タイトル未定2025/11/11 16:41
梅雨明けの7月中旬、翌週に行われる期末試験の勉強をするために、俊介と菜々美は大学の図書館を訪れた。3年生になり授業の内容も専門的になり難易度もグンと上がった。昨年までは、體育會野球部のチームメイトと一緒に試験の簡単な、そして成績判定のユルイ教授の授業ばかりを選択していた。そのおかげで、ろくすっぽ授業を聞いていなくても進級することができた。
だが、今年からは違う。ほとんどの授業を付き合ったばかりの菜々美と一緒に受けている。菜々美に後で要点を教えてもらえば、今まで通り居眠りができる。春からレギュラーになったことで、練習の厳しさは更に上がり、心身の疲労度もこれまでの比ではないのだ。それでも、菜々美の前でだらしない姿は見せたくなかった。スポーツマンとしての負けん気とは違う種類のプライドだった。
試験前ということもあり、図書館は学生であふれかえっていた。静かでひとけのない場所、というイメージを抱いていた俊介は、驚きを露わにした。何を隠そう、俊介が図書館に足を踏み入れるのは人生で初めてだった。困惑する俊介に菜々美が、「どうしたの?」と声を掛けても、「いや、ちょっと・・・」と言葉にならない呟きを漏らすことしかできなかった。
そんな俊介の様子を見て、菜々美は
「もしかして、俊くん、図書館来るの初めて?」
と、下から顔を覗き込んで笑いながら訊いてきた。ようやく落ち着きを取り戻した俊介は、辺りをキョロキョロと見渡しながら、
「そうなんだよ。もっと静かで、人も少ないと思ってたんだけど」
と答えた。それを受けて菜々美は、
「まぁ、今は試験前だからね。仕方ないよ。普段は俊くんの言う通り、もっと落ち着いた雰囲気だし、学生もこんなにいないよ」
と説明してくれた。そして続けて、「デートにもピッタリかもね」と、いたずらっぽく言うのだった。
一番奥まった場所に、なんとか空いているテーブルを見つけた。大きなガラス窓に面した席で、夏の強い日差しが眩しかったが、正門から校舎へ続く並木道の風景は、まるで有名な絵画のように見応えがあった。
お喋り好きな菜々美と一緒だと、しょっちゅう話し掛けられて勉強どころではなくなるだろうな、と覚悟していた。もっと正直に言うと、諦めてもいた。普段の授業中でさえ、教授の隙を見計らって話し掛けてきたり、ちょっかいを出してきたりするのだ。監視者のいない図書館では、ここぞとばかりにお喋りに興じることだろう。
ところが、いざ勉強を始めてみると、菜々美は一言も発しなかった。最初は、居眠りでもしているのだろうかと疑ってしまうほど静かで、しまいには「気を失っているんじゃないか」と心配になるほどだった。あまりの集中力に気圧されてしまい、いてもたってもいられなくなり、俊介のほうから「ちょっと休憩しようか」と声を掛けたのだった。それでも、1回では気付いてもらえず、菜々美の前に広げられた参考書を軽く揺すってようやく、「ハッ」と顔を上げてくれた。
10分ほどの休憩時間も、水分補給と気分転換の散歩に費やし、すぐさま後半戦に突入した。結局、正午過ぎから始めた試験勉強が終わったのは、日が沈みかけた頃だった。菜々美に刺激を受けて、俊介もこれまで経験したことのない集中力で勉強に取り組めた。風景が暗がりに溶け込んだことにも気付かなかったほどだ。誰かと一緒に勉強することが、こんなにも充実し、こんなにも捗って、そしてこんなにも楽しいとは思わなかった。それは、「菜々美と一緒」だからこそなのかもしれない。
参考書を片付けて伸びをしながら、
「んー、疲れたけど、結構集中できたね」
と言う菜々美に、俊介は素直に、
「菜々美のおかげでかなり集中して勉強できたよ。ありがとう」
と、感謝の気持ちを伝えた。菜々美は照れたように肩をすぼめながら、「どういたしまして」と応え、続けて、
「試験もこの調子で頑張ろうね」
と、ピースサインを送ってきた。俊介も、サムズアップで応える。なんだか今回の試験はすごく良い点数が獲れるような気がしてきた。
図書館を後にして、駅に向かって並木道を下っていると、「俊くん」と菜々美が声を掛けてきた。いつもの明るい笑顔ではなく、何か思い詰めたような表情に見える。
「どうしたの?」
と俊介が訊き返しても、すぐには答えない。数秒の沈黙が訪れる。何を言おうか考えているのではなく、胸にある思いを口に出していいのか迷っている、そんな間だった。
「菜々美?」と、話を促そうとしたら、意を決したように菜々美が口を開いた。
「あのね、ちょっとお願いがあるんだけど」
いつも俊介をリードして引っ張ってくれる菜々美には珍しいことだった。だからこそ男心をくすぐられ、無性に嬉しくなった俊介は、
「菜々美のお願いだったら、何でも聞くよ」
と胸を張って答えた。口先だけではなく、本気で菜々美の願いを叶えたくなった。菜々美はまだスッキリしない表情のままだったが、「お願い」の内容を打ち明けてくれた。
「試験が終わって夏休みに入ったら、ウチに遊びに来ない?」
俊介は思わず「えっ?」と声を出してしまった。何事にも積極的な菜々美だが、ここまで大胆に誘ってくるとは。俊介があらぬ妄想を繰り広げていると、菜々美は慌てて、
「違う違う!泊まりに来いって言ってるんじゃないからね。一緒にDVDでも観ようかなって思っただけだから。勘違いしないでよ」
と一息にまくし立てた。ホッとしたような、がっかりしたような、「なーんだ」と拍子抜けしてしまったような、なんとも複雑な気持ちになってしまう。
「分かってるよ、それぐらい」
とムキになって返すと、菜々美は少し俯き加減になって、「あとね」と話を続けた。
「ママに会ってほしいの」
俊介は再び「えっ?」と声を漏らす。さっきとは別の意味でドキッとしてしまった。そして、今度は先ほどとは逆に頭の中が真っ白になってしまう。妄想どころか、恋人の母親に会うことなど、想像すらできない。付き合い始めて、まだ2ヶ月にも満たないのだ。
俊介が言葉に詰まっていると、菜々美は、
「私もママに俊くんを紹介したいんだけど、ママも俊くんに会ってみたいんだって。ウチではよく俊くんの話してるからさ」
「まだちょっと早いんじゃない?」「急に言われても気持ちの整理ができないよ」
言いたいことはいくらでもあったが、思いは喉の奥で止まってしまい、そこから先へは進んでくれない。でもほんの数分前に、「菜々美の願いは叶えてあげる」と誓ったばかりなのだ。俊介の中で、矛と盾が闘っている。
そんな俊介の様子を見て菜々美は、
「まだ時期尚早って思ってる?」
と訊いてくる。図星だ。さらに続ける。
「いきなりで、気持ちの整理ができてない?」
これもビンゴ。相変わらず、俊介の考えていることをズバズバと当ててくる。さすがは俺の彼女、と呑気に構えている場合ではない。
俊介の表情を見て、自分の言う通りなのだろうと悟った菜々美は、「じゃあ」と別の提案を持ち出してきた。
「期末試験の成績で、私が勝ったら、ママに会いに来る。俊くんが勝ったら、逆に何でもお願い聞いてあげる、っていうのはどう?」
こういう条件では、野球に全てを捧げている勝負師としては燃えてくるもので、すんなり承諾することができた。
でも、よく考えてみると、一夜漬けで試験を乗り切ってきた俊介と、どの授業でも最高評価の「A」を獲得している菜々美。勝負の行方は目に見えている。それに、万が一にも俊介が勝った場合、「そんなにママに会いたくなかったの?」と菜々美を怒らせてしまうかもしれない。
だが、気付いた時にはもう遅かった。菜々美は、
「よし、俊くんに負けないように頑張るぞッ」
と無邪気に張り切っている。その明るさは、いつもの菜々美の明るさではなく、わざとらしい演技のように感じられた。菜々美も分かっているのだろう。分かっていて、敢えてふっかけてきたのかもしれない。これは完全な「出来レース」だということを。菜々美がペロッと舌を出す様子が、容易に想像できた。
結果は、予想通り菜々美の圧勝だった。ただ、俊介も健闘した。2年後期の試験は落第一歩手前の「C」判定ばかりだったが、今回はほとんどの科目で「B」を獲得できたのだ。菜々美には負けてしまったが、これは「勝ち」と言ってもいいだろう、と自分で自分を褒めてやりたい。
とは言え、菜々美との賭けに敗れたことは事実なので、俊介は腹を括って菜々美の母親に会いに行く決心をした。菜々美には、「俊くんがどうしても嫌なら、無理に来なくてもいいよ」と言われたが、皮肉にもその優しさが俊介の決意を揺るぎないものにして、
「大丈夫。俺も菜々美のお母さんに会ってみたくなった」
と、本心で返すことができた。
そんなわけで、大学が夏休み期間になり、野球部はリーグ後半戦に突入した8月最初の日曜日、菜々美の家を訪問することになった。
「お邪魔します」
俊介が玄関で声を掛けると、リビングの方から「いらっしゃーい」と明るい声が返ってきた。外靴からスリッパに履き替えたところで菜々美が姿を見せた。いつものTシャツにジーンズではなく、薄紫色の浴衣を纏っていた。
「どうかな?似合ってる?」
その場でくるりと回転しながら訊いてくる。
オシャレやファッションに敏感で、洋服にも拘りの強い菜々美だが、和装を見るのは初めてだった。今日は、3人で近所の神社で行われるお祭りに出掛けることになっている。
程よい色合いの紫が、鼻筋の通った端正な顔立ちの菜々美にピッタリだ。恋人としての贔屓目を差し引いても、よく似合っている。
「すごく可愛いよ。色は菜々美が選んだの?」
「そう、私。ネットで買ったんだけど、決めるのに2時間以上掛かっちゃった」
肩をすくめて笑いながら答える。そんな菜々美を見ていると、ついこっちもリップサービスしたくなる。
「でも、菜々美ならどんな色でも似合うよ。次は違うパターンの浴衣姿も見てみたいな」
優しく微笑みながら言うと、菜々美は素直に喜びながら、
「ホント?嬉しい!じゃあ、次は俊くんも一緒に選んでね」
と言って、俊介の腕に抱き付いてきた。服装は変わっても、こういうところは変わらない。菜々美は他人との距離が近い。良く言えば人懐っこいが、悪く言えば、あざといのだ。
抱き付いてきた菜々美の頭をポンポンと軽く叩く。菜々美は腕に埋めていた顔を上げて、上目遣いに俊介を見る。俊介は頭に乗せていた手を、そのまま後頭部の方に滑らせて、撫でるように菜々美の後ろ髪を梳く。嬉しそうに目を細めて笑う菜々美が、唇を尖らせてキスをせがんでくる。いつもの、お決まりの動きだ。挨拶のようなものかもしれない。
身長差が20センチ以上あるので、菜々美は精一杯背伸びをして、俊介は菜々美の顎をクイッと持ち上げないと唇を触れ合わせることができない。毎回つま先立ちするのはふくらはぎが疲れるだろうな、と思うものの、当の菜々美は平気な顔をしている。これも、「ボディタッチが多い」うちに含まれるのだろうか。
「緊張してる?」
菜々美が揶揄うような笑みを浮かべて訊いてきた。俊介は無言で頷き、生唾をゴクンと飲み込む。眉宇を引き締めると、胸が高鳴り、鼓動が速くなるのを感じた。浴衣姿の菜々美と対面した時よりも、強い緊張感に襲われる。
リビングに入ると、窓辺の観葉植物に水をやる「その人」の姿が目に入った。
その人—菜々美の母親、山本千代さん。最初の印象は、「綺麗」と「可愛い」を併せ持つ人だった。これまで出会ったことのないタイプの女性だ。二刀流の使い手は、海を超えて活躍する野球選手だけではなかった。
「ママ、俊くん来てくれたよ」
菜々美が声を掛けると、千代さんはゆっくりとした動作で入り口を振り向き、ニコッと微笑みながら、「いらっしゃい」と迎えてくれた。菜々美のように無邪気で明るい笑顔ではなく、穏やかで、温かくて、俊介を丸ごと包み込んでくれるような優しさに満ち溢れた笑顔だった。その瞬間、俊介の中に雷が落ちた。リビングに入る前に感じた緊張とはまた違う種類のドキドキで、人生で感じたことのない衝撃だった。もしかしたら、その瞬間から全ての歯車が狂い始めたのかもしれない。
菜々美とは、大学入学当初からの知り合いだ。俊介が所属している體育會野球部のマネージャーのひとりなのだが、部員数が100人を超える大所帯で、人気のある野球部ゆえにマネージャーだけでも10人近くいるので、最初から親しかったわけではない。あくまでも「知り合い」レベルの関係だった。
二人の距離が縮まったきっかけは、俊介の怪我だった。2年生のシーズン最終戦、ホームでのクロスプレーの際に足首を挫いてしまったのだ。すぐに立ち上がれない程の痛みがあり、皮膚が赤黒く変色し、踝が見分けられないぐらいに腫れ上がっていたので、病院で検査してもらうことになった。そこに付き添ってくれたのが、菜々美だった。
同じ学年で、学部も同じだということは知っていたが、硬派な熱血野球一筋漢の俊介にとっては、マネージャーはチームの裏方スタッフで部員の世話をしてくれる、というだけの存在だった。2年近く同じチームにいながら、「お疲れ様」「ウィッス」といった会話、いや会話にも至らない挨拶レベルの言葉しか交わしたことがなかった。病院までのタクシーの車内も、当然沈黙に包まれ・・・るはずだったのだが、車が走り出すなり菜々美が声を掛けてきた。
「足、大丈夫?氷、まだ溶けてない?」
応急処置で当てているアイシング用の氷を軽く触りながら、心配そうに、でも、気分が沈み込み過ぎないように明るい声色を作って訊いてくる。「大丈夫」と無愛想に一言だけ返した俊介だが、決して悪気があるわけではない。中学、高校時代も野球に打ち込んできた。打ち込み過ぎて、大切な青春時代を、あるいは思春期を、女子とほとんど接することなく過ごしてきたのだ。女性に対する免疫は皆無と言って良い。
「それなら良かった。骨折とかしてなかったら良いね」
「うん・・・」
「それに、明日からしばらくシーズンオフだから、その間にゆっくり治せばいいもんね。不幸中の幸いってヤツだよね」
ウフフッと肩をすくめながら笑う。俊介の会話のぎこちなさなど微塵も感じさせないほど、菜々美の口からは滑らかに言葉が出てくる。狭い車内での気まずさが解消されてホッとする半面、背中がむずがゆくなり、妙に落ち着かなくなってしまう。
練習中の菜々美は、あまり目立たない存在だった。先輩マネージャーの「ファイト!」「球際、集中!」という掛け声はよく聞こえるが、菜々美の大声は聞いたことがない。他の同期や後輩マネージャーがお喋りしながら仕事をしている時でも、ひとり黙々と作業に取り組んでいる。控えめで、大人しい子。俊介はそう思っていたのだが、今の菜々美を見ているとまるで別人と接しているような気になってしまう。練習の時は猫を被っているのだろうか。それとも、コインのように表と裏があるのだろうか。プロ野球選手のことは些細な個人情報まで頭に入っているのに、女性のことになると、何も分からなくなってしまうのだった。
日曜日だったので、救急患者を受け入れている大学病院に向かった。そのおかげで、レントゲンやCT検査などの精密検査を受けることができた。近所の病院ではなく大学病院に行くことを提案したのは、菜々美だった。働き者なのは知っていたが、こんなに気を回せる子だとは思わなかった。俊介は素直に感心し、感謝した。
検査の結果、幸いにも骨や靱帯に異常はなく、ただの捻挫だとドクターには言われた。診察室で検査の結果を聞き、足首に負担を掛けないトレーニングやストレッチの説明を受けている時も、菜々美はずっと隣にいた。子供を病院に連れてきた母親のように感じたが、菜々美は俊介以上に熱心に話を聞き、メモまで取り始めたのだった。
会計を済ませて「休日・夜間出入り口」から外に出ると、ちょうど俊介たちの通う大学方面行きのバスが病院の裏手に停車していたので、それに乗って帰ることにした。俊介は松葉杖をついているせいで、ピョコン、ピョコンと自分の身体を持ち上げるように歩く。大袈裟だと思ったが、「念のために」とドクターに言われたので、仕方なく借りることにしたのだ。ノンステップバスだったので松葉杖でも難なく乗車できたし、座席は半分ほど先客で埋まっていたが、一人掛けの優先席は全て空いていた。バリアフリー社会の有難味を、身を以って痛感した。
バスに乗り込むと、俊介が歩きやすいように菜々美が座席まで先導してくれた。グローブやユニフォームの入ったショルダーバッグも、菜々美が持ってくれたし、「すみません、通ります」と周りの乗客に頭も下げてくれた。マネージャーとは、ここまで尽くしてくれるものなのだろうか。
比較的乗客の少ない後部座席まで進み、空いている優先席の傍まで来ると菜々美はくるりと身体の向きを変えて俊介と向き合い、「どうぞ」と一人掛けの席を手で指し示した。「ありがとう」と応えて、松葉杖を両脇から外してゆっくりと腰掛けると、菜々美は俊介のバッグを棚網に乗せ、入れ替わりに左手で松葉杖を2本持ち、右手で吊革に摑まった。俊介の真横に立ち、窓の外を見ている。
「座らないの?」
と俊介が訊くと、棚網に乗せたショルダーバッグを指差しながら、
「荷物が落ちてきたら大変だから」
と答えた。
「・・・床に置いても全然平気だけど」
と言ってみたが、
「野球の道具が入ってるんでしょ?だったら、そんな雑に扱っちゃダメだよ。野球の神様に怒られちゃうよ」
と、幼い子供に言い聞かせるように返された。
もちろん、グローブの手入れやユニフォームの洗濯など、野球で使う物のケアには人一倍気を遣ってきた。それでも、今の菜々美の言葉にはハッとさせられた。中学や高校では何かスポーツをしていたのだろうか。そうでもなければ先ほどの発言はできない。それとも、俊介に対する気配りのように、物の取り扱いにも気を遣える優しい心の持ち主なのだろうか。
ぐうの音も出なくなり俯いてしまう俊介に対して、菜々美は、
「それに私、バスとか電車に乗る時って、立ってる方が好きなの。足腰も鍛えられてダイエットにもなるし、一石二鳥」
と、Vサインを作って笑いながら付け加えた。本当なのかどうかは、分からない。それでも、俊介に余計な心配をさせないために言ったんだということだけは、はっきりと分かった。野球以外に心惹かれる存在に出会ったのは、初めてだった。
翌日から、俊介はリハビリを兼ねた自主トレーニングを開始した。最初はひとりで行う予定だったが、菜々美がサポートしてくれることになった。着替えを終えて部室を出ると、すでにグラウンドで菜々美が待ってくれていたので、無下に断るわけにもいかなかったのだ。
足首に体重がかかり過ぎないよう動きを制限した筋力トレーニングを数種類反復する、という地味なメニューだったが、横で菜々美がタイムを計ってくれたり、「ラスト10回!」とカウントしてくれたので、モチベーションが下がることなく実施できた。普段の練習でも同じようなサポートはしてくれているが、マンツーマンで受けるのは初めてだった。そのおかげで、怪我をしているにも関わらず平常時よりも追い込んだトレーニングができた。そして、ひとりで行うトレーニングの何倍も楽しかった。
年が明けて、松葉杖を外しても問題なく歩けるようになった俊介の足首は、順調に回復していた。ランニングはもちろん、ベースランニングもほぼ全力で駆けることができるようになった。松葉杖を返しに大学病院を訪れた際には、お医者さんからも「もう皆と同じ練習に参加しても大丈夫ですよ」と復帰のお墨付きを得たのだった。
2月の全体練習再開を目前に控えた1月下旬のある日。怪我をして以来ずっと続けている菜々美との自主トレーニングを終えて、俊介は思い切って自分から話し掛けた。
「せっかくのオフ期間だったのに、ずっと練習に付き合ってくれてありがとう」
直立姿勢から、深々と頭を下げてお辞儀をした。心の底から湧いてくる、感謝の言葉だった。菜々美は一瞬キョトンとした顔になったが、すぐに笑顔を浮かべて、
「どういたしまして。部員をサポートするのが、マネージャーの役目ですから」
と、冗談めかして敬礼のポーズを取りながら応えた。俊介は「いや、でも・・・」と言葉に詰まってしまう。すると菜々美が、
「それに、もしこの期間のトレーニングのおかげで丸山くんが1軍に上がれたら、私も貢献したんだぞーって、チョットは思えるじゃん?」
といたずらっぽく言ってきた。俊介は首を横に振りながら、
「チョットどころじゃないよ。退屈なメニューが多かったから、山本さんがいなかったら心が折れてたかもしれない。ホントに感謝してるよ」
と改めて謝意を伝えた。さすがに今度は菜々美も照れてしまったのか、モジモジしながら、
「そう言ってもらえると、こっちも嬉しい」
と言い、さらに
「あとね、丸山君と同じチームで同じ学部なのに全然話したことなかったから、それも嬉しかったんだ」
と続けた。先ほどの照れた表情の裏には、こっちの思いの方が強くあったのかもしれない。
「それは俺も・・・」と言おうとしたら、胸の奥から別の言葉が追い越して口をついて出た。
「山本さん・・・俺と付き合ってください!」
野球ではランナーが前を走るランナーを追い抜けばアウトになってしまうのだが、言葉の場合はどうなんだろう。いや、これはセーフだ、と思い込むことにした。
突然の言葉と俊介の勢いに、菜々美は目を真ん丸に見開いて固まってしまったが、それ以上に俊介自身が一番驚いた。まさかこんなセリフを口にするなんて。菜々美はビックリした顔のまま、
「付き合うって・・・これからもトレーニングに、ってこと?」
と訊いてきた。「付き合って」と言うと、こういう捉え方をされてしまうのだと、俊介は知った。ホントに野球バカなんだなぁ、とも。
自分に対する呆れ笑いを必死に堪えて、
「いや、あの、そうじゃなくて・・・交際っていうか、友達以上っていうか、男女の仲っていうか、そういうアレになりたくて・・・」
と勘違いを訂正しようとしたが、自分でも何を言っているのか分からなくなってしまった。告白など初めてなのだから、うまく言葉にできないのも当然だ。
「だから、その・・・」と言葉を続けようとしたら、菜々美が右手の掌を俊介の目の前に突き出して制した。
「ゴメン、冗談。恥ずかしかったから、ふざけちゃった」
そして、「実は」と話を続けた。
「入部した時から丸山くんのこと良いなって思ってたの。だから、私を丸山くん専属のマネージャーにしてください」
今度は俊介の方がキョトンとしてしまった。頭の中を整理できないまま、
「専属って・・・これからもマンツーマンでトレーニング見てくれるってこと?」
と、先ほどの菜々美と同じような反応を返してしまった。菜々美もそれに気付いたのか、「もー」と頬を膨らませる。でも、すぐに笑いながら、
「さっきの私と同じじゃん。丸山くんも恥ずかしがってふざけたの?」
と訊いてくる。質問をしているというよりも、答えが分かっている問いを敢えて投げ掛けているような口調だった。俊介が「違う違う」と全力で首を左右に振ると、その慌てぶりも予想していた通り、といった感じで「フフフ」と笑みを深める。そして、
「遠回しに『好きです、付き合ってください』って言ったの。女心、ちゃんと分かってくれないとダメじゃん」
と、人差し指で俊介の腕をツンツンとつつきながら言う。なるほど、そういう言い方もあるのか、と、ようやく全てを理解し、状況が飲み込めた。
「それで、私が彼女になっても良い?ダメ?」
菜々美はグイッと一歩前に出て、俊介の顔を見上げながら訊ねる。少し迫力のある言い方だったが、不思議と可愛さも感じられた。俊介は、
「もちろん、ОKです。よろしくお願いします」
と言って、練習後にグラウンドに向かって一礼する時のようにお辞儀をした。その様子を見た菜々美は、おかしそうに笑って、
「丸山くんってホントに真面目だね。私とツーショットの時は練習じゃないんだからね」
と言い、最後に、
「こちらこそ、よろしくお願いします」
と、頭を上げた俊介にギュッと抱き付いてきたのだった。
3年生に進級するタイミングで、俊介は1軍に昇格した。最初はお情けの代打や代走要員だったが、ヒットや盗塁を連発する俊介の評価は右肩上がりに高まり、ゴールデンウイーク明けにはレギュラーに抜擢されるまでになった。チーム自体もリーグ戦で白星を積み重ね、好調を維持していた。創部以来初めての優勝も、夢ではないかもしれない。
もちろん俊介自身の努力の賜物でもあるし、一丸となって戦った団結力もチームに勢いをもたらしてくれている。それでも、菜々美の存在が大きかったことは間違いない。マネージャーとしても、恋人としても。こういう人と結婚したら幸せな家庭を築けるんだろうなと、将来の事をふと考えるのだった。
千代さんに「どうぞ」と促されて、俊介はソファに腰を下ろした。その隣に菜々美がドスンと勢いをつけて座り、両脚をローテーブルの下まで伸ばした格好でリモコンを操作してテレビを点ける。画面には、高校野球の甲子園大会が映し出された。カキーンという乾いた打球音とともに、ちょうどバッターがホームランを打ったところだった。高校時代、結局一度も甲子園の土を踏むことはできなかった。未練がないと言えば嘘になるし、今でも高校野球を観ると悔しさがこみ上げてくる。それでも、後悔はない。懐かしいという柔らかい言葉では表せなくても、俊介の青春を象徴する大切な思い出であることは間違いない。
「外は暑かったでしょう?冷たい物でも飲んでゆっくりしていってね」
そう言って、千代さんは氷の入ったコップに麦茶を注いで持って来てくれた。俊介と菜々美の分、2つのコップをローテーブルの上に並べて置いた千代さんだが、俊介のコップを置くとピタリと動きを止めた。怪訝に思いながら千代さんの顔を覗き込むと、
「俊介さんは麦茶じゃなくて、麦のお酒の方が良かったかしら?」
と、いたずらっぽく微笑みながら言った。凛とした気品が漂う千代さんだが、こういう冗談も言うのかと、そのギャップに俊介は戸惑い、愛想笑いを浮かべて、「いえ、大丈夫です」と返すことしかできなかった。
そんな俊介を見かねて、横から菜々美がフォローしてくれた。
「ちょっとママ、俊くんは真面目なんだから、からかわないでよ。ただでさえ、初めてウチに来て緊張してるんだから」
確かに緊張している。野球の試合でも、これほどの緊張を感じることはない。9回裏ツーアウト満塁、一打逆転のチャンスに代打で打席に立った時よりも、緊張の度合いは上かもしれない。でも、その原因は菜々美が言うように山本家に初めてお邪魔したからではない。女性に免疫のない俊介だが、いや、そんな俊介だからこそ、はっきりと気付いたのだ。千代さんに一目惚れしてしまったんだと。
自分の気持ちを認めると、ふと、ある疑問が頭をよぎった。この家には菜々美と千代さんしかいないのだろうか。菜々美にとっての父親、つまり千代さんの旦那さんはいないのだろうか。千代さんがリビングから出て行ったのを確かめて、小声で菜々美に訊ねてみた。
「今日はお父さんはいないの?せっかくだから、お父さんにもご挨拶したいんだけど」
すると、菜々美はいつもの明るい口調で、
「へー、俊くんでもそんな事考えてくれてるんだ。なんか嬉しくなっちゃうなぁ」
と応え、「実はね」と続けた。
「私が小っちゃい頃にママはパパと離婚したんだって。私は全然記憶にないんだけど。でも、ママは再婚せずに女手一つで私を育ててくれたの」
菜々美の明るさに、胸が痛む。俊介が、「そうだったんだ。ゴメン」と俯きながら返すと、
「俊くんが謝ることないじゃん。バツイチなんて珍しくないし、ママも全然気にしてないし。むしろ、女二人で今まで楽しく暮らせたんだもん。だから、きっとママも俊くんの事気に入って可愛がってくれると思うよ。速攻で山本家に馴染めるね」
と、首を傾げて俊介の顔を覗き込みながら言う。
決して楽しい話題ではないのに陽気に喋る菜々美を健気に思いつつ、俊介は全く別のことを考えていた。千代さんは、独身なんだ。喉の奥でその言葉を転がすと、真夏にも関わらず背筋がゾクッとするのを感じるのだった。
キッチンにこっそり目を向けると、千代さんはこちらに背を向けていた。その背中では青色の帯が綺麗に結ばれ、浴衣の生地に描かれた紅白の錦鯉の柄が、まさに今、水面から飛び跳ねたような躍動感を与えていた。ポロシャツにチノパン姿の俊介は、「自分も浴衣にすればば良かった」と、後悔するのだった。
だが、そんな俊介の胸の内を読み取ったのか、菜々美は、
「俊くんの浴衣も準備してるよ」
と、満面の笑みで言う。「私、できる女でしょ?」と勝ち誇るように胸をグッと張る。
素直に有難かったし、純粋に嬉しくなった俊介は、「ありがとう」と頭を下げた。
菜々美は「どういたしまして」と応え、続けて「ちょっと待ってて」と言い残して自分の部屋に向かい、ショッピングバッグを抱き抱えて戻って来た。そして、
「じゃーん。俊くんの浴衣でーす」
と中身を取り出し、両手を広げて見せてくれた。綿100%のしじら織り生地で、明るいグレー地に紺のストライプが入ったデザインだった。帯はシンプルな白の無地で、桐の下駄は履き心地が良さそうだった。
でも、残念なことに、というか恥ずかしいことに、俊介はこれまで浴衣を着たことがない。一人では着られないし、そもそもどうやって着るのかも分からない。菜々美にこっそり助けを求めようとしたら、千代さんに声を掛けられた。
「それじゃあ俊介さん、隣のお部屋で着付けしましょうかね」
菜々美をびっくりさせてやりましょ、と肩をすくめて笑い、菜々美には「部屋を覗いちゃダメよ」と警告した。菜々美は軽く「はーい」とだけ応えた。鶴の恩返しみたいだ。
着付けをしてくれるのは、確かに助かる。早く浴衣を着てお祭りに出掛けたいし、それよりもまず菜々美に見てもらいたい。
一方で、このまま千代さんについて行っていいのか、とも思う。千代さんが誘惑しているわけではない。逆だ。俊介は、自分の理性が崩壊してしまうような気がしていた。でも、ここで断るのも不自然だし、焦ったり動揺したりすれば、それこそ菜々美に何かを勘付かれてしまうかもしれない。結局、俊介は「よろしくお願いします」と頷きながら千代さんの後に続くしかなかった。
千代さんは、淡々と着付けをしてくれた。「両手を広げて、肩の高さに上げて」「そのままくるっと一周回ってくれる?」と言う声は、幼い子供を教え諭すように聞こえた。最後に襟元を整えてくれた千代さんは、
「よしっ、これでバッチリ。よく似合ってるわよ」
と言ってくれた。鵜呑みにするな、これは社交辞令だ、お世辞だ、アパレルショップの店員が客に言う「お似合いですよ」と同じだ。
自分を戒めるように俊介が心の中で呟くと、その思いを断ち切るようにフワッと柔らかい香りに身を包まれた。すぐ目の前にいる、千代さんの匂いだった。香水のような派手な匂いではなく、石鹸やベビーパウダーを思わせる優しい香りで、どこか懐かしい香りでもあった。それでも、その匂いが千代さんから発せられていると思うと、意志とは無関係に胸がドキドキしてしまうのだった。
「どうしたの?大丈夫?」
ハッと我に返った。目を瞬かせながら「すみません、大丈夫です」となんとか応えたが、胸の鼓動は高まったままだ。
「野球部の練習で疲れてるんじゃないの?外も暑そうだし、今日は無理しないでね」
と、さらに心配そうに俊介の身を案じてくれる。そうじゃないんです、と思いながらも、
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
と、ようやく笑顔で返すことができた。
リビングに戻ると菜々美がハイテンションでリアクションしてくれた。
「すごーい!俊くん、浴衣メッチャ似合ってる!カッコイイ!」
玄関で出迎えてくれた時と同じように、腕にしがみついてくる。
「せっかくの浴衣が崩れるよ。それに、お義母さんも見てるから」
と菜々美の身体を離そうとしても、
「大丈夫。ママはこっち見てないから」
と、どこ吹く風だ。確かに、二人でリビングに戻ったのに、千代さんはいつの間にかキッチンで洗い物をしていた。水流が強く、シンクを叩きつける水の音が、すぐ傍にいる菜々美の声よりもはっきりと耳の奥に届いた。
もうすぐ午後5時になろうとする頃、ソファから腰を浮かせながら菜々美が
「そろそろ行こうか」
と呟いた。俊介も大きく伸びをしながら立ち上がり、「うん」と応えた。
千代さんはいない。自分の部屋で寛いでいるのだろう。菜々美が「ママー」と大きな声を張り上げて呼ぶのを制して、俊介は、
「俺が呼んでくるよ」
と、菜々美の返事を待たずにリビングを出た。
階段を上がって2階の突き当りの部屋が千代さんの書斎だった。ドアには菜々美が作ったのだろう、丸っこい字で「ママの部屋」と書かれたプレートが掛けられていた。その文字を見た瞬間、再び拍動が速くなった。体内を流れる血液が、暴れるように巡っているのを感じる。
深呼吸で気持ちを落ち着かせて、コンコンッと軽くノックした。「はーい」という千代さんの声を聞いて部屋の外から、
「お義母さん、そろそろ出掛けます」
と伝えた。「ありがとう、すぐに行きます」という千代さんの反応を確認すると、肩がスッと軽くなり、全身から一気に力が抜けた。授業を1コマ受講した達成感のようでもあるし、逆に練習後の疲労感のようにも感じる。
役目を果たした俊介が踵を返して階段に向かうと、「俊介さん」と部屋の中から千代さんに呼び止められた。ドア1枚隔てているにもかかわらず、まるで耳元で話し掛けられたかのようにくっきりと輪郭を帯びた声だった。
再びドアに近付き、「はい」と応えると、
「ちょっと、中に入って来てくれる?」
と促された。軽く息をつき、ノックして「失礼します」と入室した。千代さんは化粧台の前に座り、ネックレスを付けている、正確には、付けあぐねているところだった。俊介が、
「何か、御用でしょうか?」
と訊ねると、少し恥ずかしそうに、
「ネックレスが付けられないの。俊介さん、手伝ってくださらない?」
と、鏡越しに懇願するような目を向けてきた。
「分かりました」と応えたものの、付け方が分からない。仕方なく千代さんの背後に近付き、首に掛かった細いシルバーのネックレスをそっと指先で掴んだ。手が震える。高価そうなネックレスに初めて触れる緊張なのか、千代さんの首元を間近に見つめるドキドキなのか。きっと後者の方が強いだろう。
手の震えが伝わったのか、千代さんが俊介の手の甲に自分の手をスッと当てて、
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。端がホックみたいになってるでしょ。それをもう片方の穴に引っ掛けるだけだから」
と、装着方法を教えてくれた。確かに学生服の詰襟のようにホック状になっている。教え通りそのホックを引っ掛けると、ネックレスはひとつながりになり、一段と輝きを増した。
千代さんは「ありがとう」と言って立ち上がり、俊介を振り向く。「派手じゃないかしら?」と顎を少し持ち上げて、装着したばかりのネックレスを見せてくる。
「はい、すごく綺麗です」
と返すと、千代さんは一歩距離を詰めて、
「綺麗なのはネックレス?それとも、私?」
と訊いてきた。首を傾げる姿は、菜々美そっくりだ。いや、順番的に菜々美の仕草が千代さんにそっくりなのだが、俊介にそんな理屈の筋道を立てる余裕はない。
「あっ、いや、その、えーと・・・」
とあたふたしてしまう。すると、千代さんはウフフと笑いながら、
「冗談よ。ちょっと揶揄ってみただけ。ごめんなさい」
と両手拝みのポーズをとった。それで少しホッとした俊介だったが、千代さんはさらに一歩近付いてきて、「俊介さんて、可愛らしいのね」と微笑み、続けて、
「さ、早く行きましょ。菜々美も待ってるわ」
と俊介の手を掴んで歩き出した。
頭の中は真っ白で、千代さんの声も耳を素通りするだけだったが、掴まれた左手の感覚は研ぎ澄まされていたのか、千代さんの手の温もりだけははっきりと感じ取れた。
家を出て3人横並び・・・ではなく、俊介と菜々美が並んで歩き、そのやや後方から千代さんがついて来る形になった。菜々美は相変わらずよく喋り、楽しそうにはしゃいでいる。まるで少女のように心躍らせている。その無邪気さが、今は羨ましい。
菜々美は気付いていないのだろうか。俊介が千代さんに浴衣を着付けてもらった時や出発の旨を伝えに行った時のことは、何も訊いてこなかった。何かが起こるなど想像だにしていないのか、それとも、「俊くんなら大丈夫」と信じてくれているのか。もちろん、裏切っているつもりはない。それでも、胸にチクリと刺さるものが、確かにある。
5分ほど歩くと、通りに人が増えてきた。俊介たちと進行方向が同じなので、皆お祭りに向かっているのだろう。幼い子供と両親の組み合わせや、定年退職して第二の人生を歩んでいるであろう老夫婦、俊介と菜々美よりもっと若い少年少女のグループやカップルもいる。もしかしたら、今日のお祭りのために電車やバスに乗ってこの街にやって来た人もいるかもしれない。まさに、老若男女問わず参加しているのだ。
神社の入り口に到着すると、熱気と活気に俊介は圧倒された。当然ながら、通りにできていた人の流れとは比ぶべくもない数の人が集まっている。鳥居をくぐると、その先の参道には両側にびっしりと屋台が軒を連ねていた。たこ焼きや焼きそばのソースの香りが食欲を掻き立て、ねじり鉢巻きを頭に巻いたオヤジさんの「いらっしゃい、いらっしゃい!」という威勢のいい濁声が購買意欲を刺激する。時刻はまだ午後5時半だったが、すでにお祭りムードは出来上がっているようだ。
そんな雰囲気や人だかりをものともせず、菜々美はどんどん先を進んで行く。さすがは東京生まれ、東京育ち。1両編成の汽車が1時間に1本しか走っていない田舎出身の俊介とは違う。
「菜々美、もうちょっとゆっくり行こう」
と声を掛けても、ざわつきに紛れて聞こえないのか、「平気だよ」とおかまいなしに突き進んでいるのか、歩調は変わらない。
ふと、千代さんが心配になって後ろを振り返ろうとした時、何かに帯をキュッと引っ張られた。振り向いて視線を落とすと、千代さんの色白の華奢な腕だった。もう片方の手を
膝について、肩で息をしている。ただならぬ状況を察知した俊介が、
「お義母さん、大丈夫ですか?」
と声を掛けると、ゆっくり顔を上げながら、
「大丈夫じゃないわよ。二人とも、歩くの速すぎ。もう少しお年寄りを労わりなさい」
と、喉を絞るように言った。額は汗びっしょりだった。俊介はうなだれて「すみません」としか返せなかった。
ちょうど参道の脇に休憩所が設置されていたので、そこで休んでもらうことにした。千代さんは「ふぅ」と息をついて腰を下ろし、
「ありがとう、楽になったわ。暑さには強いつもりだったけど、歳は取りたくないものね」
と、柔らかい笑みを浮かべて応えた。顔色はいくらか良くなったように見えた。最悪の事態は避けられた、と俊介はホッと胸を撫で下ろす。
とりあえず、この状況を菜々美に伝えなければ、と俊介は立ち上がり、
「菜々美さん、呼んできますね」
とその場を離れようとすると、千代さんに腕を掴まれた。
「どうされました?具合悪いですか?」
と焦った俊介が訊ねると、千代さんは無言で首を横に振る。
「あの、早く菜々美さんを呼びに行かないと」
と俊介が続けると、千代さんの口元が僅かに動いた。何か言葉を発したようだが、賑やかなお祭り会場では千代さんの声はかき消されてしまった。腰を屈めて耳を近付けると、
「俊介さんがいてくれれば、それで良いから」
と聞こえた。蚊の鳴くような、か細く頼りない声だった。
どう応えればいいのか分からない。頼りにされるのはもちろん嬉しいが、その一方で、自分がここにいて何ができるだろう、とも思う。野球部でマネージャーを務める菜々美と違って、看護や応急処置も十分にできない。合理的に考えるなら、菜々美が傍にいることが正解になる。千代さんとの関係性で言うなら、なおさら。
それでも、もし菜々美を探しに行っている間に千代さんの身に何かあったら、と考えると、去って行ったはずの不安がまた押し寄せてくる。気付いたら、俊介は再び千代さんの隣に座っていた。
自分から呼び止めたにも関わらず、千代さんは黙ったままだった。当然、俊介から声を掛けられるはずもなく、重たい沈黙がその場を支配した。その沈黙を破ったのは、俊介のスマートフォンの着信音だった。
「もしもし」と俊介が応えると、菜々美は、
「今どこにいるの?気付いたら俊くんいないんだもん、びっくりするじゃない!ママも見当たらないけど、一緒にいるの?」
と、矢継ぎ早に言葉を投げてくる。スマートフォンを耳から離したくなるぐらい、声も大きい。
やっと気付いたのか、とため息が漏れそうになるのをなんとか飲み込んで、現状を説明しようとお腹にグッと力を入れたら、千代さんに肘をつつかれた。振り向くと、「私が話すわ」と自分を指差して無言で伝えながら、俊介のスマートフォンを受け取ろうと手を伸ばしてくる。菜々美の声は、千代さんにも聞こえていたのかもしれない。
俊介も声には出さず「お願いします」とお辞儀を返し、スマートフォンを千代さんに手渡した。
「菜々美?ママだけど。ちょっと疲れちゃったから、今休憩所で休んでるの。大したことないから、心配しなくていいからね。俊介さん借りて悪いんだけど、何か美味しそうな物があったら買って来てちょうだい。じゃあね」
千代さんは一方的に喋って、電話を切った。それでも、菜々美には千代さんの思いはしっかりと伝わったんだろうなという気がした。
午後6時。拝殿前の特設ステージでカラオケ大会が始まった。周りで飲食を楽しんでいた人たちが一斉に会場に向かい、休憩所には俊介と千代さんだけが残された。
「せっかくのお祭りなのに、ごめんなさいね。こんな年寄りの付き添いなんかさせちゃって」
千代さんの言葉に、俊介は首を左右に振る。
「お祭りなんていつでも来れますから。それより、具合はどうですか?」
「ありがとう、だいぶ良くなったわ。俊介さんがいてくれて助かった」
「いえ、僕は何も・・・」
すると千代さんは、かぶりを振りながら、
「逞しい男の人が横にいると頼りになるし、それだけで心強いの」
と言って、俊介の肩に頭を預けてきた。ビクッとして、背筋がピンと伸びる。
「あの・・・大丈夫ですか?」
横になりますか?と続けようとしたら、千代さんは人差し指をスッと俊介の唇に当ててきた。何も喋れなくなり、身体も固まってしまった俊介に、千代さんは、
「ちょっとだけ、私の話をするから、そのまま聞いててくれる?」
と言った。まだ口を塞がれている俊介は、コクンと頷くしかなかった。
千代さんは18歳まで、東北地方の田舎の村で育った。高校卒業を機に上京。進学ではなく、就職先を求めて。貧しい家庭で育ったこともあって、稼ぎの良い水商売で生計を立てることにした。業界の厳しいしきたりや、他の嬢との人間関係の難しさに戸惑うことも多かったが、東北訛りの喋り方と田舎者の素朴さが大都市・東京で働くサラリーマンにはウケが良かった。次第に固定客を増やし、銀座でトップの人気を博するようになった。
30歳の時、客のひとりと結婚した。だが、幸せは長く続かなかった。結婚の翌年に菜々美が産まれると、男はあまり家に帰らなくなった。家事にも育児にも非協力的で、酒を呑むと千代さんに暴力を振るうようにもなった。このままでは菜々美の身にも危険が及ぶと感じた千代さんは、男の元を離れる決断を下した。結婚生活は2年にも満たなかった。
再び夜の世界に舞い戻ることも考えたが、男性不信に陥っていた千代さんはその道を諦め、生命保険のセールスレディの仕事に就いた。持ち前の美貌と愛嬌に加えて、水商売で12年間鍛えられた接客力とトークスキルを遺憾なく発揮し、徐々に売り上げを伸ばしていった。3年目には営業所でトップの売り上げを叩き出した。
平日は育児にまで手が回らなかったが、その分、土日や祝日は完全に仕事を切り離して過ごした。中には接待ゴルフや飲み会で休日を返上する同僚もいたが、千代さんは菜々美との時間に費やした。それが、保育園に預けっぱなしだった菜々美に対するせめてもの償いだった。同時に、可愛い愛娘との幸せな時間があるからこそ、来週もまた仕事を頑張ろうという気分になれたのだった。
そして現在は、都内で最大規模の顧客数を扱う支店の支店長を務めている。若手の営業職員が苦戦している時には自ら現場に赴くこともあるが、基本的には会議や書類のチェックなどのオフィスワークが業務のメインとなっている。だから、朝早くから陽が沈むまで外回りに出ていた頃に比べて、時間やノルマに追われることもなくのんびりと仕事をこなしている。今年、52歳になる。
「私の歳なんて、どうでもいいか」
呆れるように笑いながら、千代さんは話を締め括った。そんなことないです、と首を横に振る俊介に、続けて、
「俊介さんが聞き上手だから、いっぱい喋っちゃった。こんな話、誰にもしたことなかったのに」
水商売をしていたことは、菜々美も知らないと言う。そんな大事なことを初対面の自分に打ち明けてくれたことに感謝する思いが半分、もう半分は、重い話を聞いてしまったことに対するプレッシャーだった。戸惑う俊介をチラリと横目で見た千代さんは、追い打ちをかけるように衝撃のセリフを口にした。
「俊介さんに、一目惚れしちゃったのかも」
そう言って、俊介の左手に自分の右手を重ね合わせてきた。
いつもの俊介なら固まって動けなくなり、頭の中は真っ白で軽くパニックになる状況だ。だが、不思議と今は冷静でいられる。まるで、こうなることが分かっていたように落ち着いている。もしかしたら、分かっていたのではなく、この展開を願って、望んで、期待していたのかもしれない。
湧き上がってくる衝動を必死に抑えて、俊介は応えた。
「でも、僕には菜々美さんが・・・」
俯きながら口にしたせいで、語尾は消え入りそうな囁きになってしまった。それでも千代さんは、しっかりと聞き取ってくれていた。
「分かってる。でも、俊介さんも菜々美より私に気があるんじゃない?なんとなくそんな風に見えるわよ」
さすがに、これには驚いた。自分があからさまな態度をとっていたのか、それとも、これが夜の世界の女性の目というものなのか。確かに俊介にとって、菜々美がいつも明るい太陽なら、千代さんは優しく照らしてくれる月のような存在、そんな風に思っていた。
「いや、あの、別にそんな・・・」
と言葉を継ごうとすると、それを制するように千代さんは、
「ただし、私と菜々美、両方と同時に関係を持つのは禁止です」
と、強く凛とした響きの口調で言った。でもその直後には笑いながら、
「私が若い頃は『親子丼』なんてよくあったけどね」
とオチを付けるのだった。親子丼。俊介がその意味を知るのは、ずっとずっと後になってからのことだった。
キョトンとする俊介にいたずらっぽい笑いを浮かべたまま、
「とにかく、菜々美と付き合いながら私に気を奪われちゃダメってこと。本当に大事にしたい方を選びなさい。母親だからって遠慮しないでいいからね。だてに銀座でナンバーワンを張ってきたわけじゃないんだから。菜々美なんかには負けないわよ」
と一息に言った。最後まで笑いながら、口調も冗談っぽかったが、目は真剣だった。
菜々美の事を好きかどうか問われたら、もちろん「好き」になる。でも、「どうしても菜々美じゃないといけない?」と訊かれたら、「うーん」と考え込んでしまう。菜々美に対する気持ちが変わってしまったのだろうか。もしそうだとすれば、一体何が原因なのだろう。俊介の頭の中で、平家物語の冒頭、「諸行無常の響きあり」が浮かぶのだった。
難しい宿題を課された気分になったが、「分かりました」と応えると、千代さんに、
「よろしい。じゃあ、目を瞑ってくれる?」
と言われた。不安の方が強いドキドキに襲われながらも俊介が目を閉じると、人の気配が眼前まで迫ってきた。と、思う間もなく唇に温かい感触が伝わる。千代さんからのキスだった。目を開けたいが、瞼はいっこうに持ち上がらない。千代さんも唇を離さない。長いキスになった。だが俊介には、ほんの一瞬の出来事のように思えてならなかった。本当の幸せとは、こういうものなのだろうか。
どれくらいの時間が経ったのか、ようやく唇を離した千代さんはゆっくりと目を開けて俊介を見つめる。少し潤んだ瞳は、映り込む俊介が見えるぐらい透き通って綺麗だった。
「ありがとうございます」と言うべきなのか、「すみません」と謝るべきなのか悩んでいたら、千代さんが先に口を開いた。
「今のは私が勝手にしたことだから、気になさらないで。奥さんのいる男性に手を出すのが、昔から私の悪い癖なの」
と、やっぱり最後は笑いながら軽く言うのだった。いや、軽口だからこそ、本気なのかもしれない。
カラオケ会場の方から、美空ひばりの『お祭りマンボ』が聞こえてきて、やっと現実の世界にいる実感が湧いてきた。
しばらく高齢世代の歌唱が続き、そのタイミングで菜々美が休憩所にやって来た。
「カラオケ聞いてたんだけど、おじいちゃんばっかりになって退屈になっちゃった」
なかなか姿を見せない理由はそれだったのかと、俊介は苦笑いを浮かべる。
「そう言えばママ、体調は大丈夫なの?」
まず第一声がそれだろう、と俊介の苦笑いはさらに深くなる。ため息まで出そうになるのを我慢して、代わりに、
「お義母さんが食べられそうな物、何か買って来てくれた?」
と訊ねると、
「カラオケに夢中になって忘れてた!」
と両手を頬に当てる。成績は優秀なのに、おっちょこちょいなところのある菜々美だ。そんなところが人間らしくて良いなと思っていたが、今は冷めた目で見てしまう。
「俺が買ってくるから、代わりにお義母さんの傍にいてあげて」
と言って、俊介がベンチから立ち上がろうとすると、千代さんに、
「俊介さん、気持ちだけで十分よ。なんだか、もうお腹いっぱいになったみたい」
と制された。その時の千代さんの表情は寂しそうにも、諦め顔にも見えた。
カラオケ大会が終わると、会場のあちこちに設置されたスピーカーから、もうすぐ花火が上がるというアナウンスが流れた。少し離れた河川敷から打ち上げるらしい。
最初の花火が打ち上がると、カラオケ会場から「おー」と歓声が上がった。やはりほとんどの人が集まっているのだろう。休憩所から再びひと気はなくなり、その分、花火の音が際立っていた。
菜々美を真ん中に、左に千代さん、右に俊介が並んで座る。誰も言葉を発さず、ただただ花火を見上げる。そんな中、菜々美が俊介の肩に頭を預けてきた。いつもの仕草に、俊介も反射的に肩を抱こうと左手を伸ばすと、菜々美の後ろに不自然に置かれた掌が視界に入った。千代さんの手だった。それに気付くと、俊介は伸ばしかけた左手を下ろして、千代さんの掌にそっと乗せた。千代さんが無言で受け容れてくれたことを確認すると、俊介は一本ずつ指を絡めるように手を握った。恋人繋ぎの形になった。初めて、俊介から千代さんに関係を求めた。でも、それは同時に、最後の関係にもなった。
あれから、もうすぐ2年になる。無事に大学を卒業した俊介は、大手飲料メーカーに就職した。社会人野球は断念せざるを得なかった代わりに、小さな草野球チームに加入した。
菜々美とは、あのお祭りからしばらく経った頃に別れた。話は俊介から切り出した。千代さんとの出会いが決定的だったとは思わないが、多少影響はしただろうな、とは思う。菜々美は泣きながら、駄々をこねる子供のように拒んでいたが、最後は怒りの感情を露わにして去って行った。
引き換えに千代さんとの交際が始まった、というわけでもない。千代さんから課された宿題に対する俊介の答えは、「二人との関係を断ち切る」だった。そのことを千代さんに正直に告げると、反応は「そう」の一言だけだった。そして、少し間を置いて、
「俊介さんが選んだ道なら、仕方ないわね。あーあ、狙った男を口説けなかったのは、半世紀以上生きてきて、初めてだわ」
と冗談交じりに悔しがった。でもやっぱり、その悔しさは本物だろうなという気がした。
言うべきかどうか迷ったが、思い切って、
「でも、お義母さん、いえ、千代さんのことが好きになったのは変わりありません」
と打ち明けた。千代さんは呟くような声で、「ありがとう」と応え、続けて、
「菜々美とどっちが好きだった?」
と訊いてきた。なんとなく、そう訊かれるだろうなと思っていた俊介は、
「同じぐらい好きでした。だから、選べなかったから、二人から離れようと決めました」
と胸を張って即答した。未練なんて、ない。後悔など、もっとない。千代さんは、今度は黙って何度も頷くだけだった。頷きながら目元に手をあてたが、その手をすり抜けて頬を流れる雫が陽の光をはじいてキラリと光っていた。それは何よりも美しい、千代さんとの最後の思い出になった。
仕事帰りにふと、空を見上げると宵の空に星が瞬いていた。気のせいだろうか、天の川を挟んで輝く彦星と織姫は、今までで一番くっきりと、そして、一番近付いているように見えた。
菜々美はよく、俊介との出会いを「織姫と彦星みたいだね」と言っていた。付き合い始めたのは七夕の時期だった。当時は俊介も同じように思っていたが、今は違う。千代さんを加えて、夏の大三角形を思い浮かべる。彦星こと、アルタイルは俊介だ。でも、夏の大三角の中で最も明るいとされるベガを指す織姫は一体、千代さんと菜々美のどちらになるのだろう。明日は、七夕だ。




