その後
シオンは、東の都から鱗月村へと続く街道を、死に物狂いで走っていた。
彼の体は疲労の限界を超えていたが、握りしめた銀製の紋章(リューゼン家の証)が、彼の命綱であり、エセルへの愛の証明だった。
「俺が、俺がこの証拠を持ち帰る…!ノアの言葉が真実だと証明し、エセルを心の底から救うんだ!」
シオンは、ノアの言葉が真実であったこと、そして自分がノアの情報収集の道具として利用されたことを理解していた。
しかし、その屈辱よりも、エセルが真の安らぎを得ることの方が重要だった。
彼は、自分が運ぶ紋章一つが、村の平和と、東の国の権力構造を揺るがすほどの重さを持っていることを理解し、足を止められなかった。
シオンが帰路を急ぐなか、遥か東の国では、ノクスによる静かなる報復が始まっていた。それは、炎上や流血を伴うものではなかった。
リューゼン家とその同盟貴族の館では、不可解な出来事が連鎖していた。
経済的破綻: 彼らが頼りにしていた主要な商取引が、突如として国際的に信用を失い、莫大な負債が発覚した。
政治的失脚: 主要な貴族の不正蓄財や過去の罪が、手のひらを返したように次々と公にされ、一夜にして権威が地に落ちた。
不運な事故: リューゼン家の当主は、自慢の馬車が制御不能となり、主要な街道から転落するという「不運な事故」に見舞われた。
竜眷属と情報網は、人類社会の権力構造を千年にわたって研究し、その崩壊方法を熟知していた。報復は、逃げ場のない、社会的・経済的な死という形で、確実にリューゼン家を襲っていた。
鱗月村
ノアは、治癒院の縁側で、静かにエセルが目覚めるのを待っていた。彼は、遥か東で起こっている破壊の波を感じ取っていたが、表情は微動だにしなかった。
エセルは、ノアとの抱擁による深い安寧のおかげで、久しぶりに悪夢を見ずに目覚めた。彼女の視界に入ったのは、自分を見守るように存在するノアの姿だった。
「ノアさん…」
エセルは、微かに微笑んだ。
「お目覚めになられましたか、エセル殿」
ノアは静かに立ち上がった。
「体調はいかがですか」
「ええ、とても良いわ。あなたがいてくれるから」
エセルの声には、ノアへの絶対的な信頼と依存が込められていた。彼女にとって、ノアこそが平和そのものだった。
エセルは、シオンのことは思い出さなかった。彼女の心は、ノアの静かな力によって満たされ、もはや外の熱狂的な世界を必要としていなかった。
シオンは、村へ近づく途中、疲労困憊の逃亡商人の一団に遭遇した。彼らは、東の国で起こっている「まるで呪いのような」崩壊の話を、恐怖に顔を引き攣らせて語っていた。
「リューゼン家が、一夜にして全てを失った…!ただの事故や不正ではない、何か巨大な力が、東の国全体を動かしている!」
シオンは、その話を聞き、全身が凍り付いた。彼は、自分が必死に持ち帰ろうとしている紋章が、既にこの報復劇の引き金となっていたことを悟った。ノアの警告は、単なる脅しではなく、世界の構造を塗り替えるほどの真実だったのだ。
シオンは、勝利の証である紋章を握りしめながらも、己の無力さを痛感し、絶望に近い焦燥感に襲われた。




