狼の視界
胃が痛い……何か変なものでも食べたか? まあ、そう言っても間違いじゃない。そもそも中世の食事なんて、現代人から見れば元々そこまで清潔なものじゃないからな。
願わくは、街中が汚物まみれではなく、魔法のように清潔であってほしいものだ。
そんな思いを抱きながら、俺は荷車を押し、エリシアを連れて山を下りた。
彼女はサイズの合わない靴を履いていて、歩くのが裸足の時よりも辛そうだった。
足にある微細な暗赤色の傷跡が、淡い青色の静脈と交じり合う。靴を履かせる時、俺は思わずその光景に見惚れてしまった。彼女にとっては気にするようなことじゃないんだろうが、それでも、これ以上傷が増えるのは見たくない。
だから俺は彼女を抱き上げて荷車に乗せ、そのまま押して山を下りることにした。
エリシアのような美しい女性が、なぜ唐突にこんな森の中に現れたのか。最初は何か妖や怪物の類かと思ったが、接しているうちに、あまりにも普通の少女だと感じるようになっていた。
「アンジェロ、具合悪いの?」
「胃がちょっと不調でな」
「お薬、飲む?」
「いや、いい……ちょっと顔を貸してくれ」
俺は荷車を止め、彼女の頬を撫でると、その額に自分の額を押し当てた。
「熱があるの?」
「そんなことないさ」
あの不審な死体のおかげで、誰かがここへ攻め込もうとしていることに気づかなければ、本当はこんなに早く発つつもりなんてなかったんだ。
外の人間と関わりたくないから? いや、本当はエリシアを俺以外の誰にも触れさせたくないだけだ。
+++
マルクスとデイジーの二人は山への侵入を準備していた。デイジーの計画では、マルクスがあの弓で熊を射殺し、魔女との対決はデイジーが行う手はずになっている。
熊が死んだ後、もし二人と対峙する状況になれば、互いにゆっくりと距離を詰めることになるだろう。
10メートル、9メートル、8メートル……
接近する中で、自分が命中させられる距離かどうかを見極める。
おそらく6メートルもあれば当たるだろう。その間、双方が接近しながら絶えず判断を迫られる。当たるか否か。攻撃として『FXXK』を放つか、防御として『ファック』を展開するか。
判断を誤った方が負ける。もし双方が命中すれば、相殺されるか、あるいはより危険な精神領域のリンクへと突入する。ただそれだけのことだ。
教団にいた頃は、負けたところでただの負けで済んだ。パチンコを使った模擬戦だったから、負けても泥で作った弾丸が当たって、少し惨めな格好になるだけだ。
逃げても無駄だ。相手に背を向けることは、即ち敗北を意味する。
くそっ、胃が痛い。逃げ出したい……。
デイジーは決闘なんてしたくなかった。決闘前の緊張感で胃が痛くなるし、負けたら泥団子をぶつけられただけでも、同じように胃が痛くなるほど落ち込む。
マルクスのように、人から役立たず扱いされるのは御免だ。
だがマルクスは役立たずのくせに、誰からも虐められていないし、みんな彼を好いているようだ。
それは彼が、一日に十回も『FXXK』を使える天才だからかもしれない。役立たずでありながら天才。だから誰もが彼に期待を寄せている。
でも私みたいな人間はそうはいかない、とデイジーは思う。
マルクスとデイジー、アンジェロとエリシア。
この二組が今、互いに近づきつつあった。
「マルクス、懐に入れてるそれ、何?」
デイジーは戦闘に気を取られていて、明らかな異変に気づいていなかった。
「何でもない……気にしなくていいよ」
「見せなさい」
「嫌だ」
「命令違反をするつもり?」
「そうだね」
「なんてこと……今そんなことしてる場合!? いつ敵に遭遇するか分からないのよ? イライラさせないで……戦闘に支障が出るわ」
「いや、君の戦いに影響させたくないからこそ、見せられないんだ」
「一体なんなのよ?」
「言えない。でも、戦いの役には立つものだ」
「はいはい、分かったわよ。帰ったら覚えてなさい」
「あそこ……狼がいる」
「……魔女の使い魔ね。熊だけじゃなく狼までいるとは、そう仮定するしかないわ」
「熊と狼を同時に操作してるのか?」
「それじゃ動きが鈍くなるわ。多分、狼が先で熊が後よ。だから狼ごときに矢を無駄にしないで」
「分かったよ、デイジー」
そう言いながらも、マルクスはクロスボウを構え、鏃を狼に向けた。
+++
もし下山途中で敵に遭遇したら、どうすればいい……。
案の定、あの狼が敵を発見した。
間抜けな顔をした太鼓腹の男と、美しい女。
二人組か? いや、近くに三人目、四人目がいるかもしれない。
操られている死体は全部で9体あるからな。
「エリシア、降りて靴を脱いでくれ。戦闘になるかもしれない……」
本当は「逃げろ」と言いたかった。エリシアを戦わせたくないし、できれば俺だって戦いたくない。
だが逃げられない。一緒に戦うしかない。二人合わせれば『FXXK』は8発撃てる。
狼の視界から見るに、奴らはかなり近い。およそ200メートルといったところか。
女がクロスボウを構えた男に向かって喚き散らしている。女は狼を無視して、熊のために矢を温存すべきだと考えているようだ。
その女は今、意地を張るべきじゃなかった。そのせいで俺に情報が筒抜けになったんだからな。
彼女はただ慌てているだけだ。男がなぜ命令を聞かないのか理解できていない。
狼の視点では、自分の眉間がクロスボウで狙われているのが見えた。
喰らいつけ、喰らいつくんだ!
俺(狼)は飛びかかった。
くそっ、狼の体での動きに慣れていない。
放たれた矢が、眉間を貫いた。
また一度死んだような感覚。痛みに耐えて地面にうずくまり、絶叫を漏らさないよう必死に堪える。
「アンジェロ!」
「声を出すな!」
逃げろ、逃げたい……。
『FXXK』の撃ち合いなら負けないかもしれないが、相手はクロスボウを持っている。
あの男……恐ろしい奴だ。
なんとかして、あの女を人質に取れないか。
いや、考えるな。生死の境目で思考の泥沼に嵌まるわけにはいかない。
俺はエリシアを連れて、森の奥へと逃げ込んだ。
あの二人の足音が……やけに速い。
+++
マルクスは鈍感な男だが、デイジーは鋭敏な女だ。
デイジーは不審な足音を捉えていた。
さっきは一瞬パニックになったが、今はもう冷静さを取り戻している。
マルクスの馬鹿め、あとで死んでも絶対助けてやらないんだから!
本当に助けないんだから……。
足音がした。あっちの方角だ。森の中に伏兵がいるのか?
彼女は死んだ狼に向かって、一言『FXXK』と唱えた。
彼女は苦労して狼を操り、森の中を偵察させようとした。
マルクスはいつの間にか姿を消していた。
「FXXK」
その直後、デイジーの意識は途絶えた。




