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お代は猫でお願いします  作者: 蔵前
二 旧知と窮地の者が集い
8/71

狸と田辺がこんにちわ

 俺は自宅玄関前で大きく溜息をついた。

 小枝子が俺の背に、自分の荷物をどかっとぶつけた。


「早く開けろよ。」

「心の準備をさせてください。」


 善は急げと荷物を抱えた小枝子に押し切られ、藤枝家から我が家に彼女をつれて直行する事になったのだが、考えれば考える程に「失敗」の二文字が頭から浮かんでは消え浮かんでは消えをしていた。

 非常識男と相良に罵られる俺でも、自分の初恋の相手で、その上本当は相思相愛だった女性を新妻付きの女中にして一緒に住むだなんて、それは非常識この上ないと言い切れる。


「この、弱虫。」


 隣に立つ小柄な狸は俺に玄関を開けろとドカドカと鞄をぶつけていたが、一向に動かない俺に見切りをつけたかとうとう自分で勝手に玄関扉を開けた。


「お帰りなさい。隊長。」


 勿論出迎えたのは田辺大吉だ。

 一緒にシベリアで冷や飯を喰らい、一緒に帰国して、そして一緒に会社を立ち上げて一緒に住んでいる相棒だ。

 しかし田辺は未だに俺を隊長と呼び、相棒ではなく執事のように振舞う。


 戦時中は俺を隊長などと呼ばずに「坊ちゃん」としか呼ばなかった癖に、だ。


 そして、小柄で敏捷な彼は九州が故郷らしく浅黒く彫が深い。

 派手なシャツを着せたら南方のヤクザかチンピラそのものになりそうな外見だねと一度は揶揄いたいが、俺よりも怖い人なので本人には絶対に言えない。


 ところがその怖い人は、一緒に死地で苦労した俺の三歳年上の戦友で有能な副官だった彼の初めてというべき、言葉を失っている姿を俺に見せた。

 俺を出迎えたつもりがチビ狸で驚いただけだろう。

 ついでに言えば、小柄な小枝子は黙っていれば、普通にこの上なく可愛らしい外見の女性なのである。

 あ、俺はやっぱり単なる美人好きだったか。


「うむ。苦しゅうない。気を楽にしろ。」


 小枝子は大きな鞄を田辺に投げつけるように手渡した。

 田辺が大きく目を開けてここまで驚いた顔を見せたのは初めてである。


「あ、あの。この方はどのた、ですか?」


 田辺が口ごもるとは、彼はかなり混乱しているようだ。


「藤枝の狸。」


 がんっと横腹に拳を入れられた。

 医者だけあって見事に痛みどころを狙った一撃である。

 本気で痛い。


「ちゃんと紹介しようか、一郎。」


「一郎?」


「そう。この馬鹿はウチの子になりたいってウチに入り浸っていたから、藤枝家ではこの馬鹿は一郎なの。一郎って呼ぶと泣いて家に帰っちゃうんだよね。」


 憎たらしい表情で俺に顔を向けたので、俺も同様の表情を作って小枝子を見返した。


「昔はね。」


 俺はさっさと靴を脱ぎ、家に上がりこんだ。

 藤枝が荷物を田辺に持たせたために俺のコートと杖を受け取って片す人がいなくなったと、俺は自分でコートをはたいてコート掛けに掛け、書斎に入り杖を所定の場所に片した。


 杖は黒革を貼った持ち手を天辺に装着して、銀色の地の全体に黒い蔦模様の浮き彫りの装飾が施されただけの唯の鉄の棒だ。

 足腰が悪いわけではない。

 これ見よがしの武器は銃刀法違反でお上に取り上げられてしまうのだから、杖に見立てて装飾しただけである。

 よって、ただの鉄の棒でしかないので、傘立てでは傘の水滴で錆びてしまうのだ。


 書斎のドアを開ける音に振り向くと、小枝子がニヤニヤと笑っていた。


「あ、偉いね。一郎君、ちゃんとお片づけできるんだ。」


「うるさいよ、小枝。お前は帰れよ。お前は女中じゃなくて医者だろう。」


「お医者さんだったのですか?この人。良かった。早く来て。」


 田辺は鞄を持ち替え、俺でなく小枝子の手を掴むや居間の方へと早足で駆けていった。

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