異常事態は発生していた
俺と長谷は梶の事務所を飛び出すと、法定速度ぎりぎりのスピードを出して相良邸へと向かった。
梶の自宅兼事務所は新宿であったので、渋谷に入り大山街道、現在では東京沼津線に車を入れる。
相良の家は俺の自宅を越えた先、世田谷の多摩川近くの山にあるのだ。
まず自宅へと車を走らせる中、長谷が梶の敵についての詳しい情報を今更だが語り始めた。
「やくざではないよ。烏合の衆。金と武器を渡されただけの日雇い人だよ。」
「なんだそれ。」
「仕事が無くなって食い詰めた人間は何でも出来るってやつだよ。前金を渡されて、依頼通りの仕事ができれば後金貰ってあとはお終い。失敗したところで刑務所でしょ。この寒い吹きっさらしで野宿するよりもいいじゃない。金さえあれば一般人でも誰でも簡単に集められて、恐怖の軍団を造れるものなの。」
「烏合の衆でどうして恐怖の軍団になれるの。」
「一人じゃ何も出来ない度胸のない人間は際限がないでしょ。ここまでやったらって知らないの。誠司を殴っていたお偉いさんと一緒。自分が殴られない場所を確保した上じゃないと人に暴力を振るえない。そして、仕返しが怖いからと徹底的に相手を壊すんだ。」
長谷が品のいい鼻の付け根に醜い皺を寄せて語る様から、俺はそいつへの復讐を長谷は用意しているはずだと信じて相槌だけで済ませた。
「そうか。」
「竹ちゃん、止めて。此処から走った方が車よりも速い。」
俺は見慣れた風景になった町並みを眺め、長谷の言う通りだとすぐさま車を停車させた。
「脚は大丈夫か?走れるか?」
「自分で撃ち抜いておいて、聞くか?それ。」
「杖を持っていくか?」
車を降りかけた長谷は、物凄く嫌そうな顔で俺に振り向いた。
「そんな重い物を持って走れるか。ふざけるな。」
そう俺に言い返すや、そのまま脇目も振らずに彼は俺の自宅方向へと一直線に駆けて行った。
風に煽られた長いコートの裾が大きくはためき翻り、まるで黒い羽根の羽ばたきのようでもある。
「うそつき。実は全然びっこもひかずに走れたのか。あの野郎。」
俺は長谷を見送ると再びエンジンをふかし、車を相良の家に向けた。
それから一心不乱に運転して、十数分後には見慣れた相良の私道に乗り入れたが、数十メートル先のゲートは見慣れない光景が展開していた。
二台のパトカーに救急車。
遅かったか。
俺は車を止めると飛び降りた。
「何かあったのか。」
ゲート脇の詰め所の人混みを掻き分けると、数人の見覚えのある警備員が一斉に俺に振り向き、そして、一斉に俺から目を逸らした。
「一体どうした?」
いつもは朗らかな警備員が俺に対してした振る舞いに、俺が一体何事かと呆然とする中、自分を呼びかける聞き慣れた声が上がった。
「兄さん!やっぱり来ていた。」
「幸次郎、どうした?何かあったのか。」
ツイードのジャケット姿の学者風の若き都議は、俺への返答代わりに肩を軽く竦ませただけで、屋敷の方へと俺に顎をしゃくって見せた。
「付いて来て。道々話すよ。」
俺は相良邸を自宅のように案内する弟に、何か釈然としない気持ちがわきあがったが、取りあえず黙って彼の後ろを付いて行くことにした。
しばらく歩いて、幸次郎が相良の屋敷の方向ではなく、更紗が実験場にしている北側の庭に向かっているようだと気がついた。
「幸次郎、俺はこの先に行きたくない気持ちで一杯だよ。」
「どうしたの?兄さん。」
笑いを含んだ声で尋ね返す弟に、俺の心は少し軽くなった。
俺の想像と違うのかもしれないと、微かな希望が湧いたのだ。
「更紗の罠で誰かが大怪我したのではないよね。」
幸次郎は子供のように膝を折っての大笑いをはじめ、彼の振る舞いに俺の心が完全に不安から解放された。
一瞬だけね。
彼は笑いを収めると、直ぐに俺に止めを刺したからだ。
「兄さん大当たり。侵入者二人がミンチになりかけ。」
「二人も、か。」
俺は梶と誰だろうと考えながら、幸次郎の後を重い足取りで付いて行くしかなかった




