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お代は猫でお願いします  作者: 蔵前
十三 幸運の男
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パラノイアの隠れ家

 電話を切った田辺は居間にいる伊藤に声をかけようと居間の襖に手をかけて、それから大きく息を吐き出した。

 電話の内容も溜息が出るものだが、伊藤の居間での振舞いにはそれ以上に残念な気持ちで一杯なのだ。


 伊藤は居間にいる矢野の状態を心配して何度も往診に来るのだと思っていたが、実は猫目当てであった。


 四十一歳の独身の医者である彼は、猫を無理矢理抱こうとして何度も手を引っかかれては喜んでおり、今も必死に猫の機嫌を取ろうと猫の玩具を振り回していたのである。


「矢野ちゃんを隊長の部屋に運ぶよ。猫も一緒にね。」


 しかし、田辺が言葉をかけるや、伊藤は昔の熟練兵時代の顔を取り戻した。

 彼は軍医の癖に上を怒らせて前線に流された男だ。

 田辺が聞いた所によると、上官の急性盲腸を切ったのは良いが、麻酔が途中で切れたのだそうだ。


 優秀な彼は叫び声をあげた上官を殴って一瞬で気絶させ、その間に神業に近い速さで縫合したのだという。


 賞賛されるべき行動であるが、上官の麻酔を切らした事が罪であり、その上官が痛みによって引き起こされた叫びを下々に聞かせる羽目になって恥を掻いたのは、全て伊藤の失態なのだと云う事だ。


 その上官は安全な所にしかいなかったから知らなかったのだろう。

 どんな猛者でも、死ぬ時は「お母さん。」と叫ぶ、と。


 妻や子供がいても関係ない。

 殺される時には誰しも、恐怖によって精神が幼児にまで退行してしまうのだ。

 だからこその、その叫びとなるのである。


 それだけ恐怖は人の精神を変えてしまうのだ。


 誰よりも臆病で恐怖心の高い梶は、教え込んだ安全確認と安全確保というルールを遵守するので、先鋒として使える素晴らしい戦士になったと、田辺は過去を苦い気持ちで回顧した。

 当時は生き残るためであっても、人を作り変える事の罪深さは言うに及ばず、しかしながら後悔の念の湧かない自分自身が空恐ろしいという苦さである。


「何かあるの?」


 布団の中で矢野が眉根を顰めた。

 自分の責任だと思っているのかと、田辺はその青年の責任感の強さに溜息をつくしかない。

 矢野はなんと傲慢なのだろうかと、全ての出来事が自分の責任だと思い込むのは神様だけで十分だ、と。


「これは梶の問題です。矢野ちゃんは巻き込まれただけ。さぁ、動かすから君は猫を抱いて横になって。布団ごと動かすから落ちないようにね。廉ちゃん、いいかな。せいよっでいくよ。」


「いいよ。いち、にで、乗せよう。」


 田辺と伊藤は一瞬見つめあい、布団の青年は猫を抱きしめたまま笑いに打ち震えている。

 しかし、長年の付き合いが勝ったか、彼らは別々の掛声を掛けながら上手にタイミングを合わせた。


「せいよ。」

「いち、に。」


 田辺が持って来た担架に、矢野は布団ごと無事に乗せ上げられた。

 矢野は子供みたいな声をあげ、猫を抱いたままクスクスと笑い続けている。


「どうしたの。そんなにおかしかった?」


「違う。幼い頃に親父に座布団ごと持ち上げられたなって、思い出しちゃって。」


 伊藤がしゃがみ込み、彼は顔を両手で覆ってしまった。

 田辺は伊藤の性質の一つを思い出して、こんな時にと大きく溜息をついた。

 田辺も竹ノ塚が長谷から聞いたという、矢野の過去を聞いている。


 父親の戦死の報を聞いて、彼の目の前で母親が弟を道連れに橋から身を投げて死んだというものだ。

 その不幸が矢野の誕生日の出来事だったとはと、長谷の嘘であったならば長谷を殺そうと決意した程の衝撃であった。


「可哀相はあとで。廉ちゃんも隊長の部屋に一緒に篭ってて。俺がひと当てふた当てして、無理そうなら退却指示するから頼んだね。」


 伊藤は頷き、田辺の掛け声と共に担架の端を持ち上げた。


「この家を建てたときはパラノイアだと心配したものだけど、先見の明がやっぱりあったのかね。」


「廉ちゃん安心して。立派なただのパラノイアですよ。」


「ねぇ、何それ。竹ちゃんはこの家に何かしているの?暖房がついていなくてもこの家中が暖かいのは、もしかして竹ちゃんの技?」


 担架の上の矢野は興味津々の顔を二人に向けた。


「まぁ、廉ちゃんとゆっくりお喋りしてればわかりますよ。居間と台所の床の下は確かに床暖房って隊長が設計した温水を廻らす装置を埋め込んでありますね。」


「畳に布団が懐かしいから寝心地が良いのかと思っていたけれど、竹ちゃんってば凄過ぎ。」


 その床暖房もガスを焚いている時だけで、今回の矢野の看病のために四六時中稼働しているだけだと、田辺は矢野に言ってやりたい気持ちになった。

 来月のガス代を考えるだけで眩暈がするのだ。


 居間と廊下を挟んで作ってあるコンクリート作りの竹ノ塚の自室に矢野を運び入れると、田辺一人だけ部屋から出て行き、伊藤は鉄が入っているという扉を閉めて鍵をかけた。


「凄い重厚だけれど、火を放たれたり囲まれ続けたら篭城は不可能でしょ。逆に重厚過ぎて逃げ場がないよね。」


 愚連隊の頭領であっただけあって、彼は逃走や戦闘についていつも考えているのだと、伊藤はほくそ笑んだ。

 あの田辺が可愛がるわけだと。

 扉の前から伊藤は移動して、部屋の隅、ベッドをずらしてから南側の端となる部分の絨毯を捲った。


「え、床下に出られるの?本当に竹ちゃんてばパラノイア。凄く好きだよ。」


「この床下が三ヶ月は篭城できる防空壕であり、地下通路を渡って外に出られる秘密の部屋でもあるの。彼は広島の原爆の話に怯えてね。家を建てるときに作っちゃったのよ。」


 その伊藤の説明に、矢野は感嘆するどころか寂しそうな顔をした。

 彼に抱かれた猫達は、そんな飼い主の表情も知らずに腕から飛び出て、室内を探索し始めている。

 伊藤は絨毯を元に戻すと矢野に微笑んだ。


「君が心配しているのは、竹ちゃんが一人だけで生き残るつもりかって事でしょう。防空壕は数人は大丈夫だよ。そのために外と繋ぐ通路もあるの。俺が逃げ込めるでしょう。それに天井を見て、あそこは田辺ちゃんの部屋の押入れと繋がっている。彼はあそこからこの部屋に飛び込んで、そして、竹ちゃんと下に逃げるんだよ。」


 ようやく矢野は笑い出した。

 それも腹を抱えて。


「完璧なんだね。本気で凄いパラノイアだ。」

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