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お代は猫でお願いします  作者: 蔵前
最終章
67/71

彼をこれから仕込もうか?

 誠司を引き取りに診療所に出向いた時、伊藤はがっくりと肩を落として診察室のスツールに腰掛けていた。

 俺はその様子に高額の治療代の事かと考え、おどおどと尋ねた。


「手術代は相良に請求しろって言われていただろ。今すぐ必要なのか?」


 俺に顔を上げた彼は、ハイエナに足を齧られたキリンのような表情を浮かべた。


「どうしたの?」


「隊長、俺はこの年で、十以上も年下の女性、それも処女に襲われて喰われてしまいましたよ。」


「……そう。でもさ、やっちゃったのならば文句は言えないよね。」


 伊藤はサバンナが破壊されたキリンのような眼差しで、俺を見つめ返した。


「眼鏡を外すとあんなに色っぽい女に変わるなんて反則ですよ。処女の癖に白衣の下に何も着ないで男を誘惑するって、あれは生まれながらの魔物です。医者の腕前も見事ながら、家事全般も見事な夢の女でした。子供も生んで自分できちんと育てたいって。それで、入籍だけは昨日の午前中にいたしました。」


 襲われて不本意という割には、狸に化かされたキリンはかなり具体的にのろけていた。


「小枝子のお父さんはぬらりひょんだから、これから頑張ってね。」


「入籍ついでにご挨拶して、順番が逆になりましたが、ちゃんと花嫁衣裳を着せてやりたいと申しましたら、胴上げ万歳三唱の勢いでしたよ。」


「そう。それなら凄くおめでとう。」


 そういうことで、つまり、田辺は小枝子に振られてしまったのである。

 ここまで目論んでいたとしたら、田辺は本当に恐ろしい男だ。

 その恐ろしい男が台所で立ち働いている気配を背に、眠る青年の側に近付いた。

 誠司は我が家に戻ってからは愛猫を抱けるとニコニコ笑うだけだが、本当は術後の傷がかなり痛むはずなのだ。


「痛い癖に我慢ばっかりして。どうして痛み止めも飲みたがらないのかね。」


 呟きながら捲れた布団を掛けなおしてやった。

 その時にアメリが布団から転がってしまったが、彼女は俺を睨んだだけで誠司の肩口に行きそこで丸まった。

 リリカは反対側で誠司の肩を枕に誠司と反対向きで人間のように体を伸ばして仰向けで眠っている。

 リリカのベージュ色の柔らかそうな腹毛を触りたい欲望を抑えながら台所に戻ると、田辺が俺の為に茶を入れてくれていた。

 茶請けに出された金平が、何時もより上品な色合いである。


「どうぞ。」


「すまないね。あいつの寝顔は全くの子供だよねぇ。誠司は夜中に泣かなかったのかな。」


「泣く仲間をあやしていたのでは泣けないですね。あの子は自分が泣かない為に仲間をあやしていたのでしょうけどね。」


「それじゃあ、これから泣かしてやって。普通に眠れるように、君が仕込んでやって。」


「俺は梶にした事を後悔していない自分が怖いですよ。あの純朴なだけの男は狡猾な男に、何でもできる人間に変ったというのに、俺は罪悪感など微塵も感じていない。誠司を兵士に仕込むのは簡単ですが、彼は変わってしまいませんか?」


「眠剤を飲ませ続けるよりも体にいい。」


「気付いてました?」


「本人は気付いていないけどね。我が家に来てから君はずっとあの子に飲ませているよね。あの子の目元が疲れた老人のようなのは、あの子が安心して眠れないからだって、君もわかっているからでしょう?」


 田辺は俺の向いに座り、自分にも茶を注いだ。

 向かい合った俺達は互いに黙り込み、痛みで朦朧とする誠司が幼子のように助けを呼ぶ悲鳴を恐らく二人とも思い出していたのだ。


 孤児であるために誰にも守られず、嬲られていた時代の記憶の悲鳴だ。

 それは、殺される者があげる、最期の時の悲鳴だったのだ。


「誠司は母親に助けを求めなかったね。」


「父さんって叫ぶのですからね。母さんではなく。彼はいもしない父親にしか助けを求められない人生だったのかって、哀れでね。」


 俺はディナーショーでの誠司の顔を思い出していた。

 尊敬するのは父と答えた時の誠司は、傷ついて寂しそうな子供そのものの表情で、俺どころか、彼を見守っていたあの十数人の婦人会の面々が涙を零して溜息を吐いていたほどなのだ。

 抱きしめてあげたくなるほどの、幼い少年がそこにいた。


「それで君は誠司に凄く優しいの?」


「隊長だって可愛がっているでしょう。」


「可愛いからね。場数を踏んでいる猛者なのにね、純で可愛いんだよ。長谷が誠司を可愛がるのもわかるよ。」


 田辺は静かな笑い声を上げた。


「祥子に土下座して、仕事が決まるまでどうぞ我慢してくださいってね。」


 俺も含み笑いをした。

 長谷は首になるかもと思ったが、停職中のままである。

 無給の無期停職の処分を受けておいて、スパっと彼が警察を辞めないのも不思議な話だ。

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