ランナーズハイドラッグ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
くっ……50メートル、7秒2……おせえっ!
ふざけんなよ、あんのクソ先公が! なにが「50メートル7秒を切らなきゃ、5はあげません」だ! 足以外なら、ぜってえ他の連中に負けやしないのに、これだけのために4がつく危機とか……おかしいっての。
このやろ、もう一本……ん? 走り過ぎだから、ちょっと休め?
ちっ、わかったよ。確かにじんわり、足が痛むしな。
体育の陸上が終わるまで、あと半月ってとこか。身一つありゃ簡単に記録を出せるし、器械体操に比べりゃ、俺は好きだぜ。こんな成績の「枷」をはめられないんだったらな。
走ること。恐らく生身の人間が行える、最速の移動方法じゃないか? 単純なスピード、それに伴う破壊力。いずれも自然界の中には、かなわない相手がごまんといる。
だがそれだけで「優」をつけるのは、通信簿と同じで納得いかんよ、俺は。成績だっていくつもの観点別評価を合わせて、総合的に判断される。多くの人が気づいていないだけで、実は隠れた観点がいくつも世の中に存在しているかもしれないぜ……?
――なに? 未知の力に期待する、邪気眼系の中二病かって?
ふぅん、確かにそっくりだな。
ま、実際パワーって奴は隠れているものじゃなくって、知らぬ間に発揮されているものだと俺は思うぜ。受け皿となる環境がないだけ。
電波が飛び交っても、キャッチできるアンテナがなきゃ、意味ないのと同じだ。ま、そこに不遇への反発、強まった承認欲求なんかが絡んでくるのは、間違いないだろうが。
……話を戻そう。
この走るっていう、人間の持つ最大限の力の行使。本気で臨めば、思わぬ副産物が現れるかもっていうことだ。
お前の好きそうなくだりを、つい最近聞いたんでな。この休みの間で聞いてみねえか?
俺の父親が学生だったころだ。
えらく走るのが早い子が、同じクラスにいたらしい。校内で張り出される徒競走歴代最速の記録を、20年ぶりに更新したことで、少し話題になったくらいだ。
走ることに力が入れられていた時期でもあった。当時は近隣の学校で、窓ガラスが割られる事態がたびたび報告されていてな。「非行に走るな、グラウンド走れ」のスローガンを校長先生が改めて掲げたことで、運動が推し進められていた。
件の彼の走りのフォームだけど、美しくない。手足の振りと運び方はてんでバラバラ。正面から見たときには、陸にいながら溺れかけてもがいているような、ぶざまそのものの格好だったらしい。
ただそのむちゃくちゃな走りに、勝てる奴はいなかった。初めは彼の走り方に噴き出してしまったが、それらを抜きにしても、彼と一緒に走る奴はみんな、彼の遠ざかる背中を見送るよりなかったんだ。
彼は冬場になっても、半袖半ズボンのスニーカーソックス。肌の露出は、男子の中でも一番だった。そのうえ、走るたびに彼からは汗が大いに飛び散っていった。フォームのせいもあるのだろうが、彼の走った場所の近くには、点々としずくが落ちたらしい、黒く湿った痕が広がっている。
順番を待つ間は上着着用が認められているのに、彼はそれをしなかった。代わりに、みんなから少し離れた位置に腰かけ、時間さえあればポケットから小さいチューブを取り出し、その中身を指に出して、肌へ塗り付けていたんだ。
チューブの表面に書かれているのは、「ワセリン」の文字。
いわずとしれた、保湿剤だ。
日本の冬は乾燥する。肌を守るためというなら、一理ある選択だった。でも、彼の場合は少しおかしい。
顔からくるぶしのあたりまで、まんべんなくこすりつけていくのは、まだ分かる。でもそれらが一通り終わった後、また顔へ戻って二重、三重と塗りたくっていくんだ。
この数十分の授業で、チューブ一本を使い切らんとする勢い。そうなると、彼が走りながら飛び散らかしているのは、汗というよりワセリンそのものといった方が……。
その現場を目撃してから、父親は彼から少し距離を取るようになっていた。でもしっかり距離を取るためには観察の目を絶やすわけにはいかず、何かと彼の動向を遠目に見張るようになったんだ。
彼は毎日のように、休み時間になるとグラウンドへ出ていたが、みんなと一緒に遊んでいるわけじゃない。ひたすら校内を走り回っている。
ひもを張って作った、一周200メートルのトラックに限らない。グラウンド中はおろか、校舎の横やプールのわき。先生たちの車ひしめく裏庭から、学校菜園の奥まで。そこを時間の許す限り、何周も何周もしていたんだ。ときどき、ワセリンを塗り直しながらね。
不思議に思った父親は、久方ぶりに彼と話した。自分の見てきたことを話し、どんな狙いがあるのか問いただしたんだ。
「おさえるためだよ」
彼はこともなげに答えた。
この学校には、ワセリンが好きな奴が潜んでいる。いや、相手によっては飢えている奴らも。そいつらの渇きを潤してやりたいんだと。
「そのままのワセリンを、あいつらは好かない。俺たちにとっちゃ、メシで固い固いフランスパンをつきつけられているようなもんだ。噛むのをおっくうに思う奴らは、たいそう機嫌を損ねちまう。
そこで人の汗を混ぜ込んでやるんだ。人外はよく、人の生き血を求めるだろ? どうやら人の体液を通してやると、食べやすくなるみたい。
本当は血がいいらしいけど、痛い思いはごめんだ。汗でも効果があるようだから、妥協しているってわけ」
「……あの、へんてこなフォームにも意味が?」
「ワセリンを飛び散らかすための、オリジナルだね。かっちょ悪いだろ?」
ははは、と彼は恥ずかしがる気配も見せず、笑い飛ばしていたそうだ。
ワセリンを求める奴。そいつの実態を父親が察したのは数週間後のことだ。
寒さが増す中、彼がインフルエンザにかかったらしくてな。しばらく学校を休むことになった。すると晴れた日の日中、風もないのに窓が勝手に揺れることが何度かあったんだ。
音を聞いて窓を向くも、そこには何の影もない。見える木々も、その枝葉を揺らしている気配を見えなかった。
日を追うごとに、窓揺れはその強さ、その頻度を増していき、ついに彼が出席停止を解かれる前日の昼休み。
校舎の一階、西側の窓たちの半数が一斉に割れるという事件が起きた。現場に居合わせた数少ない目撃者の話では、そこには人も道具も何もなく、ひとりでにガラスが割れたとしか思えなかったらしい。
音を聞きつけて、たちまち人だかりができてしまう各教室たち。その中でも保健室は、このわずかな時間でできるとは思えないほど、棚や机が漁られた形跡があった。改められたところ、ワセリンの入った容器だけが根こそぎ無くなっていたのだとか。