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寄稿作品  作者: 采火
同人誌寄稿
19/21

宛なるは霓

うねらむ企画主催

「ドラゴンアンソロジー 龍舞記」寄稿作品。

2024/1/14

 身体は七色の硝子でできていた。

 大切なもの、気に入ったものを食べ続けて、彼らは死んだあと、宝の山となる。

 頭から尾の先まで虹を写して透き通る彼らを、地上の生き物は龍と呼んだ。

 その龍の一匹が、ある日。

 ――とっても大切にしていた人間を食べてしまった。


 ◇


 花筏ハナイカダの名前は龍から授かった。

 世界のどこかには茎や枝ではなく、葉の上に花を咲かせる草があるらしい。筏の上にある花のようだから、花筏なのだと龍は教えてくれた。

 自分の名前がそんな素敵なものだと知ったとき、彼女はとっても喜んだ。桟橋をぴょんこぴょんこと跳ねて飛んで、うっかり宮城内を巡る水路の中に落ちてしまったのを龍が見て笑っていた。

 そんな懐かしい記憶を呼び起こしながら、花筏は空を見上げる。蒼天にかかるうろこ雲。四阿でお茶を嗜みながらひとつふたつと数えていたら、青と白の狭間にぼんやりとした七色の光が見えた気がした。

 花筏が翠の目を大きく見開いた。よくよく目を凝らしてみれば、七色の光はちかちかと太陽の光を反射している。花筏は裳裾を蹴飛ばすように翻して四阿を飛び出した。

宛虹エンコウよ! 宛虹が来たわ!」

 水上の都である水遊苑すいゆうえんにうねりながらやって来る、透明な極彩色。

 三年ぶりに見かけた龍は、その細長い胴が重たげに少し下がっているようにも見えて、花筏の胸はひどくときめいた。お茶の支度をしていた奥女中がはしゃぐ花筏を追いかけてくるのも気にならない。四阿から水路の上にのびる桟橋を駆けていく。

 天高くまでのびる花筏の声に気づくと、宮城で働く者たちも我先にと露台へ出たり、窓から天を見上げた。中でも一等高い窓から亜麻色の髪がなびく。水遊苑の女領主酔芙蓉(スイフヨウ)が天を見上げてから、視線を地上へと向けて微笑んだ。

「花筏、お前の声はよく響きますね」

「母様!」

 花筏は楽しそうに声をあげると、酔芙蓉を仰ぐように天を見上げた。

 燦めく七色が手が届きそうなほどに近づく。宮城に巡る水路の水が虹を映して極彩色に染まる。その幻想的な光景に水遊苑から歓声が上がった。

『これはこれは、すごい歓迎だね』

「宛虹!」

『やぁ、花筏。久方ぶりだ』

 りぃんと鈴が鳴るような声が降ってきた。

 宛虹と呼ばれた龍は水路に沿うように、その透明な胴をゆっくりと水の中へ横たえる。花筏が立つ桟橋の木板すれすれにまで水路の水嵩が増した。

 硝子のように透き通るつややかな胴は向こうが見えるほど透明度が高い。宛虹の胴を覗きこめば水路の水底まで見える。けれど腹の中にはぽつぽつと見慣れないものが幾つも転がっていて。

「宛虹、また見慣れないものが増えているようですね。腹の具合はいかがです」

『ふふ。方々を巡ってはいるけれど、この腹が満ちるのにはまだ数百年はかかりそうだ』

 奥女中を引き連れた酔芙蓉が宮城からゆっくりと歩み出てきて、水路に沈んだ宛虹の透明な胴を覗きこむ。くつくつと笑う宛虹が水面を揺らした。桟橋に顎を乗せたので、花筏はその大きな顔へと抱きつく。はしゃぐ娘に微笑みながら、酔芙蓉は裾を払って姿勢をただした。

 蒼天の空を覗くことができるほどに透き通る宛虹の眼。その瞳を見上げた酔芙蓉が、ゆるりと微笑む。

「此度はいつ頃まで」

『この水が凍る前には』

「左様ですか。では花筏、お前を宛虹の付き人に命じます。退屈なさらぬよう、しっかりとお勤めなさい」

「はい、母様!」

 酔芙蓉に命じられ嬉しそうに笑う花筏に、宛虹の瞳が細くなる。

『前に見たときはもっと幼かったというのに……やはり人という生き物は、時の流れが早いものだね』

「だって三年も経ったのよ。わたしも十三で、大人の女になったのだもの。ねぇ宛虹、約束を覚えているかしら」

『さて、約束なんてしただろうか』

「ひどいわ! 大人になったらわたし、宛虹のお嫁様になるって約束してたじゃない!」

 ぷっくりと頬を膨らませた花筏に、宛虹が喉を震わせた。鈴の音のようにりぃんりぃんと鱗の擦れる音が響き奏でられ、雅楽のように美しいその音色に奥女中たちは色めく。

 酔芙蓉が片手で奥女中たちを制すると、宛虹の鼻先に抱きついて拗ねている花筏の肩へと手を伸ばした。

「花筏。龍へ嫁入りをするには、修行が足りないようですね」

『そも、我らは番わぬ種だ。ぷかりと生まれて世界を揺蕩い、さらりと野に還りて恵みを生む。酔芙蓉も花筏も、そんな者へと嫁入りしたいなどと、血は争えないようだ』

「母様も宛虹のお嫁様になりたかったの?」

「ずいぶんと昔のことですよ。お前が生まれるずっとずっと前の。宛虹も恥ずかしいのであまり触れないでくださいな」

 花筏が顔だけをくるりと巡らせて酔芙蓉を見る。水上の都の女領主は恥ずかしそうに睫毛を伏せて、こほんと咳払いをした。

「さて皆の者、仕事に戻りましょう。今宵は宴です。外苑と城下の民たちにも触れを出しなさい。宛虹の周遊を肴にしようではありませんか」

 酔芙蓉の宣言に奥女中だけではなく、宮城内で耳をすませていた官吏たちすら、宴だ祭だと沸き上がる。もしかしたら宮城の堀ひとつ向こうにある外苑の民はすでに宛虹の来訪を知り、早々と宴の支度を始めているかもしれない。外苑のさらに外にある城下の民もまた、空にかかった七色の影に気がついた者がいれば、お触れを今か今かと酒樽の中身を覗きながら待ち遠しく思っているだろう。

 龍の来訪は都の誉れ。

 一生涯を賭して宝を集める龍の安息の地は、いずれは終の棲家となる場所だ。龍が何度も降りる地はその候補地。

 この宛虹と呼ばれる龍は十年に一度、この水遊苑へと降りてくる。三代に渡りこの都の女領主とその娘に名を与えたことからも、この都こそ宛虹の終の棲家ではないかと期待する者は多く、その時を目にすることができるかどうかとやきもきしている。

 とはいえ、龍が終の棲家を決めるのは、その透明な腹にめいっぱいの宝を詰めこんだあとのこと。宛虹も言うようにその腹はまだまだ透明なままで、順調にいってもその腹がくちくなるのは数百年かかるだろう。

 とはいえ宛虹も齢を百ほど数えた。まだまだ少ないけれど、百年もすればそれなりに宝を得ることもできた。

 彼が得たとっておきの宝は、龍の習性に違わず、今は水底に横たわった胴の中にころりころりと転がっている。水遊苑の民はこの宝にまつわる宛虹の話をとびきり愛し、また己の宝を自慢しようと宴や祭りを催しては宛虹と宝比べをするのが、生涯を通しての楽しみだった。



 まもなく宮城に巡らされた水路に、色づく紙灯籠が浮かべられる。藍、紅、橙の灯りは水路に横たわる宛虹の硝子のような鱗を照らして反射し、鮮やかな色彩の光が夜の影を揺らした。

 宮城の囲いよりひとつ向こうの外苑にある三重の濠には灯籠を載せた屋形船が浮かべられ、さらにその向こうの城下に流れる川では橋と橋を繋ぐように提灯が吊られる。

 宴だ祭だ宛虹だと都中からやんやと囃し立てる声が夜通し響き渡り、灯籠や提灯の火が消えてもなお、水遊苑の民は酒樽が底をつくまで呑んだくれた。

 宛虹が降りた翌日にはそこら中の道端で死屍累々と呑兵衛たちが転がっているのも、もはや水遊苑の風物詩。

 朝日が昇ると、酒が飲めずに早々に退場した花筏は自室を抜け出した。はしゃぎ倒した大人たちを踏み越えるようにして宛虹のもとへと駆ける。昨晩は呑兵衛の大人たちに宛虹を譲ったので、朝の一番なら花筏が宛虹をひとりじめできると思ったのだけれど。

「宛虹、それでは北にある山崖の都はどうなるのです」

『さて。あそこは宝と呼ばれるような石は掘り尽くされてしまった。農耕をするにもあの岩肌では作物は根づかない。石好きな龍が終の棲家としてあそこを望めば今と同じ生活ができるだろうけれど、その龍が終の棲家を決めるのはまだ五十年はかかる。それに、あそこを終の棲家として望むかどうかもまた分からない』

「左様ですか……戦にならなければ良いのだけれど」

 清々しい朝焼けの中、夜が明けても宛虹と呑み交わす女傑がいた。

 奥女中がぐったりと酔っぱらって眠りこける真ん中で、酔芙蓉が水のように酒瓶をあおっている。日頃徹底して禁酒をしている母の意外な姿に花筏は唖然とした。

「母様? お酒を飲んでいるの?」

「花筏。もうお前が起きてくるような時間でしたか」

 酔芙蓉は今ようやく陽が昇ったことに気がついたと言わんばかりに天を見上げた。宛虹もくわりと大きなあぎとを開いて、欠伸をするかのように大きく息を吸いこんだ。

 袖と裳裾が宛虹に吸いこまれるようになびく。乱れないように手で裾を抑えた花筏が周囲を見渡せば、今の風で眠りこけていた人々が起きたようだ。所々からうめき声が上がる。

「驚いたわ。母様もお酒を飲むのね」

『花筏、いい言葉を教えてあげようか。酔芙蓉のように酒を水と変わらず飲む輩を枠という。うわばみやざるよりもたちが悪い。花筏はこうはならないように』

「人聞きの悪いこと。私が飲んでしまうと、城どころか都中の酒樽が空になりますからね。普段は節制し、宛虹が来たときの楽しみにしているのですよ」

 宛虹と軽口を言い合った酔芙蓉は呻く奥女中たちをゆすり起こすと、そろそろ執務に戻りますと言って宮城へと入っていく。道中に転がる官吏たちも起こしては仕事に戻るよう申し渡すあたり容赦がない。

 官吏たちはよろめきながらも宮城へと戻って行き、女中たちが宴の余韻を片づけ始める。宛虹が許したので、花筏は彼の鼻から眉間を通って駆け登り、その頭へと腰を下ろした。いつもより高い視線から、宴のあとの宮城を見渡す。

「宛虹、さっき母様となにを話していたの?」

『北の国の話をしただけだ。ほら花筏、この三年で見つけた宝の話をしてあげよう。なにか気になるものを見つけておいで』

「わかったわ!」

 昨晩、彼から話をあまり聞けなかった花筏は意気揚々と宛虹の背を駆け出した。

 硝子の鱗が花筏の柔らかな靴に踏まれ、きゅるりきゅるりと鳴り響く。その音色に誘われて水路に放たれている鯉たちが寄ってくる。鯉を供にした花筏は自分の裳裾をつまみ上げると、楽しそうに足もとを覗いた。

 陽の光を七色に反す透明な鱗の向こうに、宛虹の宝が幾つも見える。それはまるで翠と白の絵の具を混ぜ合わせたような色合いの大きな石であったり、西の職人が丹精こめて造った鬼瓦であったり、人の頭ほどの大きさもある見たこともないトゲトゲとした果物だったり。

 三年前に見たような気がするものとそうでないものを探しながら、花筏は宛虹の背を頭から尾まで歩いた。

 尾までたどり着けばもう宮城を一周したも同然で、桟橋に降りて宛虹の頭のもとへと駆ける。

「宛虹! また知らないものがいっぱいあったわ!」

『そうだろう、そうだろう。さて、花筏は何が気になるのかな』

「そうね、それじゃあ――」

 見慣れないものはいくつもあった。その中でも花筏の目を一番惹いたものは。

「花冠が二つに増えていたわ! 私以外に宛虹に花冠を贈った人がいるのよね? それは誰なのっ」

 三年前、花筏はとっておきの花冠を宛虹に贈った。大きくなったら結婚してね、との約束と一緒に。花筏のとっておきだったのに、その花冠が二つに増えている。それが花筏にとってたいへん不服だった。

『花筏はよく気がつく』

「はぐらかしたってだめなんだから!」

『あれはとある少年に譲ってもらったのだよ。妹に贈るつもりだったそうだが、その妹が病に死んでしまったそうで。どうか妹の代わりに沢山の景色を見せてやってと言われて、花冠を譲り受けたのだ』

 りぃんと鈴が反響するような宛虹の声は、肩をいからせていた花筏の胸によく響く。眦を吊り上げていた花筏はぷっくりと頬をふくらませた。

「ずるいわ。その子にとってはお気の毒だけれど、宛虹と一緒に旅ができるなんてずるい。わたしも宛虹と旅をしたいのに」

『人には人の道がある。花筏は酔芙蓉の役目を継ぐだろうから、旅に出ることは難しいだろうね』

「わかってるわ。わかってるけど……」

 それでも羨ましものは羨ましい。

 ぷくりと頬をふくらませたまま、花筏は宛虹をねめつけた。

『花筏は欲ばりだ』

「宛虹に言われたくないわ! 宝物、全部食べちゃうのに」

『それが龍だからね』

「わたしも龍に生まれたかったわ」

『龍なんて哀しい生き物だ』

 宛虹の声がりぃんと響く。

 龍とは生涯、腹が満ちることはないという。腹が満ちたら飛べなくなり、そこを終の棲家とし、間もなく息絶える。数百年、時には千年もの間、空腹を抱えて生きねばならない生き物を哀れと言わずになんというのか。

 花筏は少しだけ反省したようにうつむいた。それからぴっとりと宛虹の鼻先を全身を使って抱きしめる。

「宛虹が人間だったら良かったのに」

『そうしたら花筏を嫁にできたかもしれないね』

「んもぅ、こういうときだけ調子がいいんだから!」

 花筏が身体を震わせて笑った。ぎゅうぎゅうと宛虹に抱きつく花筏は顔を上げると、空が透けて見える宛虹の瞳をひたと見据えて。

「宛虹の話をもっと聞きたいわ」

『いいだろう、水上の都のお姫様』

 一人と一匹はどちらからともなく微笑む。

 りぃんと宛虹の声が天高くたなびいた。



 宛虹は宣言した通り、季節が巡って水路が凍り始める頃、天へ昇っていった。またしばらく世界を旅して宝物を探すのだろう。

 次はいつ来るのか、前は三年前だったけれど、今度は十年よりもっと先かもしれない。そわそわとしながら、花筏は水遊苑に雪解けの季節がくるのを待ち焦がれた。

 そうしてさらに幾度かの季節が過ぎ去り。

 歳を重ねた花筏の亜麻色の髪はずいぶんと長くなった。翠の瞳には思慮深さが宿り、陶器のようになめらかで真白な肌には淡く化粧を乗せるようになる。四肢は牝鹿のようにすらりと伸び、酔芙蓉と並んで水上の都の美姫として慕われて。

 そんな花筏と、龍の終の棲家として今一番近いと噂される水遊苑。

 これらを欲しがった北の荒くれが挙兵したのは、宛虹が水遊苑から去ってから五年後のことただった。



 花筏は躊躇いなく裾を引き裂いた。重たい衣装はただの枷でしかなく、水の上を歩くには不都合だった。下着のような薄い衣ひとつでさえ、駆ける足に絡むのが邪魔でしかたない。

「逃げたぞ! 追え!」

「水の上を走っているのか!?」

「船を出せ! 泳げる者は泳いであの女を止めろ!」

 煌々と燃え盛る炎の熱気に煽られて、花筏の亜麻色の髪が翻る。降りかかる火の粉を袖で払って、宮城内を巡る水路を駆ける。桟橋からでは不埒者の手は届かず、水路に船を浮かべようにもこの宮城内に船なんてものはない。外苑の濠から船を引くのにも時間がかかる。

 花筏はそんな賊どもの様子を一瞥すると、彼らが立つ桟橋から遠く離れるように水路を――水の上を進んだ。

 この水路には宮城の人しか知らない細工がある。深く澄んでいるこの水路には細い水晶柱が幾本も立っていて、いざというとき、まさに今のようなときのために脱出経路までたどり着けるようになっている。

 水上を翔ぶように駆ける水遊苑の女領主の娘。

 亜麻色の髪が熱風に煽られ浮き上がり、火の粉が雪のように舞い散った。透明な水上で炎上する宮城を背景に、花筏の気高く澄んだ瞳がまっすぐと北の荒くれどもを射貫く。

 北の荒くれどもは、まるで神秘を垣間見たように息を呑んだ。

「馬鹿みたい」

 花筏の嘲弄は誰にも届かない。

「宛虹を手に入れたいのなら、大切なものを作ればよかったのに」

 龍の宝を欲しがった山崖の都の鉱夫たち。

 朝から晩まで鉱山を掘り続けた彼らの屈強な肉体は、水上の都の兵士たちを簡単に打ち払ってしまった。

 水遊苑の兵が弱かったわけじゃない。相性が悪かった。軍略や技術をもってしても、鉱山に住み着く荒くれどもの力まかせな剣や奇襲には耐えきれなかった。

 酔芙蓉はすでに炎に包まれた。宮城の天守から見下ろした城下に火の手があがっていると気づいた時には遅かった。謁見を申し出ていた山崖の国の兵長に斬り伏せられた。それでもただでは殺されてはやらぬと、宮城に火をつけて己を斬った男を道連れにした。

 それらを花筏は一部始終、見ていた。

 母がここ数年、北のほうにある都が廃れ始めたことを気にしていたのを知っている。廃都になる前に山崖の都の領主に救世の手を差し伸べようとしたのも知っている。近いうちに花筏へと領主の役目を継ぎ、山崖の都へ自ら赴き助言しようとしていたことも。

 そうすることがいずれ水上の都のためになると、酔芙蓉は繰り返し花筏に説いていた。

 それなのに山崖の都の鉱夫たちは龍の宝という目先のものに囚われて、暴力という強引な方法で水上の都をその手中に収めようとした。

 北の荒くれは分かっていない。

 どうして宛虹が水遊苑を好むのか。どうして龍が掘り尽くされた鉱山を避けるのか。

「宝の価値を決めるのは、私たちなのに」

 龍が心惹かれるものは、人の心も惹かれるもの。

 龍を招きたいのであれば、豊かな国を作ることを忘れるなと酔芙蓉は常々言っていた。

 山崖の都がいくら枯れた土地とはいえ、懸命に人が生きて宝を増やしていけば龍もまた惹かれていく。鉱山こそひと財産、龍の死骸こそが宝と勘違いしている北の荒くれどもはまず、その認識を改めねばならなかったというのに。

 目先にある完成した宝に目が眩んで、水上の都をまるごとせしめんとするなんて。

「美しいものを美しいと言えるようになりなさいと、母様はずっと言っていた。この水遊苑は美しかった。それを蹂躙したあなたたちでは、何千年かけても龍の宝を得ることはできないでしょうね」

 宮城内の水路から外苑へつながる水門をくぐる直前、花筏は最後にもう一度だけ振り返る。

 赤く燃ゆ水上の宮殿。天守が今にも崩れ落ちそうだ。あの中に酔芙蓉と、女領主の死出の路へ付き添うと言って腹を掻っ切った奥女中たちの亡骸がある。

 官吏たちは略奪者たちに殺された。花筏を逃がしてくれた兵も道中で殺された。

 みんな死んでいくのに、花筏には生きろと言う。

 みんな生きてほしかったのに、花筏だけが生き残った。

 みんな我が儘だ。でも死の際の願いは美しい。だからこそ違えたくなくて。

 花筏はさよならをこめて炎の宮城へと目礼をした。今度こそ生き延びるべく、水門を潜ろうと前を向く。

 その花筏の背に。

 とん、と。

 まるで戸を叩くかのように優しい弓矢が飛来し、花筏の心臓を貫いた。

 不運だった。

 水遊苑の本隊兵士が全滅した故に、足止めされていた敵の弓兵がここまで入り込んでしまったことも。

 花筏が遮蔽物のない水路の上にいたことも。

 また、それを。その瞬間を。

 天空より宛虹が見ていたことも。

 ――水上の都の地獄絵図はここからだった。



 龍の咆哮が空に轟いた。

 水上の都の民は泣きながら空を見上げ、彼らを蹂躙する山崖の都の兵士たちは歓喜の歓声を上げる。

 七色の硝子でできたような透明な鱗の向こう側には、ごろりごろりと転がる宝が垣間見える。宝を内包する細長い胴をくねらせながら、宛虹は盛大な水飛沫を上げて水路へと潜り込んだ。

 溢れた水に溺れそうになった荒くれたちが流されないように各々何かにしがみつく。轟々と荒れる水流に堪えれば、燃えていたはずの宮城の火は消え、兵士たちが持つ剣や弓矢までもが何処かへ消えていた。

『あぁ、花筏。可愛い花筏。どうか目を開けておくれ。まだお前が死んでしまうには早すぎる。酔芙蓉はどうしのだい。この美しい都が何故このような』

 りぃんりぃんと鈴を擦るような美しい歎きの音色が響く。荒廃した北の鉱山では伝説やお伽噺の類いとなっていた龍の姿に、誰もが感動し、涙ぐむ者さえいた。

 けれど宛虹はそんな彼らに意識を傾けることなく、優しく掌に包んだ花筏を桟橋の上へと横たえた。

 はないかだ、はないかだ、と宛虹が呼ぶ。

 血の気が引いて蒼い顔をしている花筏の衣は紅が滲み、苦しそう。

 根気強く宛虹が花筏の名前を呼び続ければ、彼女はうすらとその瞼を震わせた。

「えん……こう……」

『花筏。良かった、良かった。酔芙蓉はどうした。城の者は、水遊苑の民は、何があった』

 りぃんりぃんと宛虹の声が響く。

 美しいその音色に、花筏の表情が少し和らいで。

 緩慢な動作で身を起こす。水に濡れた亜麻色の髪が衣とともに身体にぴっとりと張りつく。花筏は微笑みながら、空を透かして見える宛虹の頬へと手を伸ばす。

「宛虹、久しぶりね。宝物は増えたかしら」

『さほど増えてはいないよ。やはりこの都が一番美しい。此処以外でこの宛虹の腹を満たせるものはなかなかないのだから』

「そう、それなら」

 宛虹が少し見ない間に、花筏はずいぶんと大人びた。

 酔芙蓉のように美しい、自分は決して間違わないと自信にあふれたような微笑みをするようになった。

 身体は今にも死にゆこうとしているのに不敵な笑みを浮かべて、花筏は囁く。

「私をあなたの宝物に。この宮城もあなたの宝物になれるのなら、食べてくれる? この都ですら、食い尽くしてしゃぶり尽くして、あなたの腹を満たして……それからうんと高く天まで昇って、私とあなたとこの都の民たちで、新たな国を作ってみるのは……どうかしら」

 宛虹の顎を抱きしめるようにもたれた花筏の翠の瞳は、どこまでも美しかった。

 たとえ濁り、宛虹を映さなくとも。

 まばたきを忘れ、赤い水をその身から滴らせていても。

 その温もりを水の中に置きざりにしたまま、肺を膨らませることができなくなっても。

 こと切れた花筏は、あんまりにも美しくて。

 宛虹は泣いた。

 龍の涙は天の雨。叩きつけるような勢いの土砂降りに、北の荒くれたちはざわつき出す。

 そんな小さき者の狼狽えなど知ったことではないというように、宛虹の鈴のような声が瞑怒雨の中でも広く遠くに響き渡った。

『花筏の言うとおりだ。この都こそ、この宛虹の宝。ならば望み通り、喰らうてみせようか』

 ぐわりとあぎとが大きく開く。傾いだ花筏の身体が宛虹の咥内に転がりこむ。噛み砕くこともなく静かに飲みこまれた彼女の身体は、水に揺蕩うようにゆっくりと宛虹の腹の中を巡っていく。

『まだ腹は満ちぬ。この宮城も喰らうてみせようか』

 宛虹は知らない。この宮城に酔芙蓉や、彼女に付き従った奥女中、さらに都を繁栄させてきた官吏たちの亡き骸があることを。たとえなくとも、花筏の遺言通りに燃えた宮城を飲みこんだのかもしれないけれど……宛虹はその鋭い牙で傷つけないように、宮城を飲みこんだ。

 あんな大きなものをどう腹に収めるのかと思った者もいたかもしれない。北の荒くれの中には、宛虹の身体が今よりさらに大きく膨らんだのを見たと言う者もいた。宛虹は焼け落ちた宮城をまるっとひとつ、飲みこんだ。

『まだ腹は満ちぬ。優しく美しい水上の都の民よ。この宛虹に喰われたいやつはいるか』

 宛虹の誘いは甘露のようだった。

 なによりも、宛虹の腹に揺蕩っている花筏が美しくて羨ましかった。

 あぎとをぐわりと開いた宛虹の口へと、水上の都の民は自ら身を投げた。龍の腹の中は母の胎内にある羊水のようなもので満ちていて、水上の都の民の命をゆるりと昇華した。

「き、気が狂っている!」

 北の荒くれの一人が叫んだ。

「化け物だ! 龍なんてものは化け物だ!」

 宛虹を指差して化け物と呼んだ北の荒くれは、美しさをこよなく愛する水上の都の民に恐ろしいほど恨まれる。

 恨まれて、憎まれて、憐れまれて、北の荒くれは決死の覚悟を決めた兵士よりも恐ろしい水上の都の民の抵抗を見た。

 肉を切らせて骨を断つ。我が身を省みない水上の都の民の最期の抵抗はそら恐ろしく、北の荒くれは自分たちこそが蹂躙している立場であったことを忘れてしまうほど。

 その上、眼の前にいる水上の都の民から逃げようと後退すれば、宛虹の尾が北の荒くれどもを薙いでその命を呆気なく奪ってゆく。

 最後に残ったのは嘆き悲しみ腹を満たした宛虹と、荒廃した都、そして屍を積み上げた北の荒くれたちだけで。

 宛虹は重たい腹を抱えて飛翔した。

 ぐんぐん天へと登り、りぃんりぃんと鱗を震わせて。大切なものを詰めた腹を暗い色の雲より高くにおわします太陽へと掲げて。

『この宛虹の宝は見事、美しい』

 水遊苑に龍が落つ。



 りぃんと美しい音色をこぼし、ここでこのまま生を閉じようかと宛虹が飛翔の力を手放し落下する。

 終の棲家を此処に定めれば、花筏の望みも叶うだろうかと思ったとき、腹がごろごろと蠕いた。

 どうしたのかと腹を見れば、透明な鱗の向こう、満ちた己の腹にいる子供と目が合う。

 花筏や酔芙蓉を彷彿とさせる亜麻色の髪に翠の瞳。

 幼子が生きたまま、宛虹の腹の中にいた。

 まさか、そんな、と思っているのもつかの間、宛虹の腹に満ちた羊水に溺れそうになる幼子に、宛虹はわずかに飛翔の力を取り戻す。

 水上の都の民は皆望んで宛虹の腹へと収まったけれど、この幼子はきっと違う。宝を一番美しい姿のまま留める龍の腹で生きたままでいるというのは、つまりはそういうこと。

 あれほど嘆き悲しみ絶望したというのに、宛虹は幼い命を宝と思っていた。

『ああ、なんということだ。なんということか。花筏よ、酔芙蓉よ。腹が満ちぬ。この宛虹の腹はまだ満ちることを知らぬ、知ってはならぬ』

 どうすれば良いのかと宛虹は途方に暮れた。

 生きた幼子を抱えたまま、宛虹はゆっくりと水遊苑に降りていく。腹が重たい宛虹は天に二度と浮き上がることができず、落ち葉のようにゆらめきながら落ちていくことしかできなかった。

 眼下に広がる見るも無惨な大地を天から見下ろして、宛虹は嘆いた。我を忘れて都をあんな姿にしたのは宛虹だった。花筏の甘い言葉に誘われて、宛虹は望むものを望むだけ食い散らかし、不要なものを切り捨て、積み上げ、あれだけ美しかった都をあられもない姿にした。

 あぁ、どうしてこうも取り返しのつかないことを。

 りぃんりぃんと後悔に啼く龍の音と共鳴したように、しとりしとりと空知らぬ雨が降る。

 激しい慟哭とは違う、穏やかな袖時雨。

 宛虹が落としたそれが誘い水となり、大地に流れた赤い水を流す愁雨が降り出した。

 宛虹は腹の中の幼子をどうすることもできずに地へと這った。腹は満ちていないと言い聞かせても、宛虹に飛翔する力はすっかりなくなってしまった。重たい腹の中、幼子が宝の間を器用にぬけて無邪気に隠れんぼをしている。

 さめざめと降る雨の中、動かなくなった宛虹にひっそりと近づく影があった。

「宛虹様……」

「龍様……」

 口々に寄ってくるのは、どこか虞れと不安と安堵を混ぜた瞳を持つ水遊苑の民。

 北の荒くれの暴力から逃れ、宛虹の誘惑を慄れた僅かな民たちだ。

 宛虹は罵られることを覚悟した。暴力を伴われることも考えた。甘んじて受けるべきことだろうと思いながらも、腹の幼子にはそれを見せたくないとも思って。

 でも宛虹のそれを杞憂だと言うように、水遊苑の民はおもむろに宛虹に低頭した。

「宛虹様、どうか、どうか領主様をお返しください……」

「父と母を、お返しください」

「我が子を」

「美しいこの水遊苑を」

「どうかお返しください――」

 平伏する民たちにしとしとと降り注ぐ水滴を見つめながら、宛虹は眼を閉じた。

 もう動くのも億劫だ。腹の中でごろごろと動く宝に、意識を向ける。水遊苑の主たちを望む迷子のような民たちに、せめてあの無垢な幼子を授けなければ。

 くわりとあぎとを開く。もぞもぞと腹の中から何かが這い出ていく。腹から遡り、喉もとまでそれが来たとき、宛虹は違和感を覚えた。

 幼子にしては移動するものが大きく、数が多い。

 うすらとまぶたを開くと、亜麻色の髪がいくつも宛虹の口から出ていく。

「宛虹の宝物を、また作らないといけないわね」

 ぞろぞろと宛虹の腹から出ていったものの最後、亜麻色の髪をふわりとなびかせ、一人の少女が振り向いた。


 ◇


 身体は七色の硝子でできていた。

 大切なもの、気に入ったものを食べ続けて、彼らは死んだあと、宝の山となる。

 頭から尾の先まで虹を写して透き通る彼らを、地上の生き物は龍と呼んだ。

 その龍の一匹がある日、とっても大切にしていた人間を食べてしまった。

 泣いた龍はその命を腹の中の人間へと与えたそう。

 そうして蘇った人々は身体の何処かに、きらりと輝く鱗が数枚生えたのだそうだ。

 生まれ変わった人を、人は龍人と呼ぶ。

 自分たちを生んだ龍の骸をいつまでも慈しんだ。そこに都を作り、やがては国となり、数千年を経て、国起こしの神話となってゆく。

 硝子の竜は、そうして創世の温室となった。


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