長谷
「僕は普通の刑事さんですよ。」
「じゃあ、家賃くらい払いなさいよ。」
長谷は彫の深い目元を、悪戯そうにきゅっと細めた。
彼は田辺の妹と結婚してから、ウチの物件のひとつに勝手に住み着いた男でもある。
その部屋は、田辺が俺の結婚を機に俺の家を出て住む予定の部屋であった。
お陰で俺は田辺との同居を続行できるので、実は彼なりの俺への恩返しのような気もする。
だが、家賃を全く払わないのは駄目だろう。
「安月給の公務員に無理言わないで下さいよ。」
ニヤニヤ笑う本庁の捜査一課に籍を置く係長刑事の机には、書類の他になにやら参考書らしきものが載っていて乱雑としていた。
「昇進試験か?」
「そう、俺は今や一家の大黒柱ですからね。独身の男よりも信頼の足る人物となったからには、来期の昇進は当たり前のことでしょう。」
「君はそれで昔の女達を追い掛け回していたのか。」
俺の言葉により、長谷の部署の男達の哄笑がそこかしこで起こった。
「ひどい、竹ちゃん。」
長谷は席を立ちあがると、顎をしゃくり、俺を廊下の方へと誘いだした。
俺は長谷の後ろを歩きながら、彼が右足を少々引きずる歩き方が気に障った。
終戦間近の時に、長谷が右膝下に銃創を負っている事は重々承知だが、承知しているからこそ彼のその不便さが気に障るのである。
「寒いと足が痛むのか?いつもより大げさだ。」
「自分で撃ち抜いておいて言うか?それ。」
廊下の先には人が立ち入らないスペースがあり、彼が俺をいつも連れ出すそこには人が来ないのに長椅子が置いてある。
彼の部署にも来客用の応接セットが置いてあるが、彼は働き者だが普通の仕事をしていない働き者であるので、盗み聞きをされない人目を避けた所に俺を連れ込む必要があるのだ。
彼は椅子に座ると、俺にも座れと手で示し、俺が座ると天気の話をするように核心の話を始めた。
「梶が君の所にいるのだって?」
「昨日の今日でさすがに耳が早いな。それで、単刀直入だけどね、あの馬鹿が他人の品物から盗みを働いてしまって追われているそうだ。品は珈琲豆と小麦粉らしきもの。小麦粉らしきものは今日君に渡してしまっていいか?」
「いらないって言っても押し付けるのでしょう。いいよ、置いていって。」
俺はコートから紙袋を取り出すと、そっと長谷の方へと動かした。
彼をそれを何てことない仕草で受け取り、背広の内ポケットに納めると、長谷は長い指を持つ右手を額に当てて溜息をふうっと吐いた。
彼は色白で血管が透けるほどだ。
そんな彼の目は疲れているのか、目尻が泣いたように赤い。
「何かあったのか?正月に挨拶した時は家族全員楽しそうだったじゃないか。」
「今まさに竹ちゃんから面倒を押し付けられて疲れたんだよ。誠司から聞いて探っておいたけどね、梶の相手は外務省。どうするの?」
「どうして外務省が密売をしているというの。」
「外務省と言っても部署は色々在るでしょ。これはね、国内で捌く物ではなくて、例えばとあるA国からC国へ送る予定の物資を、二国間にあるB国、この場合日本だね、が見逃して移送させてあげるという国家間の約束事。A国はC国の植民地化が狙い。C国が発展する前に麻薬漬けにしたいそうだよ。」
「困ったな。」
「困ったよ。誠司が相良でプロジェクトやらをおっぱじめただろ。オリエント秘宝装飾展って奴。その展示物の一つから麻薬が見つかったようでね。ほら誠司君は唯今頻繁に東京国際空港の検疫所にお散歩に行っているでしょう。彼に麻薬の密売人として逮捕状が請求されるまでもうちょっとって所。」
「それは何かあったどころの話じゃないだろう。」
俺が驚いて長谷を見返すと、彼はゆっくりと顔を歪めた。
悪巧みの微笑だ。
彼は左手を持ち上げると、人差し指と親指でCのような形を作った。
「もうちょっとって言ったでしょう。まだ時間がある。外務省の悩み多き外交官のお一人と竹ちゃんは繋ぎが取れないかな。本園佐間介君。」
「フランス大使の彼かって。彼はフランスでしょう。」
「帰国中よ。体調を崩して療養中。フランスって誘惑が多いから身を持ち崩すって良くある事でしょう。君から貰ったお土産を見舞い品にどうかなって、ね。」
膨らんだ内ポケットを軽く叩いて、長谷は鼻で笑った。
「君は酷いな。」
俺は警察から自分の父親、参議院議員の重吾郎様に電話を掛けたが、俺が細かい説明をすることもなく本園佐間介への見舞いの訪問がこのままいつでも出来る事になった。
その早過ぎる手配に、俺は仕掛が動く音を否応無しに感じていた。
「これでいいかい?じゃあ、若き元大使様の下に君をお連れしましょうか。」
俺の声掛けに長谷は作り笑いを浮かべた。
その顔は楽園の人間を甘言で唆す蛇の顔だ。
2021/10/4 本條姓を本園に変更しました。
馬で本條という苗字の人物が登場することもあり、混乱を避ける為です。




