絶対に勝てない
「助けて。お願い、助けて……狼に、足を噛まれたの」
彼女の足には黒い布が巻き付けられていた。黒い法衣を引きちぎって作った即席の包帯が、傷ついた足を覆っている。
そんな姿で彼女は俺の前に現れた。足を引きずりながら近づき、十五メートルほどの距離で足を止める。
まだ、安全圏だ。
だが、狼に噛まれた? あまりに稚拙な嘘だ。この女は馬鹿なのだろうか。
先ほどの狼は、彼らの目には――あの奇妙な男と、目の前の美しい女の目には――疑いようもなく、敵である「魔女の使い魔」と映っていたはずだ。
俺が操っていた狼は、彼らを襲う前に、あの男のクロスボウによって射殺されている。
それなのに今さら、狼に噛まれた被害者を装い、何も知らないふりをして近づいてくる……一体、何の意味がある?
単なる揺さぶりか。
エリシアという存在のせいで、俺は臆病になっている。今の俺に……あの奇妙な男に勝てるだろうか。
逃げるべきだ。
しかし、このアメリカ人に背中を見せるわけにはいかない。攻めなければ負ける。そして負けは、おそらく「死」を意味する。
十五メートルの距離。俺は少しずつ、その女の方へ身体を寄せた。
移動しながら、周囲に仲間が潜んでいないか目を配る。忌々しい。
この女はただの餌か……それとも、餌の皮を被った主力か。
誰が見ても餌にしか見えない。
だが、狼の視点から見た先ほどの二人のやり取りでは、女の方が立場が上だった。男が指示に従わないことに、女は狼狽していた。
だとしたら、あの段階から既に芝居は始まっていたのかもしれない。この女こそが、餌に偽装した主力なのだ。
「あんた、誰だ?」
「私は……近所を巡礼している修行僧です。まだ未熟な身で、道中で狼に襲われてしまって……」
「失せろ。ここから離れろ。できるだけ遠くへな」
「そんな……足が動かないんです。このままじゃ狼に食べられてしまうわ!」
「動く気がない、というわけか……」
「お願いします、助けてください……」
俺は、以前エリシアの目隠しをした時のことを思い出した。同じようにすれば、戦闘を圧倒的に優位に進められる。
「目隠しをしろ。そうすれば助けてやる」
「ど、どうして……?」
「俺の言う通りにしろ」
「ご、ごめんなさい! すぐにやります」
彼女は法衣の端を裂き、自分の目に巻き付けた。その姿は、どこか心を乱すものがあった。彼女が美女である以上、どんな格好をしていようと、男の情動を突き動かしてしまうのだろう。
だが、彼女はエリシアを脅かす存在だ。確実に仕留めなければならない。
「手を下ろせ」
「はい……」
手で布を押さえて、目隠しをしているふりをする小細工を防ぐためだ。
「服を脱げ」
俺は命じた。
「な……なぜ?」
「嫌なら、このまま置いていく」
「待ってください、見捨てないで!」
「なら、言われた通りにしろ」
俺は距離を詰めながら、理不尽な命令を重ねていく。
豊かな胸を持つ女だ。その服の下に、何かを隠し持っている可能性がある。
「行かないで、お願いします!」
五メートルの範囲内に踏み込んだ。目隠しをした彼女に反撃はできない。その瞬間――。
「FXXK……脱げ!」
「はい」
彼女は突如として一切の表情を失った。糸の切れた人形のように身体を脱力させ、服を脱ぎ始める。
彼女の視界を共有することはできない。何しろ目隠しをされている。だが、命令は通っているはずだ。
待て……なぜ他の感覚も伝わってこないんだ? 俺は本当に、彼女を支配できているのか?
彼女が黒い法衣を脱ぎ捨てた。その下に隠されていたのは……豊かな乳房などではなく、二発の爆弾だった。
法衣が脱げた瞬間、糸で構成された仕掛けが爆弾の導火線に火をつけた。派手な火花が散る。
偽物だ。俺は瞬時にそう判断した。あまりにも「いかにも爆弾」という見た目をしていて、目立ちすぎているからだ。
俺の「FXXK」による支配は成功していなかった。外したのか、あるいは彼女が既に他人のコントロール下にあったのか。
下手な芝居だ。一目見れば偽物だとわかる。だが、次なる問いが生まれる。なぜ、これほど滑稽な芝居を打つ必要があったのか。
その思考に陥った時点で、既に罠に嵌まっていたのだ。
なぜ芝居を? 黒衣の下は何だ? 爆弾? 偽物かもしれない、なぜ偽物を置いた?
その答えは、一つの叫びとなって収束した。
「fuck!」
「FXXK!」
遠くで、エリシアと見知らぬ男の声が同時に響いた。
カチリ、とクロスボウの弦が弾ける音。
鋭い矢が、俺の頬をかすめた。傷は小さい。だが、それはまるで種子のようだった。
痛みは爆発的な速度で、あたかも植物が急成長するかのように、神経の末端から脳へと伝わっていった。
✧✧✧
マーカスにとって、一対一の「FXXK」対決は負け戦でしかなかった。
デイジーなら勝てるかもしれないが、マーカスは彼女を敗北の可能性から守りたかった。
ゆえに、彼はデイジーを餌にした。
彼女の服の下に、二つの偽造爆弾を仕込ませた。
偽物ゆえに、導火線の仕掛けは殊更に誇張してある。黒い法衣との対比で、眩いばかりの光を放つように。
理性は真偽を見極めるが、感性はそうはいかない。たとえ理性が一瞬で「偽物だ」と判決を下しても、感性は恐怖や動揺を起動させ、注意力をそこに釘付けにしてしまう。
マーカスがデイジーを使って滑稽な芝居を演じさせたのは、信憑性のある嘘がつけなかったからではない。相手を「疑念の二元論」の中に引きずり込み続けるためだ。
ボクサーが上体を左右に揺らすのは、本当に左や右に動くためだけではなく、その「揺れ」自体に意味があるのと同じことだ。
相手は武器を持たず、デイジーに向かって直進してきた。彼は「FXXK」でデイジーと決着をつけるつもりだった。おそらくかなりの手練れだろう。
事実、その通りだった。彼の動き、反応速度は、マーカスやデイジーを遥かに凌駕していた。
だが、無意味だ。彼が撃ち抜いたのは偽の標的に過ぎない。デイジーは注意を逸らすためのデコイだった。
標的がデイジーと対話し、接近するにつれ、彼の意識はますますデイジーという一点に凝縮されていく。
マーカスはその隙を突き、一歩ずつ、死角から相手へと歩み寄った。
そして、クロスボウの引き金を引いた。
しかしその時、巨大な「fuck」という女の声が響いた。
防御魔法としての「fuck」。だが、その音量は凄まじく、「FXXK」とは本質的に異なっていた。とはいえ、それはあくまで本質の話だ。
アメリカ人は現象学的な本質直観によって「fuck」「FXXK」「FUCK」を峻別する。
だが、聴覚的には「fuck」と「FUCK」は同じに聞こえる。
偽の爆弾と本物の爆弾が、論理と観察によって見分けられるとしても、一目見た瞬間の印象が同じであるように。
マーカス自身が攻撃されたわけではない。だが、彼は動揺した。放たれた矢は軌道を逸れ、敵の頬を掠めるに留まった。
そして彼は無意識に声のする方へと反撃し、「FXXK」と叫んでいた。
だが、それは通用しなかった。理由は二つ。
一つは、相手との距離がそれほど近くなかったこと。相手の「fuck」は単なるブラフに過ぎなかった。
もう一つは、相手が「fuck」を使っていたことだ。たとえ命中したとしても、防御魔法によって無効化されるのが関の山だった。
✧✧✧
エリシアに命を救われた。見事な一石二鳥の立ち回りだ。
恐ろしい男だ……あのクロスボウを持った男は、あまりに恐ろしい。
彼は龍泉先生のような、悪魔的なまでの知能を持っているわけではない。むしろ、どこか鈍重な印象さえ受ける。
純粋な一対一の決闘なら、俺が負ける道理はない。
俺は対決という領域において、あまりに強くなりすぎた……だからこそ、まっすぐ餌に向かって歩いてしまったのだ。そうしなければ勝てないから。
だが、あの男は自分が「絶対に勝てない」ことを熟知している。彼の戦術はすべて、自分の敗北を前提に組み立てられている。
度し難いほどに、恐ろしい男だ。
エリシア……俺たちは絶対に、絶対に二人で生き残らなきゃならない。




