戻る穏やかな日々
村を旅立ったシオンは、東の国境近くの山脈を越えるところで、最初の困難に直面していた。ノアの言葉通り、山賊の痕跡は完全に途絶えており、ここからは人や情報の流れを追う必要がある。
シオンは、ノアの言葉の真偽を確かめるため、街道沿いの小さな宿場町に入った。
彼は、疲労と警戒心から、誰も信用できずにいたが、エセルへの想いが彼を突き動かしていた。
シオンは、ノアの力を借りずに、自力で情報を掴もうと、孤独な探査を始めた。
その頃、鱗月村の治癒院。
エセルは、アメティストの献身的な看護と、村の安全が回復したことで、少しずつ気力を取り戻していた。
午後、エセルの部屋に、微かな薬草の香りと共に、ノアが姿を現した。彼は、熱い茶と、アメティストが許可した僅かな薬草の煎じ薬を盆に載せていた。
「アメティスト殿が用意した薬湯です」
ノアは、表情一つ変えず、静かに茶を机に置いた。彼の瞳には、同情や憐れみは一切なく、ただ静かで揺るぎない安定だけがあった。
エセルは、ノアの冷静な態度にかえって安らぎを感じた。彼女が山賊に連れ去られた後、シオンの熱意は彼女に罪悪感を与えたが、ノアのこの態度は、「何事もなかったかのように」彼女の存在を受け入れていた。
「ノアさん…ありがとう」
「お気になさらず。」
ノアは簡潔に答えた。
エセルは、意を決して尋ねた。
「シオンは…どうしているの?」
ノアは、茶碗に視線を向けたまま、静かに答えた。
「シオン殿は、残党の脅威を根絶するため、村を離れました。」
エセルは、シオンの熱意を知っていた。その行為が、彼女を安心させたいという切実な想いから来ていることも分かっていた。
だが、彼女の心の安寧をもたらすのは、シオンの熱意ではなかった。
エセルは、ふとノアに尋ねた。
「ノアさんは…どうしてそんなに、冷静でいられるの?」
ノアは、そこで初めて顔を上げ、エセルと視線を合わせた。彼の青い瞳は、深く、そして遠い場所を見ているようだった。
「私は、起こった事実に感情を揺らすよりも、二度とそれを起こさない方法を考える方が、より合理的だと知っています。そして、無駄な熱意よりも、確実な力の方が、愛するものを守るには不可欠だと知っている」
ノアは、一瞬だけ、エセルを深く見つめた。その眼差しは、冷たい氷の中に、強烈な執着という熱が秘められていることを示唆していたが、すぐに元の平静に戻った。
「あなたは、今はご自身を回復させることだけを考えてください。私は側にいます」
ノアの言葉は、まるで絶対的な誓約だった。エセルは、この静かな男こそが、自分の心の嵐を鎮めてくれる唯一の存在だと、無意識に悟った。彼女の心の中で、ノアへの信頼と強い関心が、確固たるものとなっていった。
ノアは、用を終えると静かに部屋を出た。彼の去った後、エセルは、初めて穏やかな表情で、熱い茶を口にした。




