だからラッパーはあんなに金持ちで、女に不自由しないのか。なるほど、そういうことだったのか……。街中で誰かに向かって『FXXK』と一言放てば、その相手は催眠術にかかったかのように、短時間だけ彼の言いなりになってしまうのだ。
逆に、目が合う前にあらかじめ『FXXK』と言っておけば、後続の『FXXK』を相殺することができる。
中には小文字の『fuck』をフェイントとして使い、敵の『FXXK』を誘い出す者もいる。プロのアメリカ官僚や弁護士は、特にこの戦術に長けている……。
それに気づいた時、いや、それが当時の私の最後の意識だった。
私はたちまち自意識を失い、いわゆる『無我の境地』へと強制的に至らされたのだった。
* * *
「総理……無我の境地とは、一体何なのですか?」
「被害者が『F-word』の直撃を受けた後に陥る状態のことだ。主体性を失った状態だよ。アメリカに行った日本人が、帰国後にある確率でアメリカ人の犬になってしまうのは……彼らの過ちではない。『F-word』の問題なのだ」
前の総理も含め、アメリカ人に『FXXK』された後……5500億円もの投資など、まさに……。
日本の現職内閣総理大臣ジョン・ディック(John Dick)。彼は日本文化をこよなく愛するアメリカ人だ。
アメリカ人の血は、罪悪の血だ。彼はそう語る。
「『F-word』を行使できるのは、アメリカ人の血統を持つ者だけだ。この忌々しい、血統論の世界め!」
「待ってください、総理。アメリカは……建国200年余りの移民国家ではありませんか? いわゆるアメリカ人の血統など存在しないはずです。それに、黒人も白人も、ヒスパニックもメキシコ系も、さらにはアジア系だって、アメリカ国籍を持っていれば皆アメリカ人のはずでしょう?」
総理大臣秘書官である黒髪の女性、白井智子はそう尋ねた。
「では君は、アメリカの主要な政治家一族が全て白人の家系である現状をどう説明する? そして、どう説明するのだ……日本の政治家一族のいずれにも属さない、私、ジョン・ディック・カー(John Dick Carr)の存在を?」
ジョン・ディック・カー、略してJDC。有名なアメリカの左翼ポピュリスト政治家AOCと同じ略称の付け方であり、一般国民からは親しみを込めて「JDC」と呼ばれている。 奇しくも『日本探偵倶楽部』の略称、および黄金時代三大家の一人に数えられる某探偵小説家の略称もJDCだ。
日本の総理大臣になる前、JDCは諸国を放浪する有名なラッパーだった。
「アメリカ人の血統は存在する。だがその証拠は、『F-word』という魔法体系の中に巧みに隠蔽されているのだ……。だからこそ私は日本の総理大臣になった。アメリカ人の手からこの世界を救うために」
「例え……例え総理ご自身が、アメリカ人であったとしてもですか?」
JDCは23秒間沈黙した。
「あぁ。例え私自身が、アメリカ人であったとしてもだ」
FXXK。このF-word魔法体系において基本元素となる単語。ダブルXは発音しないため、口に出せばFUCKと何ら区別がつかない。だが、真にアメリカ人の血統を持つ者だけが、その違いを鋭敏に察知できるのだ。




