実験場へ
私は昔に自分が作った完璧だった池を覗く。
完璧の池とは、水草と小魚と川海老だけで完成された人間の手で作ることのできる生物生育環境だ。
池の話を聞いた幸次郎は完璧なビオトープだと私を褒めちぎり、最近は父とビオトープを念頭に入れた都市開発について延々と語り合っている。
しかし父は純粋な植物学者でしかなく、割合と適当な人間だ。
誘拐されて監禁されていた時代に育てていた巨大な出目金を、私が作り上げた完璧の池にドボンと入れてしまったくらいだ。
池のバランスは崩れたが、四年以上生きた巨大金魚は、ちょっとの環境変化ぐらいでは死なない。
私の池は只の金魚鉢となり、池の中ではメダカも川海老も食べ尽くした黒い巨大な出目金が水草のなかを冬眠もせずに悠々と泳いでいた。
「更紗ちゃん、そこに何かいるの?」
私に声をかけたのは、恭一郎の家から相良の家に一緒に連れて来られた小枝子であり、彼女は私の後ろで微笑んでいた。
トレンチコートを羽織っており、ズボンの足がコートから出ている。
サングラス着用の上に髪をすっぽりとスカーフで包んでいるところから、彼女が車の運転の練習をしていたのだとわかった。
「金魚です。不細工なだけの巨大金魚。パパの心の友なの。」
小枝子はくすくすと笑いながら池の中を覗き込み、ひゅうと口笛を吹いた。
その「女だてら」の小枝子の振る舞いを耀子は大いに気に入り、無職になったという彼女の職場を斡旋した。
相良財団が出資している、医療法人による総合病院の職である。
しかし小枝子は辞退した。
私はぶしつけだと思いながらも、小枝子に質問をぶつけていた。
「どうして小枝子さんはそこのお医者にならなかったの?」
彼女は私に微笑んだ。
「結婚をして子供を産み育てたいからよ。勤めてすぐに子供が出来ました、じゃあ駄目でしょう。再就職は子供を産んでからね。私が働くから、家の事を全部やってくれる男性がいいわね。あるいは一緒に働きながら協力し合って生活できる人。」
「あるいは女中を雇える人?」
「それは嫌。子供は人に任せたく無いの。」
「でも、お医者さんを続けるのでしょう?」
「ええ!だから運転を教わっているのよ!車で往診して回るお医者さんだったら、赤ちゃんと一緒にいられるでしょ。」
希望を話している割には少し寂しそうな大人の女性の表情で、それはとても深みがあって美しく見えた。
そしてその表情は、耀子にも出来る。
私は出来るのだろうか。
反射的に池の水面の自分の影を見つめた。
歪んでカエルみたいな笑顔の私が見返素だけで、私はチっと舌打ちをした。
気分転換をするか。
「そろそろ部屋に戻らない?」
「いえ、気分転換のお遊びをしてからです。では、あとで。」
私は中庭から北の庭の方へと歩き出した。
北側は日陰が多く暗くて寒いことで確実に訪れる人が少なく、人が来ないので私の実験場になっている。
後ろでさくさくと足音がするなと振り向くと、小枝子だった。
彼女は興味深そうについてきていた。
うなぎの罠の回収に向かう幼い私の後を付いて来た、あの日の恭一郎のようである。
私は懐かしさで嬉しくなり、あの時に恭一郎にしたようにして彼女に尋ねた。
「私が何をするか見たいの?」
ところが小枝子は少しぶるっとしてから、大人の表情で私の期待はずれの事を返した。
「寒くて足がすべる所に、妊婦を一人で行かせたくないだけよ。」
ああ、恭一郎に逢いたい。
私は小枝子を気にしないようにして、自分の実験場へと進むことにした。
相良邸は都内の外れ、昔は都内でもなかった所に建っている。
最近は開発されてきてはいるが、まだまだ「山」と言った方が早い近隣環境なのである。
早い話が耀子が山を一つ買って、そこに家を建てただけだ。
そして私がこの家に骨の髄まで馴染むのは、私が山育ちなのだから当たり前だとも言える。
私は山の中を友人と毎日駆け巡って遊び、友人を失った後は恭一郎が一緒に駆けてくれた。
私のお腹の子も、きっと私と山野を駆けてくれることだろう。
「ここは本当に広い敷地よね。塀ではなくて相良邸への道に私有地の門と警備員が立っているのだもの。そこを抜けると森の中に豪奢なお屋敷が現れるって、非現実的よね。」
「ママは私と誠ちゃんをこの家に住まわせてすぐの時、私達をヘンゼルとグレーテルって呼びかけて揶揄って喜んでいたわよ。魔女に逆らったら食べちゃうわよって。」
軽い笑い声を響かせる小枝子を連れて、木立が立ち並ぶちょっとしたスペースに突き当たった。
此処は、誘拐されていた私が相良の家に戻ってきてから作り込んで来た、実験場なのだ。




