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楽になった?

 夏のイベント。ペルセウス座流星群。

 夏の大三角。はくちょう座、こと座、わし座――デネブとベガとアルタイル。

 夏の有名な伝説、七夕の織姫と彦星様。


 熱中の熱気も冷めて、過ごしやすくなった頃だ。


『あそこらへんにある、こう、こう、こうやって、繋いでったらダブリューの形になるの。わかる?』


 質問に少女が頷くと、少年は「あれはね」と解説を続ける。

 高い木がまばらに乱立する林の中、拓けた場所に二人はいた。三ヶ月前にどこからか拾ってきた木製の長椅子は雨晒しにしているので、白いペンキがほとんど剥げているし、濡れては自然乾燥を繰り返して座面の端が軽く反り返ってしまっていて、脚も腐ってぐらぐらしている。けれど壊れたらその時はその時だと、大した問題にはしていなかった。子供二人は問題なくそこに並んで座り、夜空を眺めていた。

 少女は双眼鏡を、少年は使い古された手持ち望遠鏡を持っている。


 毎週木曜日の二十二時。

 二人は息苦しい家を夜ごと抜け出して、ここに来る。


 少年は星に詳しくて、己の知識を少女にも与えた。少女は少年の話を聞いて、ふんふんと頷きながら、遠い宇宙に関しての知識を頭に落とし込んでいった。

 膨大な宇宙のことだ。少年から教わる知識なんて砂粒ほどのものだろうと、少女は分かっていた。知識を得るよりも、少年の声を聞くのが楽しかった。


 何度か、場面が切り替わる。

 そのたびに二人は同じ場所にいたけれど、服装は違っていた。夏だったり、冬だったり、秋だったりした。二人はいつも楽しそうに空を見ていた。

 けれど、ある夏の夜。いつもなら心行くまで星を眺めてお話をして終わるはずなのに、この夜はいつもと違うことが起きた。双眼鏡を覗き込んでできた丸い視界の中に、すうっと白い筋が通っていったのだ。


『あれ……?』


 少女が双眼鏡を取る。

 大きな空に白い光の粒が滑って、長い尾を引いて消えていく。いくつもいくつも、滑って流れて消えていく。少女が初めて見る、流星群というものだった。願い事を三回とか写真を撮りたいとか、そういった少女らしいことは何も考えなかった。

 綺麗だったから、他のことに気を向ける余裕もなかった。

 目を離してはいけないと、少女は必死に必死に、その全景を視界の中に収めようとした。首を精一杯に曲げて、一粒でも多くの光を見たくて。


『綺麗だね!』


 少女が笑うと、


『……そう、だね』


 少年も笑った。

 子供二人だけの、大人のいない時間は、少女にとっての特別だった。




 愛おしいものに触れるような手つきで、髪を梳かれていた。胸やお腹や頬が、暖かいものに触れている。自分はそれに体重を預けているようなのだけれど、茫洋とする頭ではただ気持ちいいことしかわからなくて、だからもっとして欲しくて、みやはその温もりに甘えてしまう。

 寝汚いみやは、寝起きには頭が働かない。

 己の欲のまま「もっと」と口走った。そうすると頭上から「え」と驚いた声が聞こえて、撫でてくれていた手がぴたりと止まってしまった。


 ――あれ?


 自分が寄りかかっているこれは、誰だろう?

 そういえばさっき聞こえた声の持ち主を私は知っていて、いやいやいやまさかそんな。


「…………。」


 みやは目を閉じたまま硬直して、


「…………。」


 相手も固まっている。

 両者は身を寄せたまま、相手の出方を窺った。緊張感溢れる沈黙の空気を、風の音がざわりと色付ける。

 呼吸するたび身にしみ入るような優しい白檀香も、みやは知っている。

 相手が彼でないことを願いながらーー別の人物だったらそれはそれで問題だけれどーー、みやは詰めていた息を吐き出し、ゆっくりと瞼を開けた。

 案の定である。


「よく寝てたね」


 蓮見の私室前の縁側で、彼とみやは抱き合っていた。


 どうしてこんなことになったのか?

 経緯は至ってシンプルである。

 昨日は蓮見の早退に付き合って帰宅し、夜遅くまで看病し、今朝も彼の熱は高かった。みやも学校を休み、看病のため朝から彼の私室にいた。


『そこ、開けておいて』


 という彼の言葉に従って縁側の障子を開けた。そして寝入ろうとする彼を見て、自分がここにいたら邪魔かもしれないと思い、みやは彼とつかず離れずの縁側に出ていることにしたのだ。

 呼ばれればすぐにわかるけれど、さほど近くもない距離に。


『蓮見さまが眠るまでお傍に居ますので、何かあればお呼びください』


 そう言って、縁側の柱に背を預けて座った。

 大きな庇の影の下、風がよく通る場所だった。この平屋は構造的にも通気性や避暑にも優れているので、滅多なことがなければ冷房機器の電源も入れない。

 みやはその縁側で、自分の部屋から持ってきていた文庫本を読み、時々は蓮見の様子を見て、そうしているうちにうとうとと船を漕いで――。


 言い訳の余地もない。

 みやは無意識に彼の胸元を握っていた手を開けて、すすすと速やかに身を離し、今から死にますといった表情で深く頭を下げた。


「腹を切ります」

「うーん……。みやはもしかしたら知らないかもしれないけど、現代ではね、切腹は肯定されていないんだよ」


 残念ながらみやは、ひょんなことで過去から現代に迷い込んでしまった武士の類ではないのだ。現代において自傷行為がどれほど忌避されているかは、箱入り育ちのみやも存じている。……存じているが、今は理屈ではないのだ。

 やってしまった。

 やってしまった。

 彼女は頭を上げて、知らず上目遣いになりながら蓮見を窺う。両手はまだ床に着いたまま、いつでもごめんなさいを言える状態で沙汰を待つ。

 彼はそう不快でもなさそうな、けれど思考の読みにくい微笑のまますっと立ち上がり、室内に戻っていった。


「っ……」


 みやは慌てて彼の後を追う。

 開きっぱなしだった障子を閉めようとして、蜩の声に気づいた。気温もずいぶんと下がっているし、夕暮れも近いのだろう。一等星が出ていた。白い塀の上に木々の影がはみ出していて、そのさらに上には、分厚い雲の頭が見えていた。


 いつもと同じだ。変わりない。何もない。


 みやが障子を閉じて振り向くと、蓮見は布団ではなく机前の座椅子に腰を下ろしていた。ここにある文机は、みやのものよりも低い。

 彼の前、文机の上にぽつりと、小皿が置かれている。

 みやは立っているから視点も高く、背を向けている彼の体越しに、それが見えた。

 両手の親指と人差し指で丸を作った程度の大きさの、白い陶器の器だった。墨を煮詰めたような黒い液体が七分目まで注がれていて、水面は気泡の一つもなく、黒い鏡になっている。液体は粘着質のようにも見えるし、そうでもなさそうだとも思う。

 いつからあったのだろう。

 縁側で転寝してしまう前に、あんなものはなかったはずだけれど。

 みやはその異物を見ていたくはないのに、一度視界に入れてしまえば目を逸らせなかった。それが危ないものであるとは察していても、そんなことは()()()()()()()()()()()()

 みやはごくりと音を鳴らして、唾を飲む。

 異様に喉が乾いた。

 あの器に両手で触れて、慎重に持ち上げて、純粋無垢な花嫁のように唇を付けて上品にするすると、あるいは下品にじゅるじゅると音を立てて、あの黒を飲み下す――そんな妄想をする。

 あの黒に意識が吸い込まれていくようだった。

 ()()()()()()()()()()()()()


「……は」


 熱い吐息を漏らすと、それを聞き咎められた。


「飲んでも美味しくないからね」


 みやは小さく、はいと答えた。

 蓮見は己で準備したのであろう器に触れもせず、ただ見下ろしている。

 それが一体何の呪い(まじない)であるのか、みやは知らないし、訊ねてもいけない。如月家の『秘匿』に抵触してしまう。


「そういえば洗濯物とか夕食のことだけど」


 唐突に振られた話に、みやは「あっ」と声を上げた。寝こけていたから、家事は何もしていなかった。


「ごめんなさい。今からやります」

「名取と観月がやっていったよ。夕食は温めるだけ状態だって」

「……は」


 みやは再度の思考停止状態に陥った。


「ぁ、あれを、お二人、に、見られ……?」

「見てたね。凝視レベルだったな」


 蓮見を大事にしている如月家の使用人に、ありえない醜態を見られたのだ。

 普段は、絶対に、あんなことしないのに!


「最悪です……」

「困ることがあるの?」

「だって、今日は蓮見さまの看病のためにお休みしたのに、まさか、私がこんな……」

「二人とも怒ってなかったし、むしろ喜んでたから気にしないでいいよ」


 蓮見は「そんなことより」と微笑んで、


「楽になった?」


 この言葉が何を指しているのか、みやはすぐに理解した。

 正直に言えば、体調を気遣われるほど苦しかった覚えもない。けれど蓮見が言うなら、自分の体はその息苦しさを感じていたのだろう。眠っている最中に、無自覚に。

 だからみやは「はい」と頷く。

 きっと自分は、あの夢を見ながら酷く魘されていたのだろうと思った。

 彼がみやを宥めるように触れていたのは夢のせいだ。


 如月は祓いの家だ。

 身近な者に向けられる悪意には敏感な上に、弱い悪意であれば触れるだけで退けることもできる。蓮見はその特性を大っぴらにはしないけれど、それでも如月家の者だ。

 だからあの触れ合いは祓いのためであって、他意はないのだろう、きっと。


「どんな夢だったのかな」

「ただの夢です。蓮見さまにお伝えするほどのものでは……」

「それを判断するのは君ではないよ」


 ばっさりである。




 蓮見は「ふうん」とやる気のなさそうな相槌を打って、みやに問う。


「星の観察か。……心当たりは?」


 心当たりと言われて、思い当たったのは友人の存在だった。お化け屋敷に入るきっかけになった人物――奏多である。


「……心当たり、あります」


 隠そうとしても無駄だろう。きっと彼は知っている。

 みやの予想通り、蓮見は驚きもせず「そう」と頷いた。


「報告は来ているよ。君たちが行ったのは街外れの洋館だ。電話の噂を確かめに行ったけど、特に収穫らしいものはない。主犯はみやの友人、木沢奏多。出席番号九番、家族構成は両親と本人の三人暮らし。成績は優秀で学年トップを維持している。オカルトが好き。趣味は星の観察で、夏休みにもそれで出かけていたらしいね?」


 文化的な趣味だとコメントが入る。


「まあオカルトも星も神秘のものだし、こういう人はさして珍しくもないか。至って普通のクラスメイト、()()()んだよね?」

「っ……」


 紛れた過去形に、みやは声を詰まらせる。


「木沢奏多がそんなに大事?」

「…………。」

「君が今回のことを俺に話さなかったのも、あの時俺の言いつけを破ったのも、そういうことだと思っているよ。君は俺の意見より木沢奏多との関係を優先したんだね。これはたしかに君の交友関係を考え直させる必要もあるかもしれないし、……まあ、覚悟はしておいて」


 良いことにはならないと思うよと一言置いて、蓮見は一度こほんと咳払いした。


「結論を言えば、あれはたしかにお化け屋敷だよ」

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