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忠犬  作者: 禅海
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 定刻より早めに出勤してきた久志は出勤簿に判を押した。事務室に職員は見当たらない。久志と今トイレに出ている上司一人を除いて、この日は皆午後半休である。午前で終わらなかったらしい事務書類と用務連絡簿が、雑に久志の机の上に置き去りにされている。

 学校の事務員と用務員を兼ねる久志は、校内のあらゆる箇所、設備、状態に精通していなければならないが、この中学校へ赴任したのはまだ今年の春先のことである。

 ただそれにしては、久志はこの中学校のどうでも良いことまで知り過ぎている。三十年以上前に閉鎖されて未だに解体されないで、数世代に渡る大勢の若者を見送ってきた旧体育館と旧道場、幕藩体制終焉まで武家屋敷であった名残の校舎裏の小さな枯れ井戸、トタン屋根の一部が二週間前の梅雨時の大雨で吹き飛んで、いまだに鋭意修繕中の張り紙が吊られた、防腐塗装のペンキが所々剥げた自転車駐輪場の建屋と車止め、放課後昔自殺した生徒の幽霊が出てしくしく啜り泣いているという噂話のある、とある東棟一階の連絡通路。

奇しくも久志は十数年ぶりに母校に帰ってきたのだ。


 青々と広がる真夏の空から、塊のような熱風が真昼の人気のない無言の校舎の外壁にぶつかっては砕け散っている。夏季休業中の中学校の土曜の午後である。

 校舎と体育館を繋ぐ外廊下の日なたに落ちた、校舎の屋根の刃のように鋭い影や、深い緑の葉桜の鱗のような影が、糊で張られたようにぴくりとも動かない。動いているのは久志の影だけである。久志だけが何かから逃げているようである。久志は狼狽した。久志の罪を暴くために、夏が追いかけてくる。久志は急いだ。

 校舎の見回りの最後に久志は体育館に立ち寄った。部活動の使用時間は過ぎた。誰もいない体育館中を一通り点検した。不審な様子は一つも見つからない。

 久志は分厚い両開きの鉄の扉を閉めた。そういえば久志が中学二年生の夏休み明けに、突然転校した不良の女子生徒が中絶手術をしたという淫らな噂が広がったことがあった。

 久志の脳裡にただちにそれが思い出された。固く鉄の扉に時間ごと隔たれた先、その体育館倉庫の一番奥に敷かれた体育体操マットが、あの夏の淫靡な汗を吸っていたことを。

 久志は昨夜の悪夢を思い出してそれに襲われた。久志は放心状態の女子生徒の上に覆い被さっていた。市村と砂田が背後から久志の腰を叩きながら、大笑いして言った。

「ほら、びくびくするな。腰を前にふりゃあいいだけなんだから」

「そう、いいぞ、その調子!」

「おい久志、早くしろよ。後ろがつかえてんぞ」

 久志は我に返って嘔吐した。だが喉の奥からは何も出てこない。痺れるような酸味も、どろどろした悪寒も、自分の内臓は何も吐き出さないのに、久志は凍えるような喪失感に襲われた。

 その今にも何かが発射しそうでしない内側の溶けて混ざりあった久志の喪失感は、あの女子生徒の赤い喪失感を思わせるのだった。

 久志の口からはまだ何も溢れ出ない。すると代わりに久志の目に熱いものが溢れ出てくる。

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