赤い赤い過去の記憶
赤い提燈が灯り、女達の嬌声と酔っ払いの大騒ぎが一軒だけ残っている酒場で起きていた。
日本軍が徴用したもので、兵隊専門の酒場である。
長谷と田辺はちょうどその時その酒場のほんの数歩手前まで来ていたが、いつものように彼等が酒場に入ることは決してしなかった。
彼らは人の大勢集まる場所は必ず避け、それどころか地元の人間の出すものは口にしないようにしていたのである。
数ヶ月前に毒を仕込まれたか単なる痛んだものであったのか不明だが、同じ物を食べた十数人の兵隊が赤痢に近い症状となって死に掛けたばかりでもある。
「おじさん、あたしを買って。」
長谷に声をかけて来たのは晴れ着を着せられた少女であり、やせ細った娘は田辺の目から見て初潮も迎えていなさそうな年齢だった。
あかぎれでボロボロの手や晴れ着の隙間から見える垢塗れの首の細さに、田辺は哀れさしか感じなかった。
田辺の隣の情の深すぎる少尉は、哀れな少女の為に渡せるものはないかと制服を弄っている所で、田辺はそんな彼の腕をそっと止めて首を振ってみせた。
田辺を見返した若き純粋な美青年は、田辺の視線を受けて手は止めたが、何も施してやれない自分に悔しそうに唇を噛んだ。
彼らは犬猫ではないのだから、情けも哀れみもかけるべきでないのだ。
優しさは隙にもなる。
そこを突かれて戦死していった何人もの男達を田辺は見ているのである。
「客が欲しいなら、あそこの酒場に行ってみろ。」
田辺が流暢なその国の言葉で、ぶっきら棒に言い放ちながら酒場を指差すと、少女はくしゃっと泣きそうな表情に顔を歪めたが、すぐに彼らの前から身を翻してその店の所へと駆けて行った。
店の前には大柄の警備兵が立っており、少女はその男に田辺達へとは違う言葉をかけた。
「ハセって人はここにいる?」
警備兵は厭らしくニヤッと笑うと少女を酒場に押し込んで、中に向かって大声で叫んだ。
「ハセさん!ご指名ですよ!」
その数秒後に酒場から男のふざけた大声が響く。
「俺がハセだ!俺に何か用か!」
間髪入れずに、ずうんっと低い音が響き、辺りの地面を振動させた。
「死んだのは少女だけで、兵士は皆無事です。彼には少女の死が堪えたようでね、俺の顔を見るのも嫌になったかで、俺は彼に副官の任を解かれました。その後少尉とはあの日に銃殺されると聞くまで親交がありませんでしたからね、久々にお会いして驚きました。」
田辺は、はあっと息を吐き、うんざりした様にして言葉を続けた。
「はすっぱな顔つきの兵士の顔をなさっていました。俺は頼りないと思っていたあの頃の少尉のままでいられるようにしておくべきだったのですよ。兵士になんて鍛えようと考えずに、あの少女のような子供に会う度に金目の物を渡してしまうお坊ちゃまのままにね。ですけどね、俺もまさかあの娘が自爆するゲリラだったとは考え付きませんでした。あんな幼い子供がね、手榴弾を弾けさせられるとはね。」
「でも、その後の頼りない俺には、頼りないからと、ビシバシ鍛えたよね。俺にはお坊ちゃまのままにしてあげようとは思わなかった?」
「あなたはいくら鍛えても変わらないじゃないですか。あなたに俺がしたのは単なる躾です!全く!全然違いますって。長谷ちゃんの少尉時代を知ったら驚きますよ。清廉潔白で純朴すぎるほどのお方だったのですからね!」
俺も思い出した。
田辺は長谷の命乞いを俺にして、聞き届けなければ俺の副官を辞めるとまで言い切ったのだと。
「俺もあの日の君に物凄く驚いたよ。俺よりも大事な男が君にいると聞いてさ。」
田辺はぎゅっと両目を瞑り、正確に十五秒ほど数えるとパッと目を開けた。
「矢野ちゃんのこれからのことでも話しませんか?」
「俺が営倉入りしたら田辺がどうしていたのかを教えてくれたらね。」
勿論、俺を助けに動くはずだ。
司令官に銃を向けてでも、絶対に彼は俺を取り戻すに違いない。
聞くまでもないことだが、長谷を隊に迎えてからの長谷と田辺の親密さが俺の勘に障っていたのは確かで、今や二人は兄弟の仲なのだ。
俺は田辺に自分こそ大事だと言って欲しいという、甘えの様な悪戯心が芽生えただけである。
「ほっときますよ。」
俺は信じられない気持ちが溢れ出し、まじまじと田辺を見返すしか出来なくなった。
「ほっとくの?」
「当たり前です。そこから出てくるのも修行の一つです。」
俺は誠司も親父も長谷も何もかも良くなって、今すぐ新妻に甘えて彼女に慰めて欲しい気持ちが一杯に溢れ出した。
「もう良い。俺は妻と遊ぶ!誠司も放って置く!」
書斎を怒りながら出て行く俺の後ろで、田辺の鼻で笑う声が聞こえたがどうでも良い。




