エレクトラは父を殺した母に復讐をする
レコードは静かに回転し、レコードが回転するたびに、音楽を奏でる代わりにレコード盤にぶつかった針の音だけが虚しく響く。
カス、カス、カス、カス、カス。
華江が見つめていると、レコードは再び音を取り戻した。
「華江、ウィスキーかジン、アルコール度数の高いものを持って来い。」
「何をなさるつもり?殺すならさっさと――。」
「うわあああ!」
華江は叫びながら居間に走り込み、レコードを掴み上げ、床に打ち付けて粉々になるようにして踏みつけた。
レコードは完全に粉々になり、ほっとした華江は顔を上げ、ここは自分一人がいた場所では無かったと気が付いた。
娘の為に呼んだ学友は、私学のそれなりの家柄の子供ばかりだ。
子供達に付き添って目の前にいる女達は、眼もあり耳もあり、そして、たった今華江が為した事を吹聴できる口を持っている。
家族と言うべき娘は本園家の召使い達の後ろに隠され、華江を庇うそぶりどころか、全員が全員、汚物を見るような目を彼女に向けていた。
「うわ、うああ、あああ!ち、違いますの!違いますの!ぜんぶ、全部!池谷がしたことで、わたくしは脅されて、そ、そう、わたわたくしが、お、夫を!」
人垣がほんの少し裂け、そこから彼女の娘が見えた。
娘は華江を嗤っていた。
その顔は、佐間介そっくりだった。
小さくて痩せっぽちで、醜くて大嫌いだった夫にそっくりだった。
ざまあみろ。
殺したはずの男が、華江に口だけ動かした。
これは悪い夢だ。
彼女は周囲を見回した。
同じ階級のはずの女達が、華江を見下げ果てた目で見つめ、互いに囁き合っているではないか。
「恐ろしい方。」
「一度落ちぶれたお家の方は怖いわね。」
華江は終わりだと思ったのか、ただ混乱しただけなのか。
叫び声をあげると、居間の外へと逃げ出した。
「これは夢よ!間違っているのよ!」
失敗してしまった世界から目を覚まそうと、彼女は走り、大声を上げ、さらに走り、叫び声をあげた。
「これは間違いよ!ああああ!ちがう!私の望んでいた事じゃない!」
明日からは私が生きていく場所が無くなった。
彼女は思い知らされているのだ。
「うああああああああああ。」
真っ黒のドレスを纏った女が廊下を泣き叫びながら走り去り、長谷はその姿を見送ると、屋敷の電話台へと歩いて行った。
「レコードに細工をしただけで、ああも華江が壊れるとはね。いや、竹ちゃんのラジオのお陰かな。」
そこで、長谷はくくっと自嘲した。
レコードプレーヤーの後ろに置いたラジオから流れた長谷の声が、華江を壊すきっかけでしかないと長谷は知っているのである。
警察に逮捕されるよりは首を括ることを選んだ池谷からの、愛する共犯者への最後の贈り物のチョコレートトリュフ。
「チョコレートは麻薬って、ふふ、本当だ。」
長谷は親友の復讐のために、華江に麻薬を仕込んでいたのである。
親友の娘は父親の親友である長谷を知っていた。
彼女は脅えながら、長谷に自分の内緒を囁いた。
「お母様と池谷がお父様を殺したの。」
前日まで優しく穏やかだった父親が、皮膚が爛れ、麻薬によって人語も喋られなくなった姿を目にしたならば、また、彼がそうなってしまう一部始終を、父親を出迎えようと潜んでいたクローゼットの中から全て見ていたとしたら。
「娘はいいねえ。やはり男は自分の子供だけを可愛がるものだ。さすれば、ギリシャ神話のエレクトラのように、愛人と共謀して父を殺した母に復讐さえ行うのだから。」
杏樹は長谷の指示通りに動いていた。
わが身を守るために、華江を罠に嵌めるために。
電話台に辿り着いた長谷は受話器を取り、長谷の戦友となった本園杏樹を、守り慈しむことが確実な相手に電話をかけた。
本園華江、離婚後に志津加華江に戻った女は、錯乱状態の所を召使たちに捕まえられて部屋に閉じ込められる事になる。
その保護された後は、親族の伝手によって病院に入院することになるだろう。
華江が二度と娑婆に出てくることはない。
華江の娘は父方の祖父である本園晃蔵が監護することになり、本園晃蔵は息子に譲り、息子の妻に奪われたとみられる財産を丸々取り返すことになるだろう。
電話のコール音を聞きながら、長谷は晃蔵は酷い奴だと呟いた。
華江は最初から最後まで、本園家の財産とは遠い所にいたのだ。
離婚時に本園家の全て財産は、華江に手渡されたのではなく、本園家の跡継ぎである杏樹の名義にされていたのである。
華江が娘を殺したくなるほどに、有能な財産管理人を付けた上で、だ。
あの老獪な男が、池谷や華江に財産を奪わせるはずなど無いのだ。
長谷は笑うしかない。
耳に当てた受話器から、ようやく低くてしゃがれた声が応答した。
「晃蔵さん。お孫様があなたを必要としております。どうぞ、今すぐに、弁護士も連れて、こちらにいらしてください。」
「ありがとう。君には感謝しか無いよ。」
長谷は受話器を置き、ポケットに手を突っ込んだ。
指先がふわふわの毛玉に触り、彼はその手をポケットから慌てて引き出すと、大きく溜息を吐きながら長い指先を目元に当てた。
「にゃあ。」
「にゃあ、じゃないよ。モグリは。」
長谷はポケットから小さすぎる仔猫を引き出して、このまま本園家に放してしまおうかと考えたが、自分を見つめる困った顔付の目元が、佐間介に似ている、と思ってしまった。
彼ははあっと溜息を吐くと、再びポケットに仔猫を片付けた。
「千代子が俺のコートにモグリを入れたな。パパが早く帰ってくるようにって、全く。ああ、日曜日も拘束される事になるぐらいだったら、幽霊のパパでいた方が楽だったかな。」
そこで長谷はくすりと幸せそうに笑った。
「ああ面倒くさい。」




