体は勝手に壊れるものだ
「ひっ。」
俺が怒鳴ったせいで梶は脅え、悲鳴を上げて縮こまった。
すると、そんな梶に優しく手を差し伸べた者がいた。
「さあ、手を出して。手当をするから。それからな、一郎の無神経な言葉なんか気にするな。体を壊したくて壊す奴なんてどこにもいない。」
「あ、ああの。」
「日本人は糖尿になりやすいんだ。仕方が無いよ。ついでに言えば戦中に酷い生活をしていた人ほど体を壊している。」
部下を怒鳴って脅しただけの俺と違い、梶に思いやりのある男前のセリフを俺の部下にかけてやったのは小枝子だった。
彼女は田辺が差し出した医療箱を受け取ると、一瞬だけ片眉をあげて見せたがその後は次々と道具を取り出して梶に次々と治療を施し始めた。
優秀な医者だと聞いていただけあって、彼女の手先には無駄がない。
裂けた皮膚を三針縫ったが、思い切りよく針を刺すので梶は痛いと暴れる隙も無かった。
「よし、終わり。で、凄い。どうして抗生物質まで普通の家の薬箱にあるの。縫い針だって滅菌処理してある使い捨ての奴だし。アメリカの軍のヤツ?初めて見たよ。」
小枝子に不穏なものを感じたか田辺はさっさと医療箱を片付け、ずいっと小枝子に顔をむけて真顔で礼を言ってごまかしていた。
怖い威圧感のある顔で、だ。
しかし小枝子は田辺に脅えるどころかニヤリと不敵に笑い返し、それから何事も無かったように梶に振り向くと抗生物質を一錠彼に握らせた。
「化膿しないようにこれを飲んで。何だかんだで、最初の医者が応急の処置はしていたから、大丈夫だろうけどね。」
「ありがとうございました。」
梶は女神を見るような目で小枝子を見つめ、そして両手まで合わせて深々と頭を下げての礼だ。
俺はこれで大丈夫だろうと居間から台所に行き、テーブルについた。
「ねぇ田辺、ご飯。杉並でコーヒーと昆布茶しか飲ませて貰えなかった。」
田辺は眉根を寄せて怖い顔のまま台所に来て俺に嫌味たらしく溜息をつくと、小鍋とヤカンを火に駆け出した。
味噌汁の鍋がことことと音を立てている。
「自分のご実家なのですから、たまには昼飯を食べてきてくださいよ。」
「食べたら帰れなくなるじゃない。正月帰れなくて大変だったでしょ。途中で逃げた君にはどうでもいいでしょうけど。」
相良家を追い出された俺は、田辺を連れて実家を突撃したのだ。
俺の両親は俺達の到来を喜び、そして小間使いの如く働かせた。
政治家の家は正月ともなれば近隣住民へのご挨拶やらなんやらと、正月休みなど無い忙しいものだと俺が忘れていたのが敗因だ。
賢く有能な田辺は数時間働いただけで俺を置いて消え去ろうとし、俺が行かないでと必死に田辺にしがみ付いた事も思い出した。
あっさりと払われて転がされたが。
「俺にも家族がありますからね。あなたより可愛い姪や甥がね。」
俺と一緒にシベリアから帰国した時には田辺の家族は行方不明で、妹の祥子の行方を田辺が突き止めた時には彼女は妊娠をしていた。
人前に出れない事情となったと身を隠していた彼女に田辺は仕送りを続け、彼女はそれを受けながら一人で娘の千代子を産んで育てていたのだ。
千代子は俺達の戦友で嘘吐きの、長谷貴洋の子供であった。
千代子の誘拐で祥子がようやく表に出て田辺は妹と姪を取り戻したが、彼は刑事をしている嘘吐き長谷を弟に、長谷の隠し子を甥として受け入れる破目にもなったのである。
「それでどうして梶が我が家にいるの?」
「矢野ちゃんが拾って来ちゃってね。相良さんが一緒でしょう。物凄い目つきで矢野ちゃんの後ろから睨んでいるから梶だけ受け取って説明も聞かずに返しちゃいましてね、すいません。」
「いや、いいよ。あの人誠司に関しては凄い執着だものね。誠司が正月に帰って来ない事を俺のせいにされて困ったよ。正月の俺は君と更紗の背中に隠れて怯える有様だったよね。」
相良は誠司を自宅に連れ戻したが、彼が家にいつかないことに腹を立てた。
そこで、相良警備会社の若手幹部達、さらには誠司の親友木下監査役をつけて、つまり、誠司が頭領を務めた元愚連隊白狼団の幹部団員達全員を、極寒の青森の鄙びた温泉宿に研修訓練旅行と追い払ってしまったのだ。
二十三歳の成人男性に、「あの子達と遊んじゃ駄目。」を実践するとは。
ダン。
俺の目の前に、たらこの甘い煮つけの器が乱暴に置かれた。
茶を嗜んでいる田辺のその乱暴な器の置き方に、俺はびくりと脅えた。




