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赤黒ピクト

作者: はらけつ

フラッシュは、来た。

フラッシュが、やって来た。


二年ほど前、

フラッシュは、刹那的に、やって来た。


一瞬の  間。

瞬間的  間。

空白の  間。


といった表現の  間  を意識することもできず、

フラッシュは、刹那的に、やって来た。


その時 (もっと正確には、その後)、

『カミオカンデでニュートリノをとらえた時間感覚も、こんな感じやったんちゃうかなー』

と思ったのを覚えている。


 トン


ある人によると、こういうことだった。


「 僕はその時、

  川のほとりで、本を読んでいた。


  本を読んでいる最中、

  何の気無しに  の感じとか、  ふと  の感じとか、

  『背中痒ゆ!』 と思ったら、既に背中に手が行っていた  感じとか、

  そんな感じで、出し抜けに、そう、突然というより出し抜けに、

  眼の前が、真っ白になった。


  その白は、

  赤っぽいと言うより、

  橙っぽいと言うより、

  青っぽいと言うより、

  水っぽかった。


  あえて言うなら、限りなく、

  硝子の透明感に近い、白だった。


  『うわっ!周り全部、白や!』 と思ったら、

  数秒後、周りは全部、黒になった。


  もしかしたら、数秒も経っていないかった、かもしれない。

  白の時間は、ほんの一瞬だったかもしれない。

  でも、僕には、割と長い時間に感じられた。


  周りは全部、黒。

  赤っぽくも無く、

  橙っぽくも無く、

  青っぽくも無い。


  でも、不思議なことに、水っぽい感じで、

  硝子の透明感に近い感じは、白と、おんなじだった。


  だから、  暗闇の牢獄に、閉じ込められた  とか、

  光の無い納戸に、押し入れられた  とかの感じより、

  奥行きがあって、広がりのある黒だった。


  そう、ぐるり360度、

  真っ黒な地平に、ひとり立っている感じ。


  それから、僕は、白の世界や色彩の世界に戻ること無く、

  ずっと、黒の世界にいる。

  黒い地平に、ひとりでいる。


  まあ、見えはしないけれど、

  聴覚や触覚や臭覚、または空気感とかで、

  実際には、ひとりじゃないことは分かるから、

  寂しくは無いけど。


  残念なのは、本が読めなくなったことぐらい。

  それと、人の顔や仕草が見えないんで、

  ちょっとしたニュアンスが分からないこと。


  でも、それって逆に、

  自分にとっては、いいことなのかもしれない。 」


屋内にいた人や、眼鏡やコンタクトをしていた人には、被害は無かった。

被害があったのは、屋外にいた人で、裸眼の人に限られる。


フラッシュが来た時、裸眼で、外にいた人。

裸眼に、直接、フラッシュを浴びた人。


フラッシュを浴びてしまった人は、

白い世界に閉ざされ、次に黒い世界に閉ざされる。

そして、黒い世界に、ずっと閉ざされる。


おそらく、死ぬまで。


フラッシュを浴びた人と、浴びていない人は、

詳しい知識は無くても、ひと眼で見分けがつく。


浴びていない人は、眼に瞳がある。

対して、浴びた人は、一見すると、眼に瞳が無い。

全部、白眼に見える。

黒い世界に閉じ込められているのに、眼は白々としている。


フラッシュを浴びた人の白眼をよく見ると、

真ん中に、赤い縦線が、 スゥーー と入っている。

眼にカッターナイフを差し込んで、上から下へ スッ と引き、

その軌跡から、血が、細く滲み出して来たような感じ。


正午頃の猫の眼を、もっと細くしたような眼を、

フラッシュを浴びた人は、持っている。


その為、いつの頃からか、フラッシュを浴びた人は、

次のように呼ばれるようになっている。

LLCE (LimitLles Cat’sEyes : 限りなく猫目) と。


人間の顔をしてるのに、人型をしてるのに、

眼は猫目。


いわゆる、西洋の定義の、邪眼。

いわゆる、西洋の定義の、悪魔の眼。

西洋に例えを取らなくても、昔の紙芝居アニメの、猫目小僧の眼。


決して、気持ちのいいもんではない。

どちらかというと、明らかに気持ち悪い、うす気味悪い部類。


フラッシュを浴びていない周りの人々 ‥ マジョリティの一般人が、

そんな眼を持つ人々を、文字通り  白眼視  するのは、無理も無かった。


 トン


白眼視され、マイノリティに押しやられた、LLCE達の悲哀を、

ある人は、次のように言う。


「 ああ、見えない。

  でも正直、それは、

  第一に困ることじゃない。


  確かに、眼が見えないことは、かなり不自由。

  でも、まだまだ不十分とはいえ、この国は、

  視覚障害者が、最低限の生活を、営めるようにはできている。


  一番困惑するのは、空気感。


  LLCEになって以来、視覚を無くしてしまったせいか、

  他の感覚が、前にも増して、研ぎ澄まされたように感じる。


  聴覚であり臭覚であり、味覚であり触覚であり、

  それに入るかどうか分からないけど、空気感を感じる皮膚感覚も、

  研ぎ澄まされたように感じている。


  以前とは、何かが、違っている。


  家族とか仲間とか、親しい人の中に俺がいる時の雰囲気 ‥ 空気感が、

  LLCEに成る前と今じゃ、明らかに違っている。


  前は、信頼とか親しみとかの感じだったのに、

  今じゃ、遠慮とか忌避の感じが、ビシバシ伝わって来る。


  俺も、実際に見ることはできないけれど、

  話に聞く内容から、今の俺がエライことになっているのは、想像できている。


  でも、こんなことになるとは、想像できなかった。


  家族や友人、親戚や先輩後輩には、

  徐々に、だが速やかに距離を置かれ、

  今じゃ、外出することもなく、24時間、家の中に籠もりっぱなし。


  家の中でも、部屋から出るのは、トイレに行くぐらいで、

  食事も、部屋の前まで持って来てくれるから、

  正確には、自分の部屋に、籠もりっぱなし。


  部屋の中で、できる運動はしてるけど、

  それにも限度はあるから、体力は落ちたし、体型は崩れた。


  今や、俺を含めLLCEは、そんなやつが多い。

  LLCE達は、

  社会が、無意識だけど強制的に作成した、

  典型的な引きこもりになってしまっている。 」


社会によって作られてしまったマイノリティ ‥ LLCE引きこもり達は、

自分達の意思とは関係なく、自分達の意志に反して、

家庭や地域、経済や行政、司法や情報、の一角に、囲われ閉じ込められる。


LLCE達は、マイノリティとはいえ、元を辿れば、

裸眼で外に出ていたに過ぎない人々。

マイノリティとは名ばかりで、

LLCE達は、実数にすると、人口全体の30%強を占めている。


人口の三割近い人々を、社会の一角に、

ずっと閉じ込めておけるわけがない。

空間的にも、行動的にも、情報的にも、そして、思考的にも。

不自由なカタチで閉じ込められ、LLCE達の不満は募る。


ブスッブスッ っと、不満ガスは、小刻みに噴出する。

そして、ある時、 ブッ ブバッ ブシュウー と、

盛大に噴出する。


 トン


LLCE達の不満が噴出する、まさにその場にいた人は、

このように言う。


「 数秒前まで、そんなことが起こるなんて、

  思ってもみなかった。


  俺は、LLCE達が毎日通い、朝から夕方まで過ごすように定められている、

  LLCE交流ホームに勤めている。

  まあ、デイケアセンターや、デイサービスセンターみたいなもんだ。


  その日も、LLCEのみんなは、おしゃべりをしていた。

  それこそ、その日、ホームに来ていたLLCEのほぼ全員、老若男女問わず。


  その時、昔、学生運動の闘士かなんたらだった爺さんが、つぶやいた。

  「まるで、病原菌じゃな」 ‥ と。


  白い瞳を伏せながら、つぶやいた爺さんは、

  その場のみんなの注目を集めた。


  その場にいたみんなは、一斉に顔を上げて、

  見えない瞳で、爺さんの声がした方を見つめて、

  『はあ?』という顔をした。

  若いやつの中には、実際、「はあ?」と声を上げたやつもいた。


  爺さんは、

  自分のつぶやきがみんなに浸透して、

  みんなの疑問が、膨れ上がって充満した頃を見計らって、

  次の言葉を発した。


  「だって、そうじゃろが?」


  爺さんは、みんなの問い掛けに、問い掛けで返した。

  疑問形に疑問形で返すのは、俺は 『あかんのちゃうか』 と思うが、

  返された方は、自分が放った矢が自分に帰って来たようなもんで、

  答えざるを得ない。


  「なんで、病原体なんだよ?」


  若い男の一人が、爺さんに食いついた。

  老若男女の、居並ぶ白き眼が、一同に爺さんを見つめる。


  俺は、その時、 『あ、ハマった』 と思った。

  『爺さんの思う壺に、みんなは誘導された』 と思った。


  案の定、爺さんは、唇の端をニヤッと歪めて、話し始めた。

  もっとも、爺さんの  唇ニヤッ  を、LLCEのみんなの眼では、

  見ることができなかっただろうが。


  「だって、そうじゃろが。


   LLCEというだけで ‥ 眼が見えないというだけで、

   他は一般の健常人と何ら変わらないのに、社会や世の中から隔離され、

   毎日毎日、こんな一角に、隔離されておる。


   そして、いわゆるLLCEじゃない一般人は、我々LLCEを、

   嫌悪感をもよおすもの ‥ 汚いものを見るような眼で、見ておる。

   わしは、眼は見えねども、周りの空気 ‥ 雰囲気から、

   ビシバシそう感じておる。

   みんなも、そう感じておるはずじゃ。


   そして、一般人は、そう感じておる確かな証拠として、

   我々LLCE達を、こんなところに閉じ込めておる。

   眼が見えない以外は、一般人とそう大して変わらないのに。


   これではまるで、

   感染力の強い病原体を持った病人や、

   ウィルスそのものではないか!」


  爺さんの言葉に、LLCEのみんなは、

  黙りこくった。

  全員、大なり小なり、爺さんの言葉に、

  うなずくところがあるらしかった。


  爺さんは、沈黙が深々と浸透し、みんなの思いが共感に傾いたところで、

  次の言葉を発した。

  さっきより、大きく、唇を歪めて。


  「そこで、提案なんじゃが、

   手始めに、ちょっとした抗議行動をしてみんか?


   もちろん、わし含めてみんな、こんな体じゃから、

   身体を使ったデモ行動とかはできん。

   そして、わしも、大げさに、

   問題を大きくする行動をするつもりも無い。


   だから、この問題に興味がありそうな ‥ 食いついてくれそうなところへ、

   メールを送りつけてみんか?

   書き込みをしてみんか?


   全部では無くっても、幾らかのところからは、リアクションがあるじゃろう。

   そのリアクションを点として、その点を線をにしていこう。

   そうしたら、何かが、良い方向に動くじゃろう。


   どうじゃ?」


  爺さんが言葉を終えると、その場には、再び沈黙が下りた。

  でも、その沈黙は、考えあぐねている、納得あぐねている沈黙というより、

  誰が、一番最初に手を上げるか を互いに探って、

  様子を伺っているかのような沈黙のようだった。


  “ 手が上がった ” 。

  若い男が、白い眼を見据えて、堂々と声を放った。


  「やろう。

   やってみよう。

   やってみようぜ、みんな。


   まず手始めの行動として、

   幾らかのサイトへ、メールするなり、書き込むなりしてみる。


   メールや書き込みの文面は、

   俺が自分で考えて、音声入力する。


   爺さんは、 文章に盛り込むべき、核となるキーワード  を、

   幾つか教えてくれ。」


  一人が “ 手を上げる ” と、後は速かった。

  我も我も と、怒涛のように、街灯にたかる蛾のように、

  LLCEのみんなは、爺さんに殺到した。


  俺は、またもや、爺さんが  唇ニヤッ  をしたのを、見逃さなかった。

  密かな、シメタといったような  唇ニヤッ  を。 」


俗に言う  LLCE一揆  は、

先導された ‥ 意図的に仕組まれた可能性が高い。

LLCE達の近くで、LLCE一揆の決起場面に遭遇した人は、

先導者の存在と、その先導者の笑みを、例外無く指摘している。


LLCE一揆が起こったことで、

LLCE達が一般人達に感じていた  そこはかとない疎外感  と、

一般人達がLLCE達に感じていた  得体の知れない嫌悪感  が、

明確になる。


LLCE一揆の発生を境に、

LLCE達と一般人達の溝は、

ハッキリと形を取り、深く広く刻まれていく。


LLCE一揆は当初、

文言 (メールや書き込み、投書やビラの類い) の運動だったが、

すぐに、演説や討論など、一般人達と直接相対する運動となり、

まもなく、デモや街宣など、一般人達に対する示威行動となる。


LLCE達と一般人達が、直接肉体的に対峙するのは、時間の問題と思われ、

その際には、本格的な衝突 → 暴動に至ることも、覚悟されていた。


 トン


だが、結果として、衝突 → 暴動は、回避される。

それは、LLCE側の状況の変化によるものだった。


ある日ある時を境に、LLCE達は次々と、状況の変化に見舞われる。

身体状況の変化だった。

『待ち望んではいたけれど、こんな形は嫌だ!』 の変化。


その際の変化に見舞われた、LLCEの一人は、

思い出すのも嫌な当時を、このように述べる。


「 ああ、待ち望んではいた。

  だって、眼が見えるんだ。

  でも、その代償は、大きかったけど。


  キツイな。

  思い出すのも、キツい。

  重くて、ねっとりして、後味悪い記憶。


  でも、発狂したやつや、自閉症になったやつに比べれば、

  数ヶ月、鬱になっただけで、俺は済んだ。

  決して気は進まないけど、話すこともできる。


  忘れもしない、あの日。

  決して、忘れることはないであろう、あの日。

  その日は朝から、雨だった。


  朝から、ザーザーザーザー じゃなくて、

  しとしとしとしと と、絶え間なく単調に、雨は降っていた。

  おかげで、床が壁が、柱が木の部位が、室内全体が、

  じとっ と うっすら と、粘り気のあるような感触を、持つに至っていた。


  『ああ、朝からしけた、うざい天気やな』


  俺はそう思って、朝飯を食い始めた。

  そのさなか、左眼に違和感を感じた。


  痛い というのとは違う。

  痒い というのとも違う、違和感を感じた。


  眼の中から、叩かれている感じ。

  瞳の裏から、ノックされている感じ。


  トン


  それは、最初は、単打から始まった。


  トントン


  次に、二連打が、繰り返されるようになった。


  トントントン


  しまいには、三連打が、絶え間なく、打ち付けられるようになった。


  三連打の時間が数分続いた後、唐突に、

  瞳裏ノック  は止んだ。

  俺は、ホッした。

  痛みこそ伴わなかったものの、眼の中 ‥ 瞳の裏がノックされている感じなんて、

  気持ちのいいもんじゃなかった。


  でも、ノックは、ただの前兆だった。


  めり ‥ めりめり ‥


  左眼の中から、音がした。

  正確には、瞳から音がした。


  瞳というか、瞳孔が開かれてゆくのが、感じられた。

  猫目の、縦瞳の、瞳孔だ。

  強制的に、こじ開ける力  を感じたが、

  不思議と、痛みは感じなかった。


  めり ‥ めりめり ‥ めり ‥ めりめり ‥


  瞳孔は、ゆっくと、しかし着実に、

  開かれていった。

  瞳孔に感覚を集中すると、開く瞳孔の左右両端に、

  何か、五つの先を持つものが、引っ掛けられているのを感じた。

  それらが、瞳孔を開けているらしかった。


  瞳にかかる力が、唐突に止まった。

  瞳孔の縦開きが、急に停止した。

  停止から一旦置いて、

  瞳から  何か  が飛び出してゆくのを感じた。


  チーン ‥ 


  俺は思わず、持っていたスプーンを落とした。


  その感じは、

  水が飛び出すような、噴出するような感じではなかった。

  まず、左右両端に力が掛かって、

  次に、縦瞳孔の底の内側に、力が掛かって、

  最後に、眼の下瞼 ‥ 涙袋に力が掛かって、

  飛び出してゆく感じだった。


  そう。


  何か  が、瞳孔の隙間の左右に両手を掛けて、

  瞳孔の隙間から跨いで出る感じに近かった。


  瞳孔から飛び出した  何か  は、

  俺の体に感触を残した。

  顔をつたい、首をつたい、胸をつたい、腹をつたい、

  脚をつたう感触を残した。

  続々と、次々と、わらわらと、

  俺の体に、つたい下りる感触を、残した。


  その状況に麻痺し硬直した俺は、

  咀嚼していた、ヨーグルトに浸したバナナとシリアルを、口からこぼして、

  体の前面につたい落とした。


  わらわらわらわら

  ダラダラダラダラ

  わらわらわらわら

  ダラダラダラダラ


  わらわらわらわら

  わらわらわらわら

  わらわらわらわ ‥


  瞳孔からの 飛び出し が終わった時、

  俺は、一瞬のエアポケットに囚われた。

  その空白の間の後、

  俺の頭がグルグル廻り出した。


  頭の中 ‥ 脳内に、

  高速回転する渦巻きが発生した。

  渦巻きも背景も、黒色には違いなかったが、

  濃淡の豊富なバリエーションが、その区切りを明確にしていた。


  渦巻きの形や背景だけでなく、

  渦巻きが回転している様や、渦巻き周辺が蠢いている様も、

  濃淡で表わされていた。


  その濃淡の渦巻きを、(心の)眼で追っている内、

  俺は、気分が悪くなって来た。

  吐き気を催して来た。


  その内、黒色が、のっぺりとした扁平な色模様になった。

  思えば、その瞬間に気を失ったんだろう。

  次に気付いた時は、床の上で横になって、寝転がっていた。


  眼が見えないのに、

  “ 眼を廻して、気失って、倒れ込んだ ”

  って、わけやな。 」


LLCE達は一様に、同じ様な言葉を残している。


曰く、


眼の中で、  何か  がノックした。

瞳孔から、  何か  が出た。

頭の中がグルグル廻って、気を失った。


 トントン


この、LLCE達の異常に居合わせた、先程のコメントをくれたLLCEの彼女は、

この様なコメントを寄せている。


「 固まった。


  “ 引く ” なんてこともできなかった。

  ただ、体が硬直して固まった。

  で、次の瞬間には、

  食べたものを吐いていた。


  その日は、彼と向かい合わせに座って、

  朝ごはんを食べていた。


  私はいつも、朝はパン。

  私は、薄くバターとイチゴジャムを塗ったトーストを、

  彼は、ヨーグルトに浸したバナナとシリアルを、

  食べていた。


  彼が、咀嚼していた時だと思う。

  彼の顔が、怪訝な表情を浮かべた。

  何かに耳を澄ましているような、体の内を窺っているような、

  そんな表情だった。


  その顔が、呆気に取られたような、驚きを隠せないような、

  そんな表情に変わった。

  見ると、縦に細い彼の左猫目が、見る見る横に広げられて、

  楕円形になって来た。


  めり ‥ めりめり ‥ と、音を発しているかのように、

  じわじわ着実に、広がって来た。

  その猫目の、左右端の最も広がった部分に、

  五つの先を持つものが、引っかかっていた。


  チーン ‥


  彼が、手に持っていたスプーンを落とした。

  猫目の瞳孔は、横広がりを唐突に止めた。

  そして、私は、固まった。

  そして、吐いた。


  彼の広げられた、猫目瞳孔から、

  何か  が出て来た。

  それは、黒味がかった赤色 (そう、静脈の血液の色)をした

  何か  だった。

  

  簡略化された、手足頭だけの人体図のようだった。

  例えるなら、注意標識などに描かれている、ピクトさん。


  赤黒ピクト  は、次々と、彼の猫目瞳孔から、湧き出てきた。

  あるものは、瞳孔の下端を跨いで、

  あるものは、四つん這いになって、両手両足で這い出て来て、

  あるものは、海外の悪魔祓い映画のように、ブリッジウォークでにじり出て来た。


  赤黒ピクトは、眼から口、口から首、首から胸、胸から腰と、

  彼の体をつたった。

  続々と、下方へ、地表へと、つたい降りた。


  わらわらわらわら

  わらわらわらわら


  わらわらわらわら

  ダラダラダラダラ

  わらわらわらわら

  ダラダラダラダラ


  彼の口からは、ヨーグルトにまみれたバナナとシリアルがこぼれ出し、

  乳白に、ところどころ、ねっとりした黄と乾燥した茶が、見え隠れする、

  歪な色の流れを形作っていた。

  その流れの中に、いくらか ‥ なん体か ‥ なん人かのピクトさんが、

  入り込み、のまれ込み、一体化していった。


  乳白と、ねと黄と乾茶に、赤黒が混じり合っていた。

  だが、溶け合うことは無く、それぞれの色がハッキリと主張していた。


  まるで、パレット上で、

  乳白と、黄と茶と、赤と黒の絵の具を、ひねり出して、

  混ぜ合わせた始めた直後のように。

  まるで、ゴッホの 【 星月夜 】 のように。


  気分がザワザワした。

  胸がムカムカした。

  で、吐いた。


  吐いた。

  吐き続けた。

  むせ続け、眼尻から涙を滲み出し続け、

  体を二つに折って、吐き続けた。

  私の周りは、吐瀉物の臭いと鉄錆の臭いで、

  充満した。


  赤黒のピクトさんが出れば出るほど、辺りは、鉄錆の臭いで満たされた。

  どうやら、赤黒のピクトさんは、血で出来ているようだった。

  でもこれは、後になって思い付いたこと。

  その時は、吐瀉物の臭いと強くなって来る鉄錆の臭いに、

  のたうちまわっていた。


  ガタッ ‥ ドタッ ‥


  苦しみ悶えていると、何かが床へ落ちる音がした。

  涙まみれの眼を、なんとか薄くこじ開けて見ると、

  彼が、床に倒れ込んでいた。


  それと共に、薄眼に、床一面の赤黒ピクトが見えた。

  その一瞬、背筋を、尾骶骨から頭頂まで、零下の風が吹き抜けた。

  眼前の光景に囚われ、零度以下の風に囚われ、硬直した。


  硬直を打ち破ったのは、

  『こんなことしてられない』 『彼が死んじゃう』 という思いだけだった。

  私は、彼に、にじり寄った。

  赤黒のピクトさんを押し潰しながら、彼に、にじり寄った。


  ぷちぷちぷちぷち

  ズッズッズッズッ

  ぷちぷちぷちぷち

  ズッズッズッズッ


  赤黒のピクトさんを、押し潰す度、そこから、

  ナメクジを潰したような感触が、這い登って来た。 


  ぷちぷちぷちぷち

  ズッズッズッズッ

  ぷちぷちぷちぷち

  ズッズッズッズッ

  ぷちぷちぷちぷち ‥ びしゃ ‥ !


  押し潰した赤黒のピクトさんの、赤黒い体液が、顔に飛び散った。

  眼に入り、口にも入った。

  視界は、赤黒い目薬を点したかのように、赤黒く染まった。

  口に飛び入り込んで来た液体に、条件反射で、吐き気を催した。


  「?」

  『えっ?』


  「 ‥ ‥‥ ‥ 」

  『 ‥ 美味しい ‥ 』


  驚いた。

  押し潰されて飛び散って、口に飛び込んで来た赤黒のピクトさんの体液は、

  美味しかった ‥ 。 」


彼女から、119番で呼ばれた救急隊員が駆けつけた時、

フローリングの床は、赤黒い血だまりを、たたえていたらしい。


吐瀉物のある地点から、

気を失っているLLCEと、携帯電話を持って震えているその彼女の間には、

赤黒い血だまりが、形作られていたらしい。


這いずり、潰しながら進んだ跡が、血だまりになったように。


が、彼女の周りには、血だまりは、皆無だったらしい。

その代わり、彼女の周囲は、ぬめぬめとした光沢を持つ、

粘り気のある液体に占められていたらしい。


まるで、満遍なく舐め取られた後の、唾液が広がるように。


潰されずに済んだ、ほとんどの赤黒のピクトさん ‥ 赤黒ピクトは、

出口という出口 ‥ 玄関、窓、通気口などから、

「 ‥ 出て行きました ‥ 」 と、彼女は言ったらしい。


わらわらわらわら

わらわらわらわら

わらわらわらわら

わらわらわらわら


赤黒ピクトが、集団になって、我先にと、

廊下の上や、通気口の中や、建物の壁づたいにと急ぐ光景が、

眼に浮かぶようだ。


 トントン


実際に、この光景を目撃した人は、

このように、こんな風に、その時のことを話している。


「 俺の家は、LLCE交流ホームのすぐ近くにある。

  平日も土日も関係無く、LLCE達は、昼間の時間をホームで過ごす。

  だから、ホームの送迎バスが、LLCE達を乗せて、

  近所を頻繁に行き来している。


  その日は、日曜日だった。

  何か、家具が倒れるような大きな音が、立て続けに聞こえた。

  どうも、ホームの方からしているようだった。


  『何や?』 と思って、耳をすましていたら、

  その音に、苦悶の声や悲鳴が、混じるようになった。

  『これは、えらいことかも!』 と思って、俺は窓を開けて、外を見た。


  固まった。

  眼の前の光景に、眼を疑った。

  世界が ‥ 風景が ‥ 空気が、グラグラ揺さぶられたような気がした。


  道一面にビッシリと、

  赤黒い太い針人形のようなものが、蠢いていた。

  あるものは二本足で歩き、あるものは四つん這いになって這い進み、

  あるものは、ブリッジして両手両足を器用に動かして進んでいた。


  そいつらは、そう、標識によくあるピクトさんのようだった。

  でも、黒色じゃなくて、老廃物を吸収した血液の色に近い、赤黒色をしていた。


  赤黒いピクトは、後から後から、わらわらわらわら と、続々とやって来た。

  どこに向かっているのか  は分からなかったが、どの方向から来ているかは、

  見当が付いた。

  LLCE交流ホームの方向から、やって来ているようだった。


  そこで、さっきの物音と、赤黒ピクトの奇妙な行進が、結び付いた。

  『ホームで何かが起こって、赤黒いピクトが大量発生しているに違いない』

  と思った。


  俺は自分でも、『ようやるよ』 と思ったが、

  外に飛び出して、赤黒いピクトの中を走り出した。


  赤黒いピクトを掻き分け

   (といっても、俺のくるぶしくらいまでの大きさだったから、掻き飛ばし)、

  踏み潰し

   (こっちの方が、断然多かったと思う)、

  わっせわっせ と、ホームに急いだ。


  案の定、赤黒いピクトは、ホームから湧き出ていた。

  入り口から裏口から、窓から通気口から、外へ通じる出口全部から、

  わらわらわらわら と、飛び出していた。


  『これだけのもん、よう飼ってたなー』 と思ったが、

  『んなわけ、無いか』 と思い直し、

  俺は、LLCE交流ホームの敷地に、足を踏み入れた。


  赤黒いピクトの流れを逆流して、ホームの入り口に向かった。

  自動ドアは開け放たれ、後から後から、

  赤黒いピクトが湧いて来る。

  赤黒いピクトを踏み潰し踏み潰しして進み、ホームの入り口をくぐった。

  赤黒いピクトを踏み潰す度、気色悪い感触が足元からのぼったが、

  すぐに慣れっこになった。


  ホームの中の入り口付近は、赤黒いピクトが殺到していた。

  一階の手前の部屋から、出て来るもの。

  一階の奥から来るもの。

  二階から、階段を降りて、やって来るもの。


  『いやはや、すげー数だ』 と感心した俺は、探りを入れに、

  一階の手前の部屋に進んだ。

  赤黒いピクトを踏み潰し踏み潰しして進み 、手前の部屋に入ってみた。


  手前の部屋は広々としており、食堂として使われているらしく、

  テーブルやイスがセッティングされていた。

  また、ちょうど食事時だったのか、食器もセッティングされていた。

  見れば、料理が乗っかっている食器もある。


  だが、そこは、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。

  床一面、赤黒いピクト。

  その中の其処此処に、人が倒れている。

  何人かの人が嘔吐している。

  自分が吐いたであろう吐瀉物にまみれて、のたうち廻っている人もいる。


  『現実感 ‥ ねえな』 と、俺が思ったのは、

  そんな光景に加え、その場面を眼にした時だった。


  赤黒いピクトは、イスに座ったLLCEの眼から、続々と産出されていた。

  猫目の瞳孔から外に出ると、体をつたい下りて、わらわら と、床に降り立った。

  あるものは二本足でつたい、あるものは四つん這いでつたい、

  あるものはブリッジウォークでつたい下りた。


  遠眼には、やけにノロくて立体的な血が、眼から たらたら と流れ落ちている様に、

  見えるに違いない。


  わらわらわらわら

  たらたらたらたら

  わらわらわらわら

  たらたらたらたら


  赤黒いピクトを産出し終えたLLCE達は、次々と倒れていく。

  察するに、床に倒れているのが、赤黒いピクトを産出し終えたLLCE達で、

  吐いたり、のたうち廻っていたのが、交流ホームの職員だったんだと思う。


  俺は、ケータイを取り出して、どちらに先に連絡するか、一瞬迷った。

  が、まずは、119番に電話した。

  もちろん、その後すぐに、110番にも電話した。 」


赤黒ピクトを出し終えたLLCE達は、例外無く、気を失って倒れている。

貧血のヒドイいやつ ‥ 出血多量による気絶だった。

身体中の血液は、死の一歩手前まで ‥ ほぼ三割まで、失われていた。


放っておくと、確実に死が訪れるであろうLLCE達を、

そのままにしておけるはずもなく、

赤黒ピクトを出し終えたLLCE達には、緊急輸血が行なわれている。

だが、緊急も緊急、出血死を避ける為には、神速の如き輸血が必要とされた。

そこで、医療チームは、  調整人工血液  を輸血している。


その血液は、輸血しても、身体には負担がかからず、

その血液成分は、通常の血液成分のおよそ二倍のポテンシャルを秘めた、

まさに、誰もが待ち望んだ  奇跡の血液  。


が、その色は、青。


そして、

元からある血液の色 ‥ 真紅の赤と、

調整人工血液の色 ‥ 紺碧の青が、

混じり合って成った色は、漆黒の黒。


赤黒ピクトを産出した ‥ 赤黒ピクトに血を採られたLLCE達の血の色は、

黒くなった。


以来、赤黒ピクト産出後のLLCE ‥ aLLCE(after LLCE)達の血は、

黒色になる。

傷を負っては、出血する血の色は、黒。

採血しては、注射器に吸い込まれる血の色は、黒。

蚊を潰しては、潰した蚊から滲み出る血の色は、黒。


だが、aLLCE達には、奇跡がもたらされる。

文字通り、赤黒ピクトと共に、悪い血が排出された故なのか。

aLLCE達は、眼が見えるようになる。

まさに、乞い焦がれていたこと。

まさに、待ち望んでいたこと。


しかし、気付けば、aLICE達は、

自分達の存在に、愕然とする。


血は ‥ 血の色は、黒色。

眼が見えるようなったとはいえ、瞳は猫目のまま。

言わば、  ひと昔前の、怪談映画に出て来るような妖怪  そのもの生物に、

aLLCE達は、成り果てていた。


そして、その姿形は、

LLCE一揆で、一般人との間に築かれた深く広い溝を、

もっと深く、もっと広くすることになる。


黒血が流れる、肌に薄っすら浮かぶ血管は、黒い筋。

その為か、身体全体の色合いが、くすんで暗い。

しかも、猫目。


その眼から わらわらわらわら 出て来た赤黒ピクトを眼撃した人は、

その猫目を見る度に、その記憶を呼び起こされる。

気持ち悪さと共に。

吐き気と共に。


眼が見えるようになり、行動的には、

一般の健常者と何ら変わらなくなったaLLCE達だが、

そんな訳から、一般人からは陰に陽に、しっか と避けられ、

完全な社会復帰は、なし崩しに見送られる。


LLCE交流ホームのフロアが、aLLCEフロアと

bLLCE(before LLCE = 赤黒ピクト未産出の、眼の見えないLLCE)フロアに、

分けられただけに終わる。


LLCE達は、待遇改善どころか、一般人からは化け物扱いされ、

釣瓶落としのように、世間から、ますます爪弾きされるようになる。

唯一の良かった点は、眼が見えるようになったことだが、

それも、良かったことだとは、とても言えないようになる。


 トントン


そうなった原因 ‥ 一般人にますます厭われるようになった原因となった場に

遭遇した人は、次のように述べる。


「 町中、赤黒ピクト。

  そこらにあこらに、赤黒ピクト。

  右見て左見て、赤黒ピクト。


  外にいたLLCE達から、赤黒ピクトは吐き出されていた。

  でも、それだけでは説明がつかない数なので、おそらく、

  家にいるLLCE達からも、赤黒ピクトは吐き出されていたんだろう。


  赤黒い地面が、 ざわざわ と蠢いて、一定方向に進んでいた。

  地面は、蠢く度に細かく立体的になって、人型をチラッと見せた。


  赤黒ピクトがどこに向かっているのか、俺には見当がつかなかった。

  だが、赤黒ピクト達は、約束の地があるかのように、

  全員一定方向に向かっていた。


  ポッ ‥ ポッ ‥ ポッ ‥ ポッ ‥

  ポツ ‥ ポツ ‥ ポツ ‥ ポツ ‥

  ボツ ‥ ボツ ‥ ボツ ‥ ボツ ‥

  ボツボツボツボツザーザーザーザー

  ザーザーザーザーザーザーザーザー


  雨が降って来た。

  雨粒は、地面へと降り注いだ。

  雨粒は、赤黒ピクト達にも降りかかった。


  雨を受けるやいなや、赤黒ピクト達は、騒ぎ出した。


  わら ‥ わら ‥ わら ‥ わら ‥

  わら ‥ わら ‥ わらわら ‥ わらわら ‥

  わらわら ‥ わらわら ‥ わらわら ‥ わらわら ‥

  わらわらわらわらわらわらわらざわざわざわざわざわざわざわ

  わらわらわらわらわらわらわらざわざわざわざわざわざわざわ


  赤黒ピクト達は、最初は静かに、徐々に強く、

  クレッシェンドを奏でるかのように、騒ぎ蠢き出した。


  『何だ何だ、何が起こっている?』


  だが、見る間に、赤黒ピクト達は、動きを治めていった。

  いや、騒ぎ蠢く様は、変わっていなかった。

  赤黒ピクト達は、治まるのではなく、実は縮んでいた。


  赤黒ピクト達が縮むに合わせて、地表は ‥ 地面は、

  赤黒く染まっていった。

  赤黒ピクト達は、溶けていた。

  雨に打たれて、溶け出していた。


  溶け出した赤黒ピクトの体は、粘っこい液体となって、

  地面を うねうね と、のたって流れていった。

  流れるだけでなく、空気中にも巻き上げ、広げられていった。


  強く降り続く雨は、赤黒ピクト液を空気中に跳ね上げ、

  空気中をも、赤黒く染め上げた。

  まったく、赤黒の幕が引かれたように。

  いや、まったく、赤黒の紗のカーテンがかかったかのように。


  眼前の光景は、

  下に、蠢く赤黒い地表、

  中に、半透明の赤黒い空気中、

  上に、青く白く赤黒い空。


  空気に赤錆っぽい臭いが混じり、

  微かに舌に、鉄の味わいが残った。

  眼の前に広がる光景と、舌の上に広がる味で、

  俺は吐き気を催した。


  俺は、背筋と食道から、背筋と食道がパス交換をするように、

  這い上って来る悪寒と闘っていた。

  悪寒に縮こまり、口を押さえていると、あるものが眼に入った。

  それは、赤黒ピクトの海に、脛くらいまで埋まらせながら、

  ふらふら ふらふら 歩いていた。


  与太って、千鳥足で近付いて来る男と、俺は眼を合わせた。

  縦に開く瞳孔 ‥ いわゆる猫目、男はLLCEだった。


  大概のLLCE達は、眼が見えていないので、こちらを見つめている時も、

  見ているのに見ていないかのような ‥

  焦点が合っていないかのような ‥

  他の世界に行ってるかのような、眼をしていた。

  が、そのLLCEの男の瞳には、意志の力があり、焦点を結ぶ視線があった。


  『もしかして ‥ 見えている?!』


  LLCEの男は、俺から視線を外すと、再び、

  ふらふら ふらふら 歩いて過ぎ去った。

  あの男は、LLCEなのに、明らかに視線を外した。

  俺が見えているかのように、視線を外した。


  『見えているとしたら ‥ 見えているとしたら!』


  俺は、愕然とした。

  見えているとしたら、眼前のこの光景を、眼に焼き付けているに違いない。


  蠢いて後進する赤黒ピクトの波を。

  赤黒く染まる景色を。


  空青と雲白と、赤と黒が、ウルトラマンのオープニングのように、

  混ぜたての絵の具のように、混ざったけど混ざっていない空を。


  ふらふら ふらふら と、赤黒ピクト達が進む方向へ流されて行ったあいつの瞳は、

  意志はあったけど、光りは無かった。

  あいつ、その後、どうなったんやろう。


  その後、雨は二日間降り続いた。

  雨は、赤黒ピクト達をすっかり溶かし、地面を赤黒く染め、

  空気中と空も、赤黒く染めた。


  赤黒ピクト達が、すっかり溶けてしまった当初は、

  辺りに漂う鉄錆の臭いに辟易した。

  が、それも、二日間通して、雨が降り続いてくれたことで、

  すっかり消臭された。


  雨上がりの地面と空気中の、色と臭いと味は、

  すっかり元の状態を取り戻した。


  雨上がりの空は、澄み切った青空を、広げていた。

  うって変わった爽やかな風に吹かれながら、ほんの数日前の出来事が、

  現実感に乏しい、夢のように感じられた。


  が、微かに鼻に残る臭いと、微かに舌に残る味が、

  “ 数日前の出来事は、現実である。 ” と、叩きつけて来た。

  案の定、テレビも新聞もwebも、赤黒ピクトの情報が氾濫していた。

  俺は、外に出してあった自転車の、錆が進んだことにガッカリした。 」


この事件自体は、一時的なもので終わる。

が、以後、同様の事件が、次々と起こる。

つまり、断続的に、赤黒ピクトは、氾濫するようになった。


赤黒ピクトの産出は、LLCE達の個人差に左右された。

男女差、老若差、既往病差、などなど。

また、左眼、右眼でも、赤黒ピクトの産出にタイムラグがあった。

左眼が先で右眼は後、あるいは、右眼が先で左眼が後。

その為、赤黒ピクトは、絶え間無く生み出されている。


そんな日常が、赤黒ピクトが地面に蠢く光景を、当たり前のものにする。

空気中に、鉄錆の臭いと、鉄錆の色と、鉄錆の味があることが、当たり前のこととなる。


人々は、赤黒ピクトのいる日々に、徐々に慣れ、

今では、赤黒ピクトのいる風景が、日常の風景とすっかり化している。

赤黒ピクトは、家屋内や建物内には入り込まず、車道や線路内に入り込まず、

あくまで、人間の活動範囲の安全な共有部分で、活動している。


人々は、赤黒ピクトの中を掻き分けて、道を行き、

赤黒ピクトを掻き分けて、横断歩道を渡る。

時に、赤黒ピクトを、『ついうっかり』 潰してしまうこともあるが、

勿論、罪に問われることは無い。


だが、潰した者は、その時感じた足裏の感触と、

足裏から背筋に沿って立ち昇る悪寒に、しばらく悩まされることになる。

そして、当事者以外の人は、やけに滑り易くなった地面と、その地面の赤黒色と、

空気中に感じる、鉄錆の臭いと味を感じる。


 トントン トントン


赤黒ピクトは、時には疎ましく思われることもあるが、すっかり市民権を獲得し、

最近では、マスコットキャラクター扱い ‥ ゆるキャラ扱いを受けている。


のっぺらぼうで、身体のリアルな区分が無いことが

 (一部ほんの少数だが、目と口と指のある、赤黒ピクト目撃情報もあったが)、

リアル感を遠ざけ、ファンタジー感を醸し出しているとのことらしい。


巷では、赤黒ピクトのストラップやフィギュアが売り出され、

等身大のステッカーは、魔除けとして飛ぶように売れている。


この世の中、何が来るか、分からない。


“ 雨で半溶けの赤黒ピクトの画像を持っていると、幸せが来る ”

 (正確には、 《腰から上はキッチリ形があるのに、

  腰から下は跡形も無く液体化した、半溶け赤黒ピクトの画像》 )


とのジンクスが巷間に広まり、雨の日には、ケータイやデジカメを構えた人々が、

町中に溢れる始末となっている。


 トントン


可哀想なのは、赤黒ピクトを生み出したLLCE達だったs。


フラッシュに晒され、盲目になり、

猫目になったが為に、一般の人々の好奇の目に晒され、隔離され、

LLCE一揆を起こしたものの頓挫し、一般の人々との溝を更に深く広くし、

赤黒ピクトの産出源とされ、忌み嫌われ、

赤黒ピクトの産出方法 (眼から わらわら) から、不快感や嫌悪感を持たれる。


挙句、なまじ眼が見えるようになったaLLCE達は、

自分達が産み出した赤黒ピクトが、世に蔓延る状況を目撃し、

その赤黒ピクトが、  キモかわいい  というなんとも不可思議な感覚で持て囃され、

対して、自分達aLLCEは、世の中から疎んじれられる現状を、

眼に しっか と焼き付けざるを得ない。


また、bLLCEに留まっている者達は、

『いつ、自分から、自分自身の眼から、赤黒ピクトを産み出されてしまうのか ‥ 』、

その時の訪れに、戦々恐々としている。


 トントントン


ああ、うるさい。

食事を取りながら、今までのことに思いを巡らしているのに。


バナナにシリアルを添えて、たっぷりヨーグルトをかけて、

ゆったり思い出し考えながら、ほっこり朝飯を食っているのに。


テーブルの向かいでは、彼女が、リズミカルな音を立てて、パンを食っているのに。

咀嚼音からして、バターを塗って、その上にイチゴジャムを塗った、

ミックス塗りの食パンを、食っているのに。


左眼の中で、何かが、うねっている。

瞳の裏を、何かが、乱打している。


トントントン

トントントン トントントン

トントントン トントントン トントント ‥


乱打が、止まる。

でも、眼の中がうねる感じは、激しくなる。


うねうねうね

うねうねうね


眼の中で、無数のミミズがうねり、のたうちまわっている感じがする。


うね

うねうね

うねうねうね

うねうねうねうね


がっ ‥ がっ ‥


うねうね 感覚はそのままに、別の感覚が加わって来る。

瞳孔の左右の端に、何か、五つの先を持つものが、引っ掛けられる感覚が加わる。


めり ‥ めりめり ‥


その何か に力が込められ、瞳孔が左右に開かれていく。

実際に音がしているのか分からないけれど、頭の中は、瞳孔がこじ開けられる音が、

めりめり めりめり 響き廻っている。


不思議と痛みは感じないけれど、開かれた瞳孔から、

スースー 空気が入り込む感じがする。

瞳の中で うねうね しているものが、空気に触れて、

喜んで打ち震えている感じがする。


瞳孔が、 めりめり めりめり こじ開けられる感じが止まる。


止まるとすぐに、瞳孔の底の内側に、力が掛かる。

次に、眼の下瞼 ‥ 涙袋に、力が掛かる。

何か  が、瞳孔を跨いで、外に出た感じがする。

それが始まりとなって、 何か  の大群が、眼の中から瞳孔経由で、

次々絶え間なく、外に飛び出して行く。


何か  が、外に飛び出す程、

瞳の中でうねっている  何か  は、減るように感じられる。


瞳孔から飛び出した  何か  は、

顔 → 顎 → 首 → 胸 → 腹 → 股関節 → 脚 → 足とつたい、

続々と、 ぞわぞわ と、体をつたって下って行く。


わら

わらわら

わらわらわら

わらわらわらわら


口からは、今食ったものが、ずり出ているのが感じられる。

バナナとシリアルと、ヨーグルト。

ヨーグルトの中に、 何か  も混ざっているのか、半固形半液体の中に、

蠢くものが感じる。

たくさんたくさん 感じる。


何か  が出始め、出続けてしばらくすると、

「 ‥ げほっ ‥ げほっ ‥ げーげー ‥ げーげーげー ‥ 」と、

呻き声が、耳に入る。


びしゃびしゃ びしゃびしゃびしゃ

びしゃびしゃ びしゃびしゃびしゃ


半固形半液体が、地面にぶつかる音がする。

呻き声と共に、吐瀉物が、撒かれ落ちる音がする。


げーげー げーげーげー

びしゃびしゃ びしゃびしゃびしゃ


げーげー げーげーげー

びしゃびしゃ びしゃびしゃびしゃ


周りは、酸っぱい吐瀉物の臭いと、すえた鉄錆の臭いで、充満する。

鼻から毛穴から、体の穴という穴から、臭いが侵入して来る。


それらの臭いと、異様な音と、眼 → 体とつたう不快な感触に囚われ、

身体も思考も、身動きがとれない。


瞳孔からの  飛び出し  が終わる。

空白が訪れる。

台風の目に入ったような、空白。


が、すぐに、頭の中に、

ギューンギューン回転する渦巻きが発生する。

渦巻きは黒色の濃淡で、渦巻く様を形作っている。

黒い背景とも、濃淡で浮き上がっている。


黒の濃淡を ‥ 渦巻きを、(心の)眼で追っている内、

クラクラして来る。

吐き気も催して来る。

脳内眩暈なのか。


ぷちぷちぷちぷち

じゅるじゅる ‥ じゅるじゅる ‥

ぷちぷちぷちぷち

じゅるじゅる ‥ じゅるじゅる ‥ 


ああ、黒色が、濃淡の無い扁平になる。

ああ、 何か  を押し潰す音と、 何か  を舐め取る音がする。

ああ、すべての感覚が遠くなる ‥ 。


チーン ‥


トントントン


何回叩かせりゃ、気が済むんだ。

 ‥ おっ。

やっと、準備態勢が整ったか。

まあ、強引に力ずくで、その気にしてるわけやけど。

その分、心と身体には、ダメージが残るわけやけれども。


まあ、こいつは、俺みてえなもんだから。

 ‥ 違うか。

俺が、こいつみてえなもんなのか。

まあ、どっちでもええか。


こいつから、俺が生まれた時には、すべてのことが、頭に入っていた。


こいつの血から生まれたこと。

ここは、眼の中の空間であること。

出口が開く準備を整える為に、ノックし続けること。


俺達についても、同時に、すべてを知った。


俺達の過去。

俺達の環境。

俺達の現状。


俺の役割についても、同時に、すべてを悟った。


次々と続々と発生してくる仲間達を、先導すること。

その為に、俺は、生まれながらにして、これらの情報が頭に入っていること。

その為に、俺は、仲間内で唯一、眼と口と指があること。


先導する先は、約束の地 ‥ 光り輝くフラッシュの源であること。

約束の地で、他の仲間達と落ち合うこと。

そこで、みんなと溶け合うこと。


俺の周りで、次から次へと、仲間達が生まれ出ている。

四方八方にのたうつ血管、したたる血液も、小刻みに脈動している。

仲間が、血管から出たがり、血液から生まれたがっているに違いない。


このままでは、ここは、すぐにでも、

人口密度 ‥ 俺達密度が、ギチギチになるに違いない。

早くここから、出なければ。

俺が先頭に立って、仲間達を導かなければ。


ノックし続けた甲斐が、あった。

こいつの準備態勢が、整った。

縦に薄く光りが漏れる、猫目瞳孔の左右両端に、両手をかけた。

両手、両腕に力を込め、瞳孔を横に押し開く。


めり ‥ めりめり ‥

めり ‥ めりめり ‥


瞳孔を力ずくで押し広げているのに、どうやらこいつは、

まるで痛みを、感じていないらしい。

もっと力を込めても、開く速度を速めても、大丈夫のようだ。


めりめり ‥ めりめりめり ‥

めりめり ‥ めりめりめり ‥


徐々に、だが速やかに、瞳孔は開いて来た。

開いた部分から吹き込む風が、身体に気持ちいい。

俺の周りにいる仲間達も、身体を震わせて、歓喜を表わしている。

まだ、半液体半固体の仲間達も、うごうご と脈動することで、歓喜を表わしている。


俺達一人一人 ‥ 一体一体が、充分通り抜けられる程、瞳孔を押し広げる。


俺は、左足の指を、親指から順番に一指ずつ動かす。

小指まで行ったところで、次は右足の指を、同じように動かす。

指の準備運動が終わったところで、二本の足で眼の中の底を、しっかと踏みしめる。


瞳孔の左右両端に、両手を掛けたまま、瞳孔の敷居を跨ぐ。

広がり開いた猫目瞳孔は、すでに開いた状態で固定され、

両手は添えるだけでよかった。


左脚から跨ぎ、右足に力を込め、瞳の中の底に踏ん張る。

瞳孔から ピョコン と飛び出た左脚は、 グイッ と前のめりになって、

下瞼の涙袋に、足を着いた。

瞳の中の底と比べ、下瞼の涙袋は、

角度にして45度、深く落ち込むので、不安定になる。

右足を踏ん張って、不安定な態勢を立て直す。


慎重に徐々に、重心を右半身から左半身へと移す。

移しながら、上体を前に倒し、瞳孔から上半身を覗かせる。

猫目瞳孔から、顔を ピョコン と出した時、前に座る女が眼に入った。


女とこいつは食事中だったらしく、テーブルには食物が乗っている。

女は、口をあんぐり開けて、こちらを見ている。

黄味がかった白と、

粒があって透明感のある赤に染まった、

咀嚼中の口の中を、大きくこちらに向けている。


俺が出て来たこいつは、口から食べたものを吐き出しているようだった。

ねっとりした黄と乾燥した茶と、半固形のような白が、

テーブルの上に広がっている。

咀嚼していた物を、ダラダラ吐き流して、フリーズしているらしい。


テーブルの上に広がる、ねと黄と乾茶と、半固白のカオスから、頭を上げ、

眼を上げて、視線を戻す。

戻すと、向かいの女と、眼が合った。

口を大きく開け、喉チンコと舌を見せている女と、眼が合った。


口角を上げ、少し歯を見せて、  ニヤリ  とした笑顔を、女に投げ掛ける。


じゅる ‥


開いていた口をおもむろに閉じ、女も、  ニヤリ  とした笑顔を、俺に投げ掛ける。

そして、左の口角の端から、舌の先を覗かす。

そして、舌の先を、唇湿らすように、ねっとり右の口角まで、舐め動かす。


じゅる ‥


女の俺を見つめる眼は、蛙を見つけた蛇のように、濡れ輝いていた。

チロチロと小刻みに動く舌先は、素早く、唇上を、

時計の振り子のように、一往復した。


じゅる ‥

じゅる ‥


{了}

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