ノア
ェセルが森の奥へと消えた後、シオンは焦った。
ガルドとの約束や村の警戒など、全てが一瞬にして頭から消え去った。
彼の心にあったのは、ただ一つ、エセルを危険に晒したくないという強い衝動だけだった。
「くそっ!」
シオンは警戒を捨て、森の入り口に立っていた籠を蹴り倒すようにして、エセルを追いかけた。彼は必死に「エセル!」と呼びながら、彼女の踏み跡を探した。
(エセル、俺が・・・出遅れたから)
森の中に入ったエセルは、目的の赤紫色の薬草を点々と見つけ、夢中で採取していた。
それ故に彼女は気が付かなかった。
目の前の茂みから、鼻息荒い巨大な猪が見つめているのを。
その猪は、この森でも、滅多に出会わないほど大きく、荒々しい目をしていた。
エセルはその姿に気がつくと、恐怖に体が硬直した。彼女の足は震え、その場に腰を抜かし、動けなくなった。
「や、やだ…!」
エセルは声にならない悲鳴を上げた。
その時、ちょうど村の門をくぐったばかりのドラゴニアの青年ノアは、その悲鳴を明確に聞き取った。
彼は村長への案内を待つため門番と話していたが、悲鳴を聞くと同時に、門番の制止を振り切り、音のした森の方向へ向かって走り出した。
シオンは、木々の間からエセルの姿を見つけた。彼女は巨大な猪を前に、地面に座り込んでいた。
「エセル!」
シオンはそのまま、エセルと猪の間に飛び込んだ。
その手には、いつももっていた採取用のナタもなく、大きく手を広げエセルの前に立つしかなかった。
その瞬間、横から風のような速さで、ノアが割って入った。
彼は手に何も持っていた剣で、大きな猪の急所を的確に打ち据えた。
猪は呻き声を上げる間もなく、その場に倒れ伏した。
エセルは腰を抜かしたまま、目の前の出来事を理解できなかった。
シオンもまた、その圧倒的な力と、静かでありながらも優美な青年の動きに、驚愕して立ち尽くしていた。
ノアは倒れた猪を一瞥すると、すぐにエセルの方を向いた。
「大丈夫ですか」
ノアは、その青い瞳に強い安堵の色を滲ませながら、セシルとエセルに手を差し伸べた。
エセルは、まだ震えが止まらないまま、その謎めいた青年を見上げた。
シオンはすぐに、エセルを抱き起こした。
「エセル、怪我は…」
シオンは、安堵と同時に、エセルを助けたのが自分ではなく、目の前の見知らぬ青年だったという事実に、言いようのない焦りを覚えた。
騒ぎを聞きつけたガルドが、村人たちと共に慌てて森に入ってきた。
彼はエセルの無事を確認し、深く安堵した。
シオンは戸惑いながらも説明した。
「ガルド、この人が…俺達を助けてくれた。」
ノアは静かに一礼した。
「ノアと申します。ドラゴニアの村の噂を聞き、ここまでまいりました。この猪は、村の皆さんで分けてください」
ガルドはノアの強さと静けさに驚きながらも、命の恩人として彼を拒否することはできなかった。
「…助かった。村長に話を通す。礼をさせてくれ」
こうして、ノアは新たな村人として迎え入れられた。




