馬鹿な子ほどかわいい
目の前の大柄な男は、早朝なのに風呂上りで寝巻き姿だ。
そしてそれだけではなく、膝には黒毛、頭には銀色の猫を纏って旨そうに飯を食べている。
頭に乗っている猫は男の肩に後ろ足を掛けて、彼の頭を抱えるように上半身を乗せてだらけているのだ。
俺はその姿に少しどころかかなりの嫉妬を抱いていた。
あの猫達は俺には絶対にそんな事をしない。
俺の視線に気づいた誠司はニヤッと笑った。
「良いでしょう。この子達。」
俺の代わりに頭のヤツと膝のヤツが「にゃあ。」と同時に返事をした。
チクショウ、ああ、羨ましいよ!
「でも、ごめんね。一昨日の大騒ぎで玄関は修理だし、結局更紗はその日の内に相良の家に連れ戻されちゃったのでしょう。せっかくの夫婦水入らずの機会だったのに。」
警察と一緒に現れた相良が、そのまま小枝子共々更紗を相良邸に連れ去ったのである。
あの日の相良は書斎の猫を見て暫し固まり、大きな溜息をついて呟いた。
「馬鹿な子ほど可愛いって、本当ね。」
泣いているのかもしれない彼女の背に声をかけた。
彼らの到着の直ぐ後に、長谷から誠司の迎えの要請があったのだ。
「我が家を襲撃した刑事と引き換えで誠司は解放されるそうです。警察には俺が行きます。そしてしばらくは彼を俺が引き受けますよ。また襲撃があったら大変ですからね。」
彼女は振り返り、幼子を守る母親の怖い目で俺を射抜いた。
「ここは危険ではなくて?」
「俺達には対処できます。そうでしょう。」
相良に戻る車を見送った後、我が家の襲撃犯を連れて行く警察車両の後ろを追う形で、俺と田辺は誠司の留置されている署に向かった。
辿り着いた警察署前は、誠司のファンどころかマスコミの姿も見えず閑散としたもので驚いたが、誠司の状態をマスコミの写真に撮られまいと警察が追い払ったのだと後に聞いた。
確かに、それだけ誠司の状態が酷かったのである。
尋問室に座っている誠司は青い顔でぐったりしており、俺達に顔を上げる力も残っていなかった。
暴行による嘔吐と尿漏れで上質のスーツは濡れて異臭を放っていた。
田辺は大きく舌打をすると、誠司の濡れた服を剥いで持って来た毛布で彼の体を手早く包み、俺は彼を抱き上げて駐車場まで運んだ。
その後はまっすぐに、伊藤の診療所に向かった。
彼ほど信頼できる医師はいない。
伊藤医師は、誠司の体を診察し大きく唸り、真っ青になった彼の足には大きな舌打ちをしながらも丁寧な手つきで処置をしてくれた。
レントゲンでは骨折しているところはなかった。
「レントゲンじゃあ、内臓の傷は見えなからね。触診では大丈夫そうなんだけど、それでもこの殴られ方じゃあ、血尿はしばらくあるね。腎臓のダメージが怖いよ。後、脚は起き上がれるようになっても俺がいいと言うまで立たせないで。何かあったら呼んで。それから三日後には、いや、毎日診察したいから入院させて。」
「駄目、……竹ちゃん家に帰り……たい。」
診察台の若者は、殆どうわ言のような途切れ途切れの囁き声を出して抵抗した。
「でも、君は酷い有様なんだよ。」
誠司は俺に幼い子供の目を向けた。
二つ年下の弟でさえそんな目で俺を見たことはなかったという、「お兄ちゃん、お願い。」という目だ。
俺は思わず誠司の頭を撫でていた。
「いいよ、連れて帰る。離れ離れだった子供を今日ようやく抱けるのだものね。」
「ありが……とう。竹ちゃん。」
なんと誠司は俺の手を感謝を込めて掴んだだけじゃなく、うううと泣き出してしまったではないか。
その様子に伊藤は心が震えた様子だった。
田辺は診察室のスツールに腰掛けて、きっと誠司の有様に無言で怒っているのか怖い地蔵状態だ。
「こんなに若いのに。そんな子供がいる身の上だったのか。」
「ああ、凄くかわいい猫なんだよ。それも二匹。」
俺が誠司の代りに答えると、キリンのような顔をした伊藤はキリンのような目に見るからに呆れた色をけぶらせて俺を見返した。
「連れて帰れ。」
よって誠司は我が家に連れ帰られ、我が家の居間で寝起きして、俺達に介助されながら完治まで療養することになったのだ。
そして連れて帰ったはいいが、その翌日である昨日は一日中二十代の若造である彼が、何も食べられず寝たきりであった。
伊藤は誠司に纏わりつく二匹の猫を見て「仕方がないね。」と呟いて、朝、昼、晩と何度も往診してくれたが、彼が帰った後には居間には見覚えのない小さなボールや起き上がりこぶしが転がっていた。
そんな誠司が今朝になって起き上がって、「ご飯食べたい。」「お風呂に入りたい。」と騒ぐとは思わなかった。
さすが子供の回復力である。
風呂は俺と田辺の二人係で入れて洗ってやったが、黒ずんだ痣が上半身一面にある事で、俺達の殺意が拷問官へ湧いたのは言うまでも無い。
「世の中は狂っていますね。猫が欲しいからと雇い主を罠に嵌めて、猫を身代金代わりにするために人間を誘拐しようとするのですからね。」
主犯は展示会のための臨時採用の売り子であり、彼女は女優志望でもあった。
女優が無理ならと誠司を誘惑するつもりであったのだが、全く誠司に見向きもされなかったことから、彼女は誠司への復讐心だけを燃やしたのだ。
そこで彼女は誠司の書類鞄を勝手に漁り、書類束に紛れていた不思議な子猫の写真を盗んで知り合いに見せた。
すると映画界の重鎮に物凄い猫好きがおり、その男に珍しい猫を差し出せば役が貰えると唆されたのだそうだ。
誠司から猫を引き離すためと復讐のために彼の逮捕を画策し、展示物に麻薬を仕込んだのも彼女である。
彼女は一匹を貢物に、もう一匹を転売して儲けようとも考えていた。
また、その麻薬を押収物から盗んで手渡した男は、誠司に玩ばれた恋人のためと思い込まされて、誠司への嫌がらせの冤罪逮捕を実行したのだ。
彼女が倒されたと転んだ事が演技であり罠であり、誰にも優しく盾になろうとする誠司が確実に嵌るものであった。




