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お代は猫でお願いします  作者: 蔵前
六 ささやかな幸せは無粋に破られるもの
22/71

恭一郎!

 久しぶりに夫の家に戻されたのは良いが、私は嬉しさよりも不安だけが自分に押し寄せてくるのを感じていた。

 お腹の中の悪魔が奏でる鼓動ぐらい、ドクドクと私の心臓まで早い鼓動を打ち続けているのだ。


 何しろ、私の大事な兄が逮捕されたのである。


 恭一郎の幼馴染という小柄で可愛らしい外見の小枝子が点けてくれたテレビのニュースによると、本庁の前には祭りのように誠司の無罪と早期解放を訴える女性達とマスコミの取材陣で溢れかえっているそうである。


 続きを知りたいがテレビ放送はすぐにぷつんと終了してしまい、私達は溜息をついて書斎から戻ってこない男共をそっちのけでお茶を始める事にした。


 気を紛らわすことが一番だという小枝子の提案である。

 私が相良家から持って来たレアチーズケーキに何度も視線を送っていたから、絶対にそれ狙いだろうと思ったが、私もお腹が空いていたので彼女の提案に乗る事にした。


 最近は悪阻よりも食欲の方が凄まじいのだ。

 苦味のある果物と、焼いただけの赤み肉を貪りたい。


「凄いわよね。あたしの病院に来る患者さんも、まるで映画俳優の話をするみたいに誠ちゃん、誠ちゃんと話をしてきてね。誠ちゃんの新しい写真が載っているって、週刊誌を入院患者に見せびらかされた時もあるの。確かにもの凄い格好良さよね。日本人離れした長い脚に彫の深い顔立ち。あんなに格好の良い男の人がいるなんて吃驚よ。」


 居間でチーズケーキを幸せそうに頬張りながら、小枝子が誠司を褒めちぎる。

 長い新婚旅行から東京に戻ってみると、誠司の写真が載ると売り上げが上がるからと週刊誌のカメラマン達が誠司に群がり、週刊誌は毎号で誠司の特集をしていたのだ。

 恭一郎の母までも誠司に夢中だと思い出して、私は思わず声をあげてしまった。


「えー。」


 確かに誠司は様になる。

 微笑んだ時の顔など最高だ。

 そして何よりも優しい。


「でも、恭一郎が一番格好いいです。恭一郎なんか涼やかな秀でた額に形の良い鼻や口元ですよ。少々痩せすぎですけどね、太っているより良いのでかまいません。とにかく、王子様みたいで素敵です。そうでしょう。」


 小枝子は私をまじまじと見つめ返し、そして聞き返した。


「あなたは出兵前の恭一郎に会ったことがあるの?」


「何を言っているのですか。会った事があるわけないじゃないですか。私は今の恭一郎にうっとりなのですから、昔はどうでもいいのです。」


「あなたは恭一郎に似ているわね。」


 ふふふっと笑い出した小枝子が私に顔を寄せて「秘密よ。」と口にした。


「あたしはね、初恋が恭一郎だったのよ。それで馬鹿みたいに彼の帰国や無事を祈って見合いを全部断って待っていたの。そして、戦死の報があった時は一生独身でいようと決意して医者になるために頑張ったの。」


 そこまで言って私の顔つきに彼女が気づいたか、続きがあるから心配しないで聞いてと、片手の手のひらを慌てた顔の前でぶんぶんと振った。

 それから私も真似できたらいいなと思うほどの色っぽい眼つきと大人の顔つきをすると、こっちが本当よと、告白をしてくれた。


「大吉さんて素敵よね。」


「ねずみ小僧か南方のやくざみたいですよ。」


 バシッと頭を叩かれた。

 初対面の相手に何をするのだと頭を押えながら見返したが、彼女は耀子のような大人の女の凄みを出して私を見返していた。


「いいから聞きなさい。黙ってね。」


「はい。」


「あたしはこの間っていっても、昨日なんだけどね、ようやく恭一郎を思い切れたの。それで思い切れたら、正月からずーと気になっていた男への気持ちを確かめたくなったのよ。竹ノ塚のお屋敷での正月挨拶でね、あたしを持て成した紋付袴の大吉さんが素敵でねぇ。あたしを応援してくれる?それであたしがここにお邪魔させてもらっていいかな?」


「駄目です。」


 勿論即答だ。

 小枝子は私をまじまじと見つめ返し、唖然という顔を作った。


「本当よ、恭一郎にはもう兄弟みたいな気持ちしかないって。」


「そうじゃなくて、この家から田辺さんがいなくなったら恭一郎が落ち込んじゃいますから、駄目です。田辺さんを誰にも渡せません。」


 居間の戸口で爆発したような大笑いが聞こえたと思ったら、恭一郎だった。

 彼は廊下に転がって、言葉通りごろごろと転がって笑い転げている。


「こら、一郎!立ち聞きしているなんて、この大馬鹿野郎!」


 真っ赤になった小枝子が恭一郎を座布団で叩き、その様が確かに誠司と私みたいだとぼんやりと確信した。

 恭一郎と小枝子に焼餅を焼かなくとも良いのだと。

 けれども誠司は私が一番だ。

 何かあったら必ず私の所に駆けつけるだろう事は確信できる。

 今は恋人がいないから?いるのに私の所に来るとしたら?


「やっぱり駄目!小枝子さん!恭一郎は私の!田辺さんをあげるから恭一郎は駄目です!」


 私は思わず転がったままの恭一郎の上半身を抱えて自分の方に引っ張った。

 私の膝の上に引っ張りあげられた夫は、一層子供のような馬鹿笑いを上げて私のお腹に顔をくっつけると、両腕で私の腰をぎゅっと抱きしめた。


 すると、私のお腹の中の大きな金魚がぼこんと音を立てた。


 一瞬で笑いを収めた恭一郎は、それこそ新しい世界に踏み入れた時のような顔で私の顔を見上げたのだ。

 そしてゆっくりと目尻を下げ口角を上げ、つまり喜びの表情になると擦れた深い良い声で私に囁いた。


「君の言うとおりに大きな金魚が泳いでいるね。海の細波のような鼓動も聞こえるよ。僕の海が此処に生きているんだね。」


 彼は私の膝に顔を埋めて、でも片耳はお腹の鼓動が聞こえるようにしっかりと押し付けて、静に泣き出してしまっていた。

 私はその姿に何時も以上の愛しさが沸き、彼の頭をゆっくりと撫でてその感触に幸せだけを感じていた。

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