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忠犬  作者: 禅海
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 職場でも久志はまだときどき頭をさすっていた。ベッドから落ちたときにぶつかった辺りが今頃ずきずき傷んでくる。家庭事情を職場に持ち込むのはナンセンスな話だが、久志は憂鬱だった。

 中学校事務室の窓向こうで、蝉が狂ったように鳴き叫んでいるのを、事務デスクにじっと末枯れて聞いていると、余計頭が痛いのだった。久志は今にも頭がおかしくなりそうだ。今年の夏はとりわけ暑い。

 今は何もすることがない。やるべき仕事はすべてやってしまった後である。するとそんな自分を久志は呪わずにはいられない。すぐ必要な事務書類は全て処理してしまったし、書類整理もすぐ終わって、事務机のノートパソコンを開いてみても外部メールの通知もないし、ずっと外線も来ないけれども、これではもう暇を潰しているしかない。周囲の職員はみんなデスクに向かって忙しなく仕事をしているのに、自分だけが何もしていない。

 久志は他に何か雑用はないかと立ち上がり、窓際のデスクで暇している室長に迫ってしつこくまくしたててはみたのだが、

「今は特に何も思いつかない」

 これが久志をあしらうために、上司が丸眼鏡を指で傾けながら言う常套句だった。

 久志は「そうですか」と苦笑いして、自分のデスクに帰ってきて椅子におずおずと腰を下ろしてまた過剰に卑屈になり、カッターシャツのボタン縫いのほつれを見つけて指で弄りながら、虚空を見上げて落胆しているうちに、勃然と情けない自分に怒りが込み上げてきて、眼が冷たく湿ってきた。

『ああ、自分が情けない。せめて自分がここにいる必要性だけでも、楽に感じ取れたらいいのに』

 久志は新しい職場に来て半年経つ。週五日毎日六時間きっかり働いて、残業しないように家へ帰るまでが彼の仕事である。久志がそう希望したのではなくて、法律がそう久志に強いるのだ。精神障害者の雇用は、久志の呪いなのだった。

 もっとも仕事はいつも六時間ももたないので、久志は暇を持て余してしまう。そうして夕暮れ前には早々と家路につく久志は、彼の職場である中学校の教師や生徒とか、近隣の住民から見ると、無職の、韜晦(とうかい)な人間に見えるのだ。

 困難なのは、新しい職場の同僚に毎朝挨拶するだけのこと、目を合わせて話すだけのこと、ただ廊下で誰かとすれ違うだけのことが、どれもこれも久志には滑らかにできないのだった。それらはどれも為される前に必ずワンテンポ外した。彼の肉体はそれを拒んでいないはずなのに、いつも肉体の行為を精神の観念が拒み、邪魔したからである。久志の精神が絶対に譲らない観念とは、いわばこうだった。

『他者は全て自分を虐げる存在であるから、それに近付いてはならない。もしそれでも虐げられたいというのなら、私が先に君を虐げよう。もっとも優しい方法で』

 久志はこの観念に背くことばかり考えた。そうでなければ、自分は異常者なのだ。異常などではなくて、健常になりたい。だが久志が観念から抜け出したとき、彼の肉体がよし行為に移ろうという時には、彼の目の前にはもう誰もいないのだった。

 精神を病む前までは造作もなく思われたことが、今では何もかもこんな有り様で、なぜ以前ならそれが出来ていたのか久志には分からない。そういう苦しみがいつも久志を追い詰め、苦しみは粉砕機の鉄球のような質量を持って、久志を圧し潰すようにのしかかってくる。今や人間としての矜持も自信も失い、だが矜持も自信もないことが彼の唯一の矜持であり自信であったから、久志はそれを受け入れざるを得ないのだった。

 しかし久志の仕事はどれも、とにかく単純すぎるくせに、ただそれをすることに意味があるというような、不思議な仕事なのだった。中学校の事務室勤務で簡単な書類作成を任されたり名簿の管理をしたり、地下室に行って倉庫に学校用具を(しま)ったり機密書類をシュレッダーにかけたり、或いは用務員として校舎中を巡回してまわったり体育館を施錠したり。どれも中学生の夏休みの職業体験なのだった。

 ただ不思議な仕事にはいつも不思議な空想が付きまとう。久志はずっと昔に使わなくなったきり、日の届かない校舎の地下倉庫に保管されている古い教科書類の気持ちを空想した。自分がもはや社会の指定外の不要物でしかないことを弁えねばならないのに、それが難しい。もしなにか予想もつかない大事が起きれば、自分のようなものでも必要になるときが来るのではないかと思う。でもどれだけ待ち続けていても、そんなときは来ない。

 たとえ地下室ではなくとも、体育館のギャラリー倉庫の式典用の古い巻き絨毯の裏とか、理科準備室のがたつく木製実験棚の抽斗(ひきだし)とか、用務倉庫の隅の机に重積した藁半紙の隙間とか、そういうところに身を隠してしまえるなら、久志はずっと幸せだったのに。久志は人間ではなく、鉛筆とか消しゴムとか文房具にでも生まれるべきだったのだ。

 どうしてこんなにも、他人に可能なことが自分には不可能で、それが不可能だと分かると、強い劣等感みたいなものに支配されて、それを恐ろしいと思わないといけないのだろうか。だが自分がそれを恐ろしいと思わなくなることも、今は恐ろしく不安なのだ。

 すると久志は急に動悸を感じた。心臓が裏返るような気がした。続いて喉が閉塞して酸欠を感じ、居ても立ってもいられなくなった。事務室のデスクを離れ、事務室の扉を開いて、誰にも見られないように、転がり出るようにそこから抜け出した。久志はトイレの個室に暫く閉じこもって、酷い下痢をした。

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