職業婦人と無職の私
誠司が外国で犬を購入していたとは知らなかった。
恭一郎達が検疫所から電話を受けて飛び出したので、私達女性陣は適当に摘みながら料理を作っていた。
台所仕事はそれほど好きでは無かったが、友達と笑いながら作業するのであれば楽しいものであると知った。
「更紗ちゃんは包丁の使い方がとにかく旨いわね。外科医を目指してみたら。今は大学の試験を受けれる資格を取れば、医学専門学校からでなく直接大学に行けるのよ。」
「うーん。座って勉強するのも先生の話をじっとして聞くのも嫌いですからいいかな。それに私は喰う為に捌くのでなければ皮を剥いだりは面倒臭いから嫌です。」
トン、べちょと、小枝子が豆腐を床に落とした。
「あ。」
小枝子は大きく息を吐くと豆腐を拾い、ざるに載せて流しに置いた。
「大丈夫ですよ。落ちたくらい。全然平気。洗って白和えにしちゃいましょう。」
しかし小枝子は軽く首を横に振り、豆腐を生ゴミにした。
「小枝さんは誠司に似てますね。誠司もそうなの。それで私が作ったのが全部落としたものに見えてきたから絶対に台所に立つなって、酷いですよね。洗濯室もメイドに立入り禁止にされてしまうし。何もしないでって。酷いですよね。」
「ねぇ、あなたは相良の家で普段何をしているの?」
「庭を弄って遊んだり、父の大学の先生達の資料の絵を描いています。ちゃんと先生達はお金をくれますよ。」
なぜだか小枝子は凄くホッとした笑顔になった。
「凄い、お父様は植物学者よね。簡単でいいから何かひとつ私に書いてくれる?」
私は電話代の所に行ってメモ用紙を一枚破り、そこの鉛筆を一本持って台所に戻った。
小枝子は物凄く期待した目線を私に向けている。
職業婦人である彼女はきっと女性が社会進出するべきだと考えており、職のない私をきっと心配してくれていたのだろうと考え、私は彼女を安心させるべく最近請け負った仕事で描いたすぐに描けるものを描いて渡した。
しかし期待したほど小枝子には受けなかったようだ。
「コレは、何?」
「牛の寄生虫の一つですね。肝臓に張り付いて血を吸うヤツです。」
「いや、医者だから何かの寄生虫だって事はわかっていたけど、どうして、これ?」
「え?私の仕事ぶりを知りたいのかなって。それは大学に父に連れて行かれて、寄生虫学の先生に頼まれて様々な動物の寄生虫をその日にデッサンした中の一つです。その時のお礼がその寄生虫のために屠った牛の肉です。大きな大きな塊り肉。父にはよくやったと大変褒められましたよ。」
「――そう。それで、そろそろあの二人が戻ってくる頃かしらね。」
なぜか話題を変えてそわそわし始めた小枝子が、恭一郎の帰りについて口にした途端に電話が鳴った。
「さ、更紗ちゃんが出てくれる?旦那さんかもしれないでしょ。あたしがあとの台所仕事は全部やっておくから。ゆっくりお話しても大丈夫よ。」
「小枝さんって優しいのね。」
「さぁ羽織ものをして。」
優しい小枝子にストールを巻きつけられた私は彼女に殆ど追い出されるようにして台所を出され、そのままてくてくと電話台まで歩いて行って受話器を取ると、電話を掛けてきた相手は耀子であった。
心臓がどくんと大きく鼓動した。
「ママ、誠ちゃんに何かあったの?」
「わからないけれど、弁護士の話ではあの子の解放は早くて明日の朝だそうよ。」
「それじゃあ、せっかく仔犬が検疫所から出れたのに、今日は抱く事が出来ないのね。」
私のこの言葉に、固い声を出していた彼女の声が柔らかく変化して応えた。
「犬?検疫所?外国で犬を買っちゃってたの?あの子は。」
「誠ちゃんはこの一ヶ月、お正月は勿論、仕事を抜け出して検疫所に犬の様子を見に出かけていたのですって。」
「お正月に帰って来なかったのは仔犬が心配だからって検疫所にいたからなのね。本当になんてお馬鹿さんな子供なのかしら。」
最後は涙声に聞こえ、私は慌てて耀子に言う必要のないことを言ってしまっていた。
「ママ、私はママの所に戻りましょうか?せめて誠ちゃんが戻るまでは。それともママがこちらに来て誠ちゃんの仔犬と遊ぶ?」
電話の向こうでクスクス笑いが起こり、ひとしきり笑うと耀子の少し元気になった声が受話器から聞こえた。
「いいのよ。今日はお試しでゆっくりね。ちゃんと体の事を考えるのよ。あなた達はどちらも何も考えられなくなるから。」
「はい、ママ。」
血の繋がりも無ければ、彼女は父の後妻でもない。
父の方が彼女の情け深さに彼女の家に居候させてもらっている身の上だ。
植物学者として優秀で、その特許で莫大な財産を積み上げている父でもあるが、社会性が殆んど無いのである。
私も同様だ。
彼女はそんな私の母代わりとなって、父が犯罪に巻き込まれて行方不明の時に自宅に保護してくれた大恩ある人なのだ。
だが、大恩だけではなく、私は彼女に「母」を感じている。
それで、私は彼女を結婚が決まった時から「ママ」と呼んでいるのだ。
そのママが私の体を想って言う事だ。
彼女の言葉は守らなければと、ぎゅっとストールをつかんだ。
「大丈夫。恭一郎の幼馴染でお医者様の小枝子さんもいるから。」
「え。幼馴染?さえこって、おんな?あいつは女を囲っているの?」
優しかった電話の声が一瞬にして、恭一郎に対してだけの、あのいつもの恐ろしい声音を纏い始めてしまった。
「やっぱり迎えに行きましょうか。」
「だ、だい、大丈夫です。ママ。」
その後数回押し問答を繰り返してようやく電話を切ると、外から車のエンジン音が聞こえた。
一瞬恭一郎だと思ったが、ガレージを空ける気配が無い。
玄関扉のすりガラスから透ける影は複数の男の影。
私達は襲撃されるようだ。




