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お代は猫でお願いします  作者: 蔵前
一 妻を取り戻すためのお題あり
7/71

藤枝家の小枝子

 帰国後の俺は指も少ない傷だらけの為、俺の姿を見た者によって、化け物と影で罵る声も何度も聞いている。

 子供など俺の前から怯えて逃げるのだ。


 そして、俺の責める言葉に彼女は反論しないばかりか、断腸の思いのような悲痛な大泣きを始めてしまい、その声に俺はようやく頭が冴えて、十代の頃でないもうすぐ三十代になる今の俺自身に戻ったのだった。


「ごめん。小枝、俺が、ええと悪かった。」


「一郎君、ちょっと。」


 聞き慣れた声が掛かったと振り向くと、條之助が襖から顔と右手だけ出しておいでおいでをしていた。

 俺は一瞬で幼い子供に戻り、第二の父の所に素直に向かった。

 彼は小柄で細身で妖怪のぬらりひょんの絵のような外見ながら、他所の子でも叱る怖い親父なのだ。


 俺が客間の外の廊下に出ると、條之助がすっと襖を閉じて微笑みを浮かべたまま俺を彼の書斎へと案内した。

 彼の書斎は明治の文豪の部屋のような設えである。

 俺は幼い頃と同じく彼の書物机の前に正座をして、彼の叱責を待った。


「御免。全部僕の責任だね。足を崩していいよ。」


 俺は想定外の物言いに眉根を寄せながら素直に足を崩した。

 正座は嫌いだ。

 藤枝は部屋の隅に行ってそこに置いてある茶道具箱を書き物机の側に持って来たが、その茶道具箱は彼特製の車輪が付いた小型の手押し車である。


 藤枝の茶の作法は独特で、彼の茶道具箱から茶器とその時の好みを取り出し、湯飲みに好みのものを注いだ後に火鉢の薬缶のお湯を注いで淹れるというものだ。

 彼が取り出した今日の好みの銘柄に憧れを持ちながらも、俺は彼からのお茶の振る舞いを辞退した。


「僕は車で来ていますので。ウィスキーのお湯割りはちょっと。」


「昔は僕のお酒を盗み呑んでいた癖に。」


 そうして彼は俺に昆布茶を淹れてくれた。彼の茶道具箱には数種類の酒瓶と、二日酔いに良いからという理由で昆布茶と梅干しか入っていない。


「それで、あなたのせいって?」


 お湯割のウィスキーをふうふうとお茶のように飲む妖怪は、遠い昔を見るように目を眇めて少々しょぼくれた。


「僕はどうしてもあの売春をしていた子達が受け入れられなくてね、一人だけ嫁に貰うことを辞退したの。甥か遠縁の家に嫁がせるには一寸ねぇ。代わりに勉強したい子には無償で学校に通わせてあげるって条件でね。ゴメンね。小枝子と君が相思相愛だったなんて気づかなかったよ。ただの仲の良い兄妹にしか見えなかったからね。」


 弟の嫁だった美佐子は、後援会の間島の息子に貢ぐために売春をしていた過去があった。

 数人で競うように金銭を稼ぎ、そしてその為に幼い少女を殺していたと先日断罪されたのだ。

 人知れず、だが。


「その時は相思相愛だと僕も思っていませんでしたからね。」


 條之助はふぅっと溜息をついた。


「すべては遅過ぎたって事だよね。僕は学校を経営していても娘の気持ちに気がつかず、あの子は今でも一人だ。君が帰国した時はね、勉強が大変な時でもあったからね。それでもあの子に君の帰国を教えていれば、君達は違っていたかね。」


「僕の帰国を知らなかったのですか?」


「うん。あの子、医者になりたいって見合いも何も断っていたから、僕は教えなかったの。見合い話が勉強の邪魔だって、医者になるまで家に帰らないって本当に帰って来なかったからね。結婚する気もないのに君の怪我で医者になることを諦めて結婚を決意したら、君もあの子も不幸でしょって僕は考えちゃって。でも小枝子が君を待っていたと知っていたらね、馬鹿な親だよね。」


 俺はぐいっと昆布茶を飲みきり、湯飲みを條之助に差し出した。


「一杯だけ下さい。」


 條之助がふっと微笑んだその時、タンっと襖が開いた。


「お前は車だろう!」

「え?」


 そこには俺の初恋だった小枝子が、決意の表情で仁王立ちしていたのだ。


「あたしが一郎の家の住み込み女中をしてやるよ。医師免許持ちだ!一郎の鬼姑には文句がないだろう!」


 俺は小枝子のけなげさが、少し俺には無理だと感じ始めていた。

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