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「おじちゃん、どうしたの?」
ぱたぱたと忙しない足音を立てて、愛くるしい顔の子どもが駆け寄ってくる。
「泣いてるの……?」
心配そうに目を潤ませる子どもに、菊月は手を振ってくしゃりと笑いかける。
「大丈夫。何でもないんだ……何でも」
「本当?」
目をぱちぱちさせる仕草がいとけなく、子どもは首を傾げていたが、やがて、
「おいで――塔」
天凪に手招きされて、呼ばれた子ども――塔はぱっと笑顔の花を咲かせる。
「はい、父様!」
靴を脱いで部屋に上がり、父の膝元に座った塔は、黒い表紙に綴じられた百頁以上にもわたる分厚い書物を見てきょとんとした顔をする。
「これは、父さんからお前への贈り物だ」
揺るぎない意志を帯びた眼差しが塔の幼い瞳を射抜く。
受け取った塔は頁を捲り、墨で書かれた難解な文字の羅列を追って、目を白黒させる。
「幽霊文字と言ってね。機密文書などの情報を守るために、ずっと昔に滅びた国の文字を使って編み出されたものだ」
「父様、これ、自分で書いたの?」
と尋ねられ、天凪は静かに頷く。
「毎日少しずつ勉強して読みなさい。読み終わる頃には、」
言いかけた言葉を呑み込み、不自然な沈黙が横たわる。
有明が思わず口を手で覆ってうつむいた。
塔は自分が手にしている書物の重大性を薄々ながら悟り、それと同時に、父と母の眼差しが、この上なく純化していくのを感じ取っていた。
「父様……?」
天凪は何かを堪えるように唇を引き結んでいたが、やがて厳かに言った。
「これからお前は、たくさんのことを知るだろう。もしかしたら、知りたくないと思っていたことにも出くわすかもしれない。でも、これだけは覚えておいてほしい」
塔の穢れのない瞳を見つめ、天凪はありったけの思いを込めて言葉を紡ぐ。
「お前は、望まれてこの世に産まれた子どもだ。父さんも母さんも、お前を心から愛している。お前の幸せを心の底から祈っている。
……そのことだけは、何があっても忘れないでくれ」
この世の光を集めたような少年、翳りなど少しも纏わぬ少年。
天凪は塔のすぐ横に、幼き頃の自分の姿を見ていた。
――追想はいつだって苦く、酷い痛みを伴う。
けれど、この道程の果てに、自分の手で掴んだ答えがあるのだから。
「はい、お父様」
と素直に答え、にっこりと笑った塔の顔が、霞んでぼやける。
「……天凪様?」
異変に気づいた有明の前で、天凪は横になって目を閉じる。
「天凪君」
蛍火の声が頬を撫で、白い蝶がひらひらと庭を横切っていく。
「大丈夫……少し眠いだけだから」
温かい瞼の裏に、懐かしい人の姿が浮かび上がる。
帚木、風牙、浮橋――そして、帯刀。
こちらに向かって微笑みかけ、手を振る姿は、とても幸せそうなものだった。
よかった、と天凪は体の底から深く安堵の息をつく。
――少しだけ、許されたような気がして。
「ちょっと眠ったら……また起きるから……だから……」
もう見えない視界の中で、誰かの腕が優しく体を抱きしめる。
ふわりと優しい花の香りが鼻腔をくすぐった。
そして懐かしいあの歌が、再び耳元で流れ出す。
「――星が咲いたら、二人で見よう」
天凪はあの星祭りの夜、十三歳の自分へと、自分が還っていくのを感じた。
乾いた唇を微かに動かし、美しく清らかな歌声に唱和する。
目の前には、漆黒の夜空にちりばめられた満天の星がきらめいている。
『星が咲いたら、二人で見よう。
星が澄んだら、二人で聞こう。
星が呼んだら、二人で行こう。
星と一緒に、ずっといよう』
――そして今、清らかな一つ星が、涙のように夜空を駆け抜けていった。
(終わり)