『婚約破棄された伯爵令嬢、追放先で偽りの王妃の正体と毒殺の過去を知り──ざまぁ断罪したら滅んだ国の隠れ王子に溺愛されました』
王宮の大広間は、祝宴を飾るために敷き詰められた絢爛たる絨毯と、壁に掛けられた豪奢なタペストリーで彩られていた。だが、きらめく燭台の光に照らされているのは、華やぎではなく重苦しい空気だった。ざわめく人々の視線が一斉に私へと注がれる。熱気と冷気が交錯するようで、背筋が粟立った。
私は伯爵家の娘、リディア・フォン・エルデ。幼少より王子の婚約者として育てられ、今日までの努力が未来に続くと信じて疑わなかった。だが、その信念は、まるで硝子のように打ち砕かれることになる。
王子が立ち上がり、険しい顔で私を見下ろした。その横には、現王の王妃――私の継母が、透き通るような笑みを浮かべて座している。
「リディア・フォン・エルデ。……お前との婚約を破棄する」
その言葉は雷鳴のように大広間に響き渡った。私の胸を鋭い刃で裂くかのように痛みが走る。膝が震え、背筋が思わず折れそうになる。
「な……なぜ、そのようなことを……」
かすれた声で問い返すと、王子は視線を逸らし、ちらりと継母を見やった。
「お前は学問も舞踏も怠り、王子妃として相応しくない。加えて、侍女たちに暴力を振るったと証言が上がっている」
「そんなこと……! 一度たりともございません!」
必死に否定した声は震え、広間に響いたが、誰も味方をしようとはしなかった。むしろ、集まった貴族たちからは「なんという……」「信じられぬ」といった嘲りと軽蔑が混じった囁きが飛び交う。私の視線の先、継母の瞳が細められ、愉悦を含んだ光が宿る。
「この国において、王妃を侮辱し、王子を欺く者は存在してはならぬのです」
継母が澄んだ声で言い放つ。まるで私が王子を裏切ったかのような響きに、兵士たちが進み出て私の両腕を掴んだ。冷たい金属の手甲が肌を食い込ませ、心臓が締め付けられる。
「お待ちください! 私はただ……ただ、王子殿下に忠誠を……!」
懇願の言葉を吐き出すが、王子は冷たく視線を切った。その瞳にかつての優しさも情愛もない。あるのは、継母に従順に従う光だけだった。
「リディア・フォン・エルデ。お前を国外追放とする」
断罪の声が広間を震わせた瞬間、胸の奥で何かが壊れる音を聞いた気がした。人々のざわめきが波のように押し寄せ、私は兵士に引き立てられながら必死に振り返る。誰一人、手を差し伸べてはくれない。幼い頃から共に過ごした貴族の令嬢たちすら、目を逸らしていた。
「いや……私は……私は何も……」
絞り出す声は誰にも届かない。最後に視線を向けた先、継母が勝ち誇った笑みを浮かべていた。すべてを掌に収めた女の笑み。私の胸に渦巻くのは、絶望と怒り、そして言葉にできない悔しさだった。
■
追放されたその夜、私は荒れ果てた地で小さな火を焚いた。瓦礫に囲まれた石門の影に身を寄せ、冷たい風を防ぐ。炎がぱちぱちと爆ぜる音だけが孤独を慰めてくれる。けれど、胸の奥は空っぽで、息をするたびに痛みが広がった。
そんな時だった。馬車で共に運ばれ、唯一私と一緒に追放された従者――幼い頃から仕えてくれていたマリアンナが、そっと私の隣に腰を下ろした。彼女は疲れた顔をしていたが、その瞳には強い光が宿っていた。
「お嬢様……火が消えてしまわぬよう、薪を拾ってきました」
彼女は抱えてきた枝を火の中にくべる。ぱっと炎が大きくなり、私たちの顔を照らした。
「マリアンナ……ごめんなさい……貴女まで一緒に」
私の声は震えていた。王城での出来事が脳裏に焼き付き、継母の勝ち誇った笑みが離れない。マリアンナは静かに首を振った。
「私は、お嬢様に仕えると誓ったのです。どこへ追われようとも、お傍を離れるつもりはありません」
その言葉に胸が熱くなり、思わず視線を逸らした。涙が零れそうになるのを必死に堪える。
「……私はもう、何も持っていない。婚約も、家も、未来も……」
焚き火を見つめながら吐き出すと、マリアンナは強く首を横に振った。
「いいえ。お嬢様にはまだ心があります。そして……諦めたら負けですよ……生きていくのです」
彼女の瞳がまっすぐ私を捉える。その光に背を押されるように、私は口をつぐんだ。沈黙の中、炎の音だけが響き、星空が私たちを見下ろしている。
「……ありがとう、マリアンナ。貴女がいてくれるなら、私は……まだ頑張れるかもしれない」
その言葉に、マリアンナは静かに微笑んだ。二人きりの焚き火の前で、私は初めて孤独から解き放たれるのを感じた。冷たい夜風の中、炎は小さくとも確かに温もりを与えてくれていた。
追放地の荒れ果てた大地を、私はマリアンナと並んで歩いていた。かつては王国として栄えたというが、今は瓦礫と雑草に覆われ、風が吹くたびに崩れた石壁が軋む音を立てる。人の気配はなく、廃墟の街はまるで時を止めたかのように沈黙していた。
「……ここに、本当に王国があったなんて」
私の言葉に、マリアンナは静かに頷いた。けれど、その視線はどこか不安げで、胸の奥に広がる寂しさを隠しきれていなかった。
そのときだった。杖を突く音が、静まり返った街に響いた。振り返ると、古びた外套を羽織った老人が立っていた。深い皺に覆われた顔に、灰色の髪。だが、その瞳はただの漂泊者ではない、鋭い光を帯びていた。
「……どなたですか?」
私が問いかけると、老人はゆっくりと近づき、崩れた石の上に腰を下ろした。
「わしは、この国に仕えていた近衛兵長の生き残りじゃ」
その一言に、胸が大きく鳴った。失われたはずの国に仕えていた者――まさか、こんな荒れ果てた場所で出会えるとは思ってもみなかった。
「この国には……本来、王女殿下がおられた。しかし、戦乱のさなか、その王女殿下は没落しかけた貴族の家に匿われたのじゃ」
「……貴族の家?」
老人は頷き、ゆっくりと告げた。
「そう……その家こそ、お前の継母の家じゃ」
空気が凍りついたように感じた。耳鳴りがして、思わずマリアンナの袖を掴む。
「もっと詳しくお話してください」
私は思わず、虚偽とは思えない老人の瞳に吸いこまれたかのように思わず聞いていた。
■
夜の焚き火の前。ぱちぱちと木の爆ぜる音を聞きながら、私は老人に問いかけた。
「……どうして、あなたは今もここに残っているのですか」
老人は火に照らされた皺だらけの顔を伏せ、長く息を吐いた。その背中は哀愁を帯び、語るべき重い過去を抱えているのが分かった。
「わしは、この国が滅びるその日まで、王女殿下をお護りしていた。戦火が迫り、王族は散り散りになられたが……殿下は没落しかけたあの家に匿われることとなった」
老人の声は震えていた。私とマリアンナは息を呑んで耳を傾ける。
「だが……その家で毒が盛られた。わしは必死に守ろうとしたが……間に合わなかった。王女殿下は冷たくなり、代わりにあの女が“自分こそ王女”だと名乗り出たのじゃ」
老人は拳を握りしめ、膝の上に叩きつけた。目には悔しさと無念の色が浮かんでいた。
「わしは真実を訴えようとした。だが、すでに権力を握り始めたあの女に邪魔者とされ、追放された。近衛兵長という身分のおかげで命までは奪われなかったが……この荒れ地に縛られることになったのだ」
炎が揺らめき、老人の影が大地に長く伸びる。沈黙が重くのしかかり、私は胸の奥が締め付けられた。
「それだけではない……。わしには孫娘がおった。彼女もまた、そなたの国の貴族の跡継ぎと婚約をしておったが……あの女の策略によって濡れ衣を着せられ、婚約を破棄され、家からも追放された。わしが声を上げれば、孫娘の命すら危うくなると脅され、何もできなかった」
老人の声が震え、焚き火の光が潤んだ瞳を照らす。悔しさと無念が胸を抉るように伝わってきた。
「それから今日まで、わしはここで待っていた。いつか、この真実を託せる者が現れる日を……かの国で追放された婚約者の噂を聞いていたから、そなたを探していたのじゃ」
老人の声は次第に静まり、火の音にかき消されそうになる。けれど、その瞳には希望の光が宿っていた。
「そして今……お前に出会えた。リディアよ、どうかあの女の偽りを暴き、この国の名誉を取り戻してくれ」
私は強く頷いた。胸に灯った決意は、もう揺るがなかった。マリアンナも静かに微笑み、そっと私の肩に手を置いた。
焚き火の赤い炎が、私たち三人の顔を優しく照らしていた。
衝撃で言葉を失った。胸の奥がかき乱され、吐き気を覚える。あの女が、ただの策略家ではなく……王女殺しの成りすましだったというのか。
「信じられぬかもしれん。だが、これは真実じゃ」
老人は懐から布袋を取り出し、私に差し出した。袋の中には古びた手紙と、小さな指輪が収められていた。指輪には王家の紋章が刻まれている。
「これは王女殿下の遺品。真実を暴く証となろう」
手に取った瞬間、その冷たい輝きが私の決意を強くした。涙が頬を伝うが、心はもはや絶望に沈んではいなかった。
「必ず……暴いてみせます。偽りの王妃を」
私の言葉に、老人は深く頷いた。マリアンナは強く私の手を握り返す。荒廃した大地に、確かな誓いが生まれた瞬間だった。
焚き火の炎が赤々と揺れ、夜の闇を押し返していた。私とマリアンナ、そして老人はその火を囲んで座っていた。風が廃墟を吹き抜け、遠くで崩れた石壁が軋む音を立てる。
老人は深い皺の刻まれた手を膝の上で握りしめ、低い声で呟いた。
「わしは長く、この地に縛られ続けた。あの女の偽りを暴けぬまま……王女殿下を守れなかった罪を背負い……」
その声には後悔と悔恨が染み込み、聞いているだけで胸が締め付けられた。私は思わず焚き火に視線を落とし、指輪を握りしめる。冷たい金属の感触が、決意を確かに思い出させる。
「けれど、私も同じです」
言葉を吐き出すと、老人とマリアンナがこちらを見た。私は唇を噛み、込み上げる感情を押し殺しながら続けた。
「私も、あの継母になるはずの策略で婚約を破棄され、追放されました。信頼も未来も踏みにじられました。……だからこそ、黙ってはいられないのです」
炎に照らされ、老人の瞳が揺れる。その奥に宿った光は、哀しみではなく希望だった。
「リディアよ……お前も同じ痛みを背負ったのだな」
老人はそう言い、ゆっくりと手を差し伸べてきた。その手は皺だらけで震えていたが、確かな力がこもっていた。
「共に誓おう。王女殿下の無念を晴らし、わしらが奪われた未来を取り戻すために。必ず、あの女を断罪するのだ」
私はその手を強く握り返した。震えが全身を走ったが、それは恐怖ではなく熱だった。背後でマリアンナがそっと私の肩に手を置く。
「……ええ。誓います。必ず、あの女を裁き、真実を世に示します」
焚き火の炎が三人の顔を照らす。赤く燃える火が、まるで誓いそのものを象徴するように揺らめいていた。夜風が吹き抜けても、炎は決して消えない。その光は、私たちが共に固めた復讐の誓いの証だった。
■
翌朝、廃墟の空が淡い光に染まり始めた頃、私たちは焚き火の灰を踏みしめながら立ち上がった。冷たい風が吹き抜け、石壁に絡まった蔦が揺れる。昨夜交わした「復讐の誓い」は、ただの言葉ではなく、行動に移すべき使命へと変わっていた。
老人――いや、かつて王女殿下を護っていた近衛兵長は、背筋を伸ばし、鋭い目をしていた。彼の皺だらけの顔には長い苦悩の跡が刻まれていたが、その瞳は兵士のものだった。弱々しい従者ではなく、国を護る剣を握っていた男の気迫がそこにあった。
「準備を整えねばならん。まずは、王女殿下の遺品を守り抜いたこの地を出て、都へと向かう」
兵長は布袋を取り出し、王家の紋章が刻まれた指輪と手紙を改めて確認した。光に照らされた指輪は冷たく輝き、私の胸に再び熱を宿す。
「ですが……兵長。もし私たちが王都へ向かえば、再び捕らえられる危険もあります」
マリアンナが不安げに問う。兵長はその視線を受け止め、かつて戦場で兵を率いた声で応えた。
「危険は承知の上だ。だが、今動かねば二度と真実は日の目を見ぬ。わしは王女殿下を守りきれなかった無念を、この行動で晴らす。今度こそ、偽りを終わらせるのだ」
私も拳を握りしめ、頷いた。胸の奥にはまだ恐怖が渦巻いていたが、それ以上に燃える決意があった。
「必ず、証を突きつけてみせます。私を陥れたあの女に……王女を殺して王妃となった罪を」
兵長の口元に、わずかながら戦士の笑みが浮かんだ。その表情を見て、私は心強さを覚える。かつて王女を護るために命を懸けた人が、今は私の隣にいるのだ。
「リディア、マリアンナ。我ら三人で向かうぞ。剣も盾も足りぬが、真実こそ最大の武器だ」
朝日の光が瓦礫の隙間から差し込み、三人の影を長く伸ばした。廃墟に響く足音はまだ小さい。けれど、その一歩が未来を切り開くのだと信じていた。
復讐の誓いは、ついに行動へと変わった。
■
昼前の街道。陽は高く昇り、容赦なく照りつける光が荒れた石畳を焼き、靴底から熱が伝わってくる。私とマリアンナ、そして近衛兵長は汗を拭いながら王都へ向かって歩を進めていた。空気は乾ききり、蝉の鳴き声すら響かない。沈黙の中で、私の胸には決意と不安が入り混じっていた。
「お嬢様……足取りが重くなっておられます。ご無理をなさらずに」
マリアンナが心配そうに囁いた。私は微笑みを作って返すが、その裏で心臓は早鐘を打っている。
「平気よ。……でも、王都に近づくにつれて、不安が増しているのは確かだわ」
吐き出した言葉は熱風にかき消されそうだった。兵長がちらりとこちらを見て、険しい顔で言う。
「先を考えてしまうのは当然だ。だが、それを押し殺すのが使命だ。わしらにはやるべきことがある」
その瞬間だった。茂みの中から甲高い笑い声が響いた。
「へへっ、いいカモが歩いてやがる!」
十人ほどの盗賊が道を塞ぎ、粗末な剣や棍棒を構えてにじり寄ってくる。彼らの目はいやらしい欲望に濁り、汗の匂いをまとっていた。
「やめて!」
私は思わず声を上げる。兵長が前に出て剣を構えるが、年老いた体で多勢を相手にするのは無理だと直感した。マリアンナは私の手を握り、震えていた。
「どうするの……!」
息を呑んだ瞬間、鋭い声が昼下がりの空気を切り裂いた。
「彼女たちから離れろ!」
街道脇の木陰から、ひとりの青年が飛び出した。陽光を反射する剣を振るい、盗賊の一人を一撃で倒す。その動きは流れるように美しく、迷いがなかった。
「な、なんだこいつ!」
盗賊たちが動揺する。青年はしなやかな体で次々と剣を繰り出し、まるで舞うように敵を薙ぎ払っていく。汗に濡れた額から光が滴り、真剣な瞳がきらめいていた。その姿に、私は言葉を失った。強さと同時に、誰かを守ろうとする真摯な心が剣先に宿っていたからだ。
やがて盗賊たちは恐怖に駆られて逃げ去り、街道に静けさが戻った。私は胸の鼓動を抑えきれず、青年に近づいた。
「……助けてくださって、ありがとうございます。あなたは一体……?」
青年は剣を収め、振り返った。陽光に照らされた深い青の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。胸の奥が熱くなるのを、私は必死に隠そうとした。
「名はエリアス。ただの旅人だと思っていただいて構いません」
そう言って彼は微笑んだ。その微笑みはどこか悲しげで、けれど温かかった。私は思わず目を逸らし、頬が熱くなるのを感じる。
盗賊退散の後、私たちは道端の岩陰に腰を下ろし、息を整えた。マリアンナが簡潔に、けれど切実に、私たちが王都へ向かう理由を語った。継母の偽り、王女毒殺の真実、そして断罪のための旅路であることを。
エリアスは黙って耳を傾け、やがて深く頷いた。
「……そういうことだったのですね。ならば、どうか僕にも同行させてください。あなたたちだけでは危険が大きすぎる。僕の剣を役立てたい」
その瞳は強い光を帯びていた。偽りに抗おうとする意志と、正義を貫こうとする覚悟が宿っていた。私は胸が震え、言葉を飲み込む。
「でも……あなたまで巻き込むわけには……」
「巻き込まれるのではありません。僕が望んで共に行きたいのです。あなたは一人ではない」
彼の言葉に、胸の奥で何かが溶けた。これまで感じ続けてきた孤独が、少しだけ薄れていく。兵長は黙って頷き、マリアンナも安堵の笑みを見せた。
「……分かりました。エリアス。共に行きましょう」
そう告げた私の声は、昼の空に吸い込まれていった。だが胸には確かに、新たな力が宿っていた。エリアスの存在が、未来へ進む道を照らしてくれていたのだ。
■
夜の森はしんと静まり返り、焚き火の炎だけが小さく揺れていた。橙色の光が岩肌を照らし、長い影を伸ばす。私は炎の向こうに座る近衛兵長の険しい表情に気づき、そっと声をかけた。
「……兵長、何か考え事をされているのですか?」
彼はしばらく黙って炎を見つめていた。やがて深いため息をつき、低い声で答えた。
「……あの青年のことだ」
視線の先には、少し離れた岩に腰を下ろし、剣を磨くエリアスの姿があった。月光に照らされる横顔は真剣で、焚き火の光が剣身に淡く反射している。
「盗賊を退けたときの剣裁き……ただ者ではない。そして……あの剣だ」
「剣?」
私が問い返すと、兵長は頷いた。その声は震えていた。
「あれは王家にのみ伝わる紋章入りの剣。戦火の中で焼かれ、決して外に出ることはなかったはずのものだ」
私は思わず息を呑む。エリアスはただの旅人だと名乗ったが、その言葉を疑わざるを得なかった。
「それに……顔立ちも……」
兵長は目を細め、かすれる声で続けた。
「わしが仕えていた王と王妃様の面影がある。特にあの瞳……。よもやと思ったが、もはや否定できぬ」
言葉の最後は震え、目には光るものが浮かんでいた。兵長は拳を強く握りしめる。
「……戦争が始まる前、王妃様は一人の赤子を産まれた。だが混乱の中、血を絶やさぬため密かに外へと逃されたのだ。わしらはその赤子の行方を知ることはできなかったが……生きていたのかもしれぬ」
私の心臓が大きく打ち、喉が詰まる。焚き火の火花がぱちぱちと弾け、静寂の森に音が広がる。兵長の言葉は重く胸に沈んだ。
「……つまり、エリアス様は……」
「滅びた国の、最後の王子よ」
兵長の目尻に涙が伝う。長年の無念と希望が混じり合った涙だった。
そのとき、こちらに気づいたエリアスが顔を上げた。青い瞳が焚き火の向こうから私たちを見つめる。その眼差しに、確かに王家の気高さと優しさが宿っていた。
夜の森は深い静寂に包まれていた。焚き火の赤い炎が小さく揺れ、橙の光が周囲を照らしては影を揺らす。マリアンナと近衛兵長は眠りにつき、残されたのは私とエリアスだけだった。彼は少し離れた岩に腰をかけ、月明かりを浴びながら剣を見つめていた。
胸がざわめく。さきほど兵長から聞いた話が頭を離れない。――あの青年は滅びた国の王子なのではないか。
私は堪えきれず、焚き火を回り込んで彼のもとへ歩み寄った。足音に気づいたのか、エリアスは剣を置いて振り返る。その青い瞳が夜の闇に浮かび上がり、思わず胸が締め付けられる。
「……眠れないのですか?」
彼の問いに、私は小さく頷いた。鼓動が速くなり、口にする言葉を選ぶ間もなく唇が動いた。
「エリアス……あなたは……王子様なのですか?」
その瞬間、空気が凍りついたように感じた。自分でも信じられないほど大胆な問いかけ。けれど、この胸の奥のざわめきを確かめずにはいられなかった。
エリアスは驚いたように瞬きをし、それから長い沈黙に沈んだ。焚き火の音だけが耳に響く。私の心臓は破裂しそうだった。
「……どうして、そう思うのですか」
低く落ち着いた声。問い返されて、私は一瞬ためらったが、勇気を振り絞って言葉を重ねた。
「兵長が……あなたの剣を見て言っていました。王家の紋章が刻まれていたと。そして……あなたの面影に、王と王妃の姿を見たと」
言葉を吐き出した途端、胸が熱くなり、視線を落とす。怖かった。否定されるのも、肯定されるのも。
だが、エリアスは静かに笑った。その笑みは悲しげでありながら、どこか受け入れるような温かさを帯びていた。
「……否定はしません」
その言葉に息を呑む。焚き火の炎がぱちりと弾け、夜の沈黙を裂いた。
「僕は……戦乱の最中、血を絶やさぬように密かに守られ、生き延びた子供です。名前も、立場も奪われ、ただの旅人として過ごしてきました。でも……王子と呼ばれるのなら、否定はできない」
青い瞳が真っ直ぐに私を射抜いた。そこには重い宿命を背負う覚悟と、隠しようのない真実があった。
私は震える声で告げた。
「……生まれた国は違えど、あなたがこうして生きていてくれることが嬉しいです」
エリアスは目を細め、ゆっくりと頷いた。その横顔を見ながら、胸に新たな決意が生まれる。この人と共に歩み、偽りを暴き、未来を取り戻すのだと。
■
王都の宿屋の一室。古びた木の梁が軋む音が、外のざわめきと混じり合って聞こえていた。窓の外には明かりの絶えない通りが広がり、笑い声や商人の呼び込みの声が遠くから響いてくる。そんな喧噪から切り離された部屋の中で、私たちは卓を囲み、来週の誕生会に向けて息を潜めていた。
「……来週、王妃の誕生会が催されるそうです」
マリアンナが耳に入れた噂を伝えると、部屋の空気が一気に張り詰めた。私の胸は強く打ち、冷たい汗が背を伝う。あの女が人々に祝われ、笑みを浮かべる姿を想像するだけで、怒りが全身を駆け巡った。
「これ以上ない機会だな」
近衛兵長が低く唸るように言った。深い皺に刻まれた顔が炎に照らされ、その瞳はかつての戦場を思い出したかのように鋭かった。
「だが無謀に踏み込んでは、返り討ちに遭うだけです」
エリアスが静かに言葉を挟む。その声は冷静だったが、眼差しには決意が宿っていた。青い瞳が私に向けられた瞬間、胸の奥がざわめく。彼もまた命を賭ける覚悟を固めているのだ。
「……あの女を見れば、怒りで心が乱れます。けれど、私たちには冷静さが必要です」
自分でも驚くほど落ち着いた声が口をついて出た。けれど心臓は早鐘のように鳴っている。マリアンナが私の手をそっと握り締め、優しく微笑んだ。
「大丈夫です。お嬢様は一人ではありません。私たちが共にいます」
その言葉に、熱いものが胸に込み上げた。私は大きく息を吸い込み、吐き出す。
「来週こそ……偽りを暴く時です。必ず、彼女を断罪しましょう」
沈黙の中で、皆が強く頷いた。窓の外の街の灯が瞬き、遠くに見える城の尖塔が夜空に影を落としている。その姿を見つめながら、私は震える指先を握り締めた。恐怖は確かにあった。だがそれ以上に、決意と怒り、そして未来を取り戻す希望が心を突き動かしていた。
煌びやかな誕生会の大広間。金のシャンデリアが光を放ち、音楽と笑い声が渦巻く中で、私は一歩前に進み出た。豪奢な椅子に腰掛ける継母王妃がこちらを見やり、優美な笑みを浮かべる。その顔を見た瞬間、胸の奥から憎悪が込み上げ、震える声が口をついた。
「……偽りの王妃よ。今こそ、その罪を暴く時です」
会場のざわめきが一瞬にして凍りつく。王妃は顔色一つ変えず、紅い唇で嘲笑を洩らした。
「無礼な……何しにきた? お前はすでに断罪され、追放されたのだ。今さら戻ってきて、お前の顔など見たくない」
その声は甘く響きながらも、会場全体に侮蔑の色を広げた。貴族たちがざわめき、私を嘲る視線が突き刺さる。
だが、私は怯まなかった。心臓は早鐘を打ち、手は震えていたが、それでも声を張り上げた。
「あなたこそが偽りを纏った存在です! 王女を殺し、その座を奪った――その罪を今こそ白日の下に晒します!」
その時、近衛兵長が前に進み出て、胸元から小さな箱を取り出した。蓋を開けば、中には王女の遺した指輪が収められている。宝石が炎のように輝き、会場に息を呑む声が広がった。
「これは、真実を託された証だ。王女殿下の遺した指輪……偽りを暴く唯一の証拠である」
さらにエリアスが静かに歩み出て、腰に佩いた剣を抜き放った。青い刃に浮かび上がるのは、王家の紋章。その威光は、誰の目にも疑いようがなかった。
「……母上。実の息子の顔をお忘れですか」
その声は静かでありながら、会場を震わせる力を持っていた。王妃の顔が引きつり、紅い唇が震える。だが、何も答えることはできなかった。
エリアスはさらに一歩進み、剣を高く掲げて声を張り上げる。
「僕の母は、この女に毒殺されました! この女は滅んだ国の没落貴族にすぎず、我が母君を殺し、成り代わって王妃の座に収まったのです!」
その告白に会場は騒然となった。驚愕と怒りの声が飛び交い、誰もが王妃を指差し、顔をしかめる。王の瞳に炎のような怒りが燃え上がった。
「なんということだ……我が王妃が、偽りの存在だったとは!」
玉座から立ち上がった王は、怒りに震える声で叫んだ。
「この場で断罪せよ!」
衛兵たちが駆け寄り、王妃を取り押さえる。彼女は必死に抗弁しようとしたが、もはやその声を信じる者は誰一人いなかった。煌めく宴の場は、一転して断罪の舞台へと変わった。
大広間に漂う空気は、まだ重く沈んでいた。つい先ほどまで誕生会の華やぎで満ちていたはずの空間は、今や断罪の余韻に支配されている。転がった宝石の冠が無惨に光を反射し、散らばった花弁が踏みにじられたまま床に落ちていた。あの甘美な香油の匂いさえ、今は鼻につくほど不快に思えた。
私は震える呼吸を整え、胸を張って立っていた。偽りの継母は衛兵に押さえつけられ、哀れな叫び声を上げながら大広間から引きずられていった。その姿を見届けたとき、胸の奥に長年積もっていた黒い重しが少しずつ外れていくのを感じた。
「……これで、終わったのね」
思わず洩らした声は自分でも驚くほどかすかで、けれど確かな実感を帯びていた。
その時、王子が人々の間をかき分けて進み出てきた。顔を紅潮させ、汗を滲ませ、必死の形相で私に近づいてくる。その目にはかつての傲慢さはなく、ただ懇願と焦燥があった。
「リディア……許してくれ。僕は母に騙されていたんだ。どうか、もう一度、婚約を結んでくれないか」
会場がざわついた。華やかな衣装を纏った貴族たちが一斉にこちらを見つめ、息を呑んでいる。私は王子をじっと見つめ、心の奥に浮かんだ過去を思い出した。信じて欲しかったあの時、彼は私の声を聞かなかった。私を追い詰め、見捨てたのも彼だった。
だから、答えは一つしかなかった。
「……あなたと共に描ける未来は、もうありません」
毅然と告げた私の言葉は、大広間に冷ややかに響いた。王子の顔が絶望に歪み、膝がわずかに震えた。群衆のざわめきがさらに大きくなるが、私は一歩も揺らがなかった。
その時、隣に立つエリアスの存在が胸に温もりをもたらした。彼の青い瞳は驚きに見開かれ、すぐに柔らかく細められて私を見つめ返す。そこには信頼と未来への希望が確かに宿っていた。
私は彼の腕を静かに取った。わずかに硬い感触と、温かい血の通う確かさが手に伝わる。その瞬間、心臓の鼓動が彼と重なり合ったように感じられた。
「行きましょう、エリアス」
私の言葉に、彼は静かに、しかし力強く頷いた。私たちは堂々と背を伸ばし、大広間を後にした。背後では人々のざわめきが渦を巻き、視線が突き刺さるのを感じたが、振り返ることはなかった。マリアンナと近衛兵長が静かに後を追い、長い回廊に靴音が響き渡る。
やがて冷たい夜風が吹き抜ける城門を出た。月光が石畳を照らし、星々が私たちを見下ろしていた。私は深く息を吐き、初めて心から安堵を覚えた。冷たい空気が頬を撫で、胸の熱を静めていく。
「……リディア」
隣でエリアスが私の名を呼んだ。その声は驚くほど穏やかで、夜の静けさに溶けていった。
「あなたがいたから、僕は真実を示すことができた。これからも……共に歩んでくれますか」
その瞳を見つめ返した瞬間、胸が震えた。彼の言葉は誓いのようで、私の心の奥に光を灯す。
「はい。あなたとなら……未来を描けます」
そう告げた時、自然と笑みがこぼれていた。月明かりに照らされ、私たちの影が寄り添うように重なり合っていた。偽りの王妃が消え去った夜、私はようやく真実の未来を手に入れたのだ。
■
あれから五年の歳月が過ぎた。王都での断罪の夜は遠い記憶となり、今の私の前にはまったく新しい景色が広がっていた。
青空の下、かつて滅びた国の荒野に築かれた砦の城壁がそびえている。まだ粗削りな石造りで、王城と呼ぶには程遠い。だが、そこには確かな希望と未来が宿っていた。砦の中庭には新たに植えられた木々が芽吹き、石畳の道を人々が忙しそうに行き交っている。かつて荒廃の象徴だったこの地は、少しずつ再生の息吹を取り戻していた。
「リディア、見ろよ!」
エリアスが陽に照らされながら振り返り、眩しい笑顔を見せる。彼の額には汗が光り、かつての隠れ王子の面影は薄れ、今は新しい国を築く若き指導者の顔つきになっていた。
「この砦は、いつか必ず城にしてみせる。ここから、新しい国を始めるんだ」
その言葉には揺るぎない決意がこもっていた。私は彼の横顔を見つめ、胸の奥が温かくなる。五年前、あの夜に誓った未来は今、確かに形になり始めていた。
私の名誉も回復され、侯爵家の地位も戻った。父は私たちの夢を理解し、惜しみなく援助をしてくれた。その助けがあったからこそ、この砦はここまで成長できたのだ。
ふと視線を落とすと、私とエリアスの間に生まれた息子が中庭を走り回っていた。まだ幼い小さな足で、笑い声をあげながら駆け抜ける。その後をマリアンナが慌てて追いかけ、裾をつまみ上げながら叫んでいる。
「坊ちゃま、待ってくださいませ! そんなところに登ったら危険です!」
その声に私は思わず笑ってしまった。かつて涙と憎悪で覆われていた日々が、今はこうして温かな笑いに満ちている。
「……幸せね」
小さく呟いた言葉に、エリアスがこちらを見て頷いた。青い瞳に映る未来は、かつての絶望を払拭するほどに力強かった。
「これからも一緒に築いていこう。君と、そしてこの子と」
私はその手を取り、強く握り返した。砦に吹き抜ける風は心地よく、未来への鼓動を運んでくる。かつて偽りの王妃が支配した世界は消え去り、今ここには新たな国の始まりがある。私はその中心にエリアスと共に立ち、新しい時代を歩み出していた。