遺言
一
恋愛とは――まことに一方通行の片道切符に似ている。あるいは時限付きの遊園地、または薬に耽溺するオーバードーズ、過剰なる陶酔か。束の間の幸福と、その果てに訪れる苦痛とを、必ず抱き合わせにして齎すものに相違ない。
されど、あの折の自身が如何にそれに狂わされていたかを思えば、今となっては馬鹿馬鹿しささえ覚える。人生において幾度出逢うか知れぬほど稀な、心の底より酔い、慕い、憧れ、そして愛した人間が現れてしまったがために、僕は感情の過剰摂取に陥ったのである。
全くもって、恋愛とは苦しみの側面の方が遥かに多いものだ。世間一般の目に映る僕のこれは、【愛】ではなく寧ろ【依存】と呼ばれるべきであろう。楽しさや愛おしさよりも、不安や悲哀や憂鬱に苛まれた時間の方が、幾十倍も長かったように感じる。そしてそこへ遠距離恋愛という甚だ重く、甚だ苦い負荷が添えられた。年の差一つ故の環境の相違、受験や進学に伴う数多の規制。幾度となく互いの行動を縛ったものだ――
今振り返れば、僕は貴方にとって都合のよい人間であった。それは薄々悟ってはいたものの、今や痛切に突きつけられている。何故か?
音信不通。何の言葉もなく置き去りにされたこの恋。挙げ句の果てに、貴方の一方的な我儘によって殺害されたからである。
これは、僕の遺言の様なものである。もし僕の死の暁には、僕と縁を持った人達に、是非とも読んで頂きたく思う。
二
貴方という人は、まことに酷薄な存在であった。飴と鞭の使い分けに長け、その術は余りにも巧妙であったのだ。
ある時は僕を友人へと誇示し、その友人らから「さぞ幸福だろう?」と問い詰められる羽目となり。ある時は千キロメートルを隔てる距離をいとも軽やかに飛び越え、僕に逢いに来てくれた。そしてまたある時は、三か月余りも放置を重ね僕の愛情を弄んだ。僕の肌に触れたその指先の感触も、互いの薬指に嵌められたペアリングの冷たい光も、やがては浮気めいた行為と共に僕を縛り付けるための小道具と化した。僕はその技巧にまんまと絡め取られ、気付けば深く深く貴方という沼に沈み込んでいたのである。
幼少期より愛着障害に苛まれ、鬱病にパニック症と、絶えず精神を病んでいた僕にとって、唯一の光は貴方であった。まるで運命であると、心の底から信じて疑わなかった。病のせいであったのやも知れない。だが僕は確かにそう思い込んでいたのだ。三日坊主で短く途切れがちなダイエットさえ続けることが出来、精神病の治療にも立ち戻れた。夜もまた、貴方を想いつつ眠れば睡眠薬は不要であった。ようやく健康に返り健常者と同じように暮らせているのだと錯覚するほど、恋というものはドーピングに相当する力を持っていたことを今なお鮮やかに憶えている。
けれど精神を病んでいた事実は消えず、むしろ悪化していたようにも思う。感情の起伏は烈しく、日内変動に苛まれ、夜な夜な苦痛に涙を流し、発作に襲われることもしばしばであった。殊に発作は、貴方と結ばれてから増えたようにさえ思える。心が軋むたびに腕や脚には自傷の痕が残り、思考を逃すために多量の薬を呑み込み嘔吐を繰り返す。それでも僕は貴方を愛していた。傷つき果てようとも、貴方の前では健常者であらねばと願い続けていた。
僕は両親に本心を明かすことを厭った。肯定されるか否定されるかが、親の気分一つで変わるからだ。その後遺症のせいか、貴方にも心の奥底を語ることは無かった。嫌われ、棄てられ、何より信用を失うことへの恐怖が僕を縛っていたのである。本来なら恋愛は素直であることが肝要だろう。しかし僕にとってはこの仮面の姿こそが最も楽で、平穏であった。我儘、自己中心的と言われれば否めない。だがそれでも、平穏を守るために僕は取り繕い続けた。
果たして、そんな僕を貴方は知っていたのだろうか。否、知らなかったに違いない。貴方は僕のことを五割も知らぬまま、恋人ごっこをしていたのだ。なぜなら、貴方は僕を知ろうとすらしなかった。僕の心の内を――僕をただの恋に溺れた愚か者と決めつけていたのだ。僕が男であることも、一つ年下であることも、あるいは存在そのものさえ、貴方は証明できぬのやもしれない。やはりこの関係に【恋愛】などという儚き名前を冠するべきではない。
それでも尚、今思うのは――僕はまだ貴方を好いているということだ。趣味に逃げ、酒に煙草に薬に逃げ、貴方を忘れたはずであったのに。ああ、僕は弱い。だがその弱さも、貴方は知らないのだろう。
昼下がり。夕焼けにはまだ及ばぬ頃、僕は目を覚ました。気付けば生活は昼夜逆転に戻っていた。昨夜飲み散らかした缶や瓶を袋に放り込み、机に積もる灰を眺めては深いため息を吐く。携帯を開き、ピン留めした貴方との会話を覗き込み、一言。
――ああ、もう返信は来ない。
それを繰り返すことが、これで幾日かも知れぬ。貴方のために必死に減らした体重も、今や食を絶ったが故に二週間で六キロ減じていた。鬱は悪化し、ついに入院へと追い込まれ、社会不適合の烙印を押されてまた精神を蝕まれる。朝から晩までゲームに逃げ、空白を妄想で埋め、浪費に明け暮れ、金のために重い身体を引き摺りながら仕事へ赴く。人間関係は苦手で、心の許せる友はひとりのみ。家にも居場所はなく、母は重い鬱に沈み、年の離れた弟の世話を任され、父の機嫌を窺うことが僕の役割であった。逃げ場はなかった。
そして今もまた、僕は死への支度を進めている。苦痛に堪えられない時、すぐさま死ねるようにと。自殺企図は日常の一部であった(エンディングノートはすでに三冊を超えていた)。今、貴方が読むこの文章もその一端である。遺言。全ての発端は貴方であるから、貴方には僕が死した後、己が人を殺めたのだと自覚して生きて欲しい――それが本心だ。だがあまりに過酷な罰であろうから優しい僕はそこまで望まぬ。ただ、僕を死に追いやった事実を過去として軽んじないで欲しい(命を弄ぶことは、怨念を育む種であるからだ)。
僕が貴方を生きる糧としたことが過ちであったのか。病に冒された身で貴方と出逢い、恋に堕ちたことが過ちであったのか。結局は、僕の誤ちの果ての自殺に過ぎない。精神病院に隔離されるべきと知りながら、それでも僕は貴方に知って欲しかった。僕がどれほど貴方を愛し、全てを捧げ、またどれほど傷つき、癒され、追い詰められたかを。これは結局、愛を棄て切れぬ僕が勝手に苦しんでいるに過ぎないのだろうが。
これ以上書けば、病に侵された頭が支離滅裂な罵倒を吐き散らすだけであろう。故に、最後に淡い思い出を語り、別れを告げるとしよう――
「貴方と初めて出会った日、何かしら他人とは異なる匂いを貴方に覚えた。何が違ったのかは未だ明瞭にはならぬけれどもね。それでも、貴方と共にあれば数多の幸せが手にできると予感したのだよ。たまたま父の隙をつき貴方がすぐに返信できる頃合いに携帯を触ることが叶った夜。それは僥倖としか言えない。貴方が女と別れた折も、僕が女に別れを告げられた折も、そして僕の告白を受け入れてくれたのも――まるで奇蹟の連綿のようであったなあ。
貴方に拒絶されてからの三か月、まるで生きながらにして死んでいるような心地であった。もしや貴方は不慮の事故に遭ったのではないか、あるいは病に冒され苦しみの果てに命を落としてしまったのではないか――そんな妄念ばかりが胸を過ぎ、そのたびに狂おしいほど連絡の有無を確かめずにはいられなかった。それでも確かな安堵は得られず不安に浸りきって心はすっかり疲れ果ててしまったさ。やがて貴方が何事もなかったように悠然と戻ってきた時、僕は喜びと同時にどうしようもない怒りを覚えたものだ。…今思えばよく耐え通したなと思うよ。貴方に初めて抱きしめてもらった日の前日は昂りのあまり眠れなかった。それでも初めて貴方を見た瞬間には僕のパートナーだと直感がそう告げたんだ。理屈ではない何かが胸を強く揺さぶり、貴方を愛していると力づくで告げてきたあの感覚――あれはきっと、二度と訪れはしないだろうよ。
…あァ、思い出すだけで胸の傷は疼き、しかも眩く光を放つ。墓に大切に仕舞い、共に眠りたい程に愛おしい記憶。
されど結局は――
貴方に出逢えて良かった。否、やはり出逢わなければ良かったのだろうか?いや、いや、厭、出逢えたことこそ救いだ。救い?嗤うな、救いなど無い。無いのだよ。
…アハ、やはり貴方は此処に居るのだろう?姿は無くとも、僕の心臓を締め上げるその手は確かに在るのだから。」
三
幾度となく夜を越え朝を越え、気がつけばあれから一月余が過ぎていた。僕は常に薬に眠らされ記憶の欠片もなく昼を迎えることが常であったが、その日ばかりは違った。自らの脳に叩き起こされたのである。生涯で初めてのことだった。
――あ、通知。
そう思った刹那、文字の羅列は僕の脳を無惨に掻き乱し、視界を白く痙攣させた。久方ぶりに舞い込んだ貴方からのメッセージは、要約すればただ「もう関わるな。自分の人生に二度と足を踏み入れるな」という命令であっただろう。大学が忙しいから、恋愛対象は女性だから、だから返事は不要だ――。あまりに自己中心的で、あまりに我儘で、あまりに卑小な言葉であった。
僕は嗤った。それはまるで心臓を踏みにじられ、あたかも哀れな蠅のごとく振り払われ叩き潰された心地であった。これを捨てられたと言わずして、何を捨てられたと言うのか?思考もおぼつかぬまま居間へ降りた。朝食は喉を拒み、ただ胸中を占めるのは貴方への嫌悪。自己肯定の糸はぷつりぷつりと切れてゆく。僕は褒め役であり、聞き役であり、玩具であり、飽きられたから棄てられたのだ――その言葉は臓腑をじわじわと蝕み、鬱病という名の犬は餌を得た獣のように僕の内で貪り肥え、今にも破裂せんばかりに膨れ上がった。
結局、僕はその程度の人間で、彼もまたその程度の人間であることを知った。コンビニのレジスタを打ちながら、ふと考える。自信もなく、鬱を抱え、卑小な僕に何の価値があろうか。しかし彼もまた、人を己の都合に合わせ弄ぶに足る性質の者だったのだ。なぜ、僕はあの幻のように優しい彼を愛したのか――あの優しさは一体、何処の誰であったのだろうか?
健常者の仮面は日に日に巧妙となり、貼り付けた笑顔は今日も不具合なく稼働した。しかし内には嫌悪と呆然とした恋情が渦巻いている――そうだ、僕は犬だった。貴方の掌に飼われ、監禁され、やがて棄てられた捨て犬だった。…いや、犬ならばまだ幸福であったろう。飼い主の慈愛を信じられるのだから。僕はただの玩具であり、暇潰しであり、塵芥にすぎない。そう悟れば、怒ることも泣くことも馬鹿馬鹿しくなって、ただ嗤うしかできなかった。その嗤いすらすぐに乾き、喉には冷たい空洞が残った。
部屋はいつからか暗く沈み、空気の味すら変じた。鏡に映る自分は歪み、伸び、僕を見下ろしては呵々大笑する――早く死ね。お前が苦しいのは、お前が醜いからだ、と。知らぬ間に僕の掌は血に濡れ、カッターナイフを握りしめ、腕や腿に無限の痕を刻んでいた。やめたい、やめねば、やめたくない……。
血液は傷口の上を宝石の列のごとく並び、窓から差す光を反射してきらきらと瞬いた。その美しさは僕を酷く魅了した。血の冷たさが神経を抉り、痛みと快楽の境界は消滅した。壊れゆくレセプタは警鐘を鳴らすことを放棄した。
心の奥底からは、ひたすらに死を要求する声が響く。何もかもが「死ね」と囁く。腕を、脚を、腹を、切っても切っても血が溢れることで生の実感を突きつけられる。それが嫌で仕方ないくせに、僕はまた快楽を求めて刃を当てる。日々繰り返されるその悪夢。小さなきっかけで心は圧し潰され、内側の膿が口から溢れ出て過呼吸を誘う。「死ねる」と「死んでしまう」の二つが脳内を往復し、悪寒は止まず歯はガチガチと鳴った。頬の内側を咬み破り血が滴る。幾度の発作の果てに、僕の八重歯は二ミリ欠けた。髪を抜き爪と皮膚を剥ぎ、布団はその屑で覆われ、風呂にも入れない僕の枕は脂臭を放った。部屋は出口なき迷宮と化し、天井は歪み、瞼を閉じても闇はぐにゃりと回転し吐き気を誘った。
やがて僕は時計を見ることすら放棄した。朝か夜か、食事をしたのか否かも分からず、頭を揺らしながら一日を浪費した。一時間は一分に、一分は一時間に変わり、時の感覚は部屋ごと歪んだ。昨夜は気絶してそのまま朝を迎えたし、窓の外は蝉と鳥の声が五月蝿い。部屋は日毎に狭まり、空気は粘りつく。硝子一枚を隔てて眺める世界は、気分が良いなど到底言えなかった。赤く疼く傷は昨日の痛みを鮮明に残し、血の匂いは鼻腔を突き抜け心臓を貫いた。
――死にたい。
僕の自慢の頭は、ついに思考することを放棄した。その瞬間こそ、ある意味で「僕」という存在は死んだのかもしれない。ああ、貴方のせいだ。全部全部貴方のせいだ。
僕が壊れたのも、眠れぬ夜を指折り骨折り数え続け胸を掻き毟り血を流したのも、みな貴方が撒いた呪いだ。
それなのに僕は馬鹿正直に受け入れて――痛みに酔い痴れて、嗤っている。ほら見てくれ、この傷たちを。この膿む肉を。傷口から溢れ出たセルライトを。この醜悪な痕跡を。さァさァ、これは全部貴方がくれた贈り物だ。どうだ、素晴らしいだろう?そうだと言ってくれ。
苦しい、苦しい、もっと苦しませてくれ。僕を踏み潰し吐瀉物を胃袋に押し戻し、地面に転がり雨に打たれてびしょ濡れの僕を笑ってくれ。そうでなければ、僕は生きている意味を見失い貴方を殺しに行く羽目になる。
なあ、貴方よ――どうして僕を救ってくれなかった?どうして、どうして僕を見棄てた?
可笑しい、あまりに可笑しいぞ!貴方が僕を壊したと喚き散らしながら、その実僕は嬉々として壊れてゆく。涙も、血も、反吐も、みな花火のように散り咲いてそれが美しいと錯覚しているのだ。ほら、耳を澄ませば聞こえるではないか、肉が裂ける音、骨が軋む音、心臓が狂ったように打ち鳴らす生命の音が。
それらはすべて、僕への祝祭の音楽だ。なんと愉快、なんと豪奢な狂宴であろうか…
僕はもう救われなくていい、いや救われてはならぬのだ。僕が救われたら、この苦しみもこの歓喜もみな無駄になるじゃないか。貴方がくれた絶望は僕を祝福し、僕を天へも地獄へも引きずり回すのだ。だから嗤え、もっと嗤うんだ。裂けた口から血を垂らし、喉を潰して尚嗤い続けよう。地獄の底で。
四
「見てごらん、この街並み。どこか馴染みのない景色だろう?いや、馴染みがないどころか何処もかしこも僕の目には新鮮で、まるで地図の裏側を歩いているような気分だ。曲がり角ごとに知らぬ匂いに知らぬ音、知らぬ人々がちらりと顔を見せる。まるで世界そのものが僕にささやきかけているようではないか?そして考えずにはいられない。どうして人は自らの命を絶とうとすることを咎めるのだろう?と。死にたいと思う心こそ自然の選択の一つではないか。誰しも自らの意志を尊重されてよいはずだと、そう思うのに周囲は常識という鎖で縛ろうとする。ハハ、それでも僕は嗤ってしまうのだ。奇妙な嗤いがこみ上げてくる。街の空気に混ざるように僕の声は消えて、しかし耳には届かぬはずもない…やもしれないな。この道を進めばまた新たな通りに出るそうだね。歩くたびに足の裏に伝わる石畳の冷たさも振動もすべてが心地よくて仕方がないんだ。鼓動の拍子に合わせて心も踊る。通りの角の灯りが揺れるのを見るだけでまるで魂が小さく歓喜の音を上げるんだ。しかし僕はすべてをやめたいのだよ。仕事も人間関係も学ぶことも娯楽も――全部やめてしまいたい。生きることすら、今は重荷でしかないのだから。
でも考えてみれば、なぜ生きることは美徳とされ死ぬことは忌み嫌われ、人は何ゆえに他人の死を咎め止めようとするのか?もしも望むのならば、死もまた一つの立派な選択ではなかろうか。心はそう問い続け、しかし同時に何とも形容し難い楽しさに引きずられ問いは風に溶けてしまうのだ。
さて、歩みを進めるたびに街の音や匂いは新しい世界を開いてくれる。誰も僕を見てはいないし、いや、誰もが僕を見ているのやもしれないけれども。だがいずれにせよ僕は自由で、すべてを受け入れる覚悟があるのだ。あらゆる音は僕の耳に調和し、車の音も人々の話し声もまるでオーケストラかの如くすべてが一つの旋律となる。なのに僕はやめたい、すべてをやめてしまいたい。足を止め目を閉じ消えてしまうことさえ願ってしまう。そしてこの路地の先。また灯りが揺れている。進もうか?いや進むのだ。何が待っていようと面白くないはずがないだろう?足は勝手にリズムを刻むし、脳は勝手に物語を紡ぐ。街は僕に語りかけ、僕はその声に従うほかないのだ。道は曲がりまた曲がり、思考も曲がりくねり絡まり合う。だがそれもまた楽しい。あァ、楽しい!僕は嗤い、歩き、街に溶け、一体となる。死の意味でさえもここでは消え失せてしまいそうだなあ。誰も説教しない、誰も止めようとしない。僕は自由そのものなのさ!街を歩くのも人を愛するのもそして生きるか死ぬかも自由なのだ!しかしそれでもすべてを投げ出してしまいたい。何もかも消えてしまいたい、やめたい。
足元が全くおぼつかないな。地面がまるで水面のように揺れているんだ。歩くたびに波紋が広がり靴底に水がまとわりつく感覚が妙に心地よく、吐き気がこみ上げてきた。なんて面白いんだろう。(嘔吐をする)アハ、ハア。なぜ人間は吐くのだろう?吐瀉物を口から放つこの奇妙な行為はまるで僕が世界に戻すことのできない何かを吐き出しているかのようだ。面白くてたまらないじゃあないか!そうだろう?
看板の文字がぐちゃぐちゃに踊り意味をなさず、しかしそれもまた愉快であるな。読めぬ文字が僕の目を揺さぶり頭の中に電気信号の花火を散らして…あ、世界が文字でさえ笑っているのか!街灯の光がグラスの底の液体のように揺れ、風が僕の髪を掴み振り回し、その刺激に脳が耐え切れず思考はサーカスのように暴れ回るんだ。歩みを進めるたびに吐き気と快感が入り混じって、足元の水面に映る自分の歪んだ姿がまるで踊る化け物のようで目が離せない。一体全体誰なんだい?君は。立ち止まってはまた吐き、嗤い、また歩いているけれど、何故僕は嗤い、そして嘔吐をし、同時に人生を謳歌しているのだろう?理由など不要、すべてが楽しいのだから!
気付けば、街のあらゆる音と光は祭りのようであって、僕の体も心もその祝祭の中に溶け込むんだ。歩き、嗤い、歩き、嗤う。終わりはあるのやもしれぬけれど、今は考えない。今はただ、ただ街とともに踊って街とともに呼吸するのだ。そして同時にすべてをやめる自由を想像するのさ。仕事も、友も、学びも、娯楽も、何もかもやめるのだ。ああ、なんと甘美な思いであろうか!
――あァ…僕はもう、貴方が大嫌いだ」




