やっぱり見たのか
みやは俯きながら足を動かしていく。
向かう先を思うと、胃に錘が詰まっているみたいに重かった。
「……はあ……」
ため息の回数も深刻だ。
自分はまるで彼の召使いのようだ、と思う。……実際、やっていることは召使いそのままだ。
校門まであと数歩というところで風が吹き、スカートが揺れた。高校に入学する前はスカートなんて穿いたこともなかったみやは、この感覚にまだ慣れない。夏仕様の薄い生地なんてなおさら落ち着かない。
白雪女学園の校門を出て左に曲がり、敷地を几帳面に囲む外壁に沿って十分。どこまでも白白白な刑務所よろしくの景色が、突然に変わる。
フェンスと、活き活きとした木々が控えめに敷地の境界を主張する、この地域名物のもう一つの学校である。
進学校だが、校則はとても緩い。染髪はブラウン系と黒染めであれば許される。ゲーム機器や漫画も授業中に出さなければ問題ない。服装に関しても制服を導入している学校としてはこれ以上なく自由で、授業のみの日であれば、指定のスカートとスラックスを着用していれば良いこととなっている。
言わずもがな人気校であるわけだが、この通気性の良すぎる校風に紛れ込める自信は、みやには無い。
だから、学校選びだけは恵まれたかもしれないと思う。
だって、生まれてより壁の中で育った身の上だ。
たくさんの本、鮮やかな着物、四角い空、部屋の片隅に敷いた布団――みやはそれまでの人生を思い返して、足を止めた。
「……あーあ」
十七年、やっぱりろくなことがない。
左を見る。脇に『私立絲倉学園』の札をかけた校門が、無防備に開いていた。
窓口のガラス戸をノックすると、近くにいた事務員の女性が戸を開けて「はーい」と愛想良く答えてくれた。少々垂れ気味の穏やかそうな瞳が、みやの制服を見る。
「あれ、お隣さんの子かー」
両校は互いをお隣さんと呼ぶ。
「如月蓮見さんのお迎えに参りました。形栖みやと伝えていただければわかるかと思うのですが……」
「ああ、如月くんのね。それじゃあえっと、これのここのところに名前書いて、ちょっと待っててもらってもいいですか?」
学生相手だからか、少々砕けた口調である。
みやは「はい」と頷き、来校者名簿の空欄に名前を書き入れた。みやの上には『トマト運輸 ヤマセ』や『白雪女学園 栗原なゆき』の他に、個人名があった。
ペンを置いて事務員に目線を戻すと、彼女は保健室へ内線をかけている。「はい、かたすみやさん、って方が……えっ」「あれ? 大丈夫ですか? 如月くんが? ああ、そうですか」「はい、お伝えします、失礼しまーす」電話先でごたついたらしいと窺えたが、事務員は特に気にせず通話を切った。
「あの、彼に何か……?」
「あー、如月くんここまで来るみたいだから、ちょっと待っててもらえる?」
ついに敬語が無くなった。
みやは保健室までの道中も憂鬱に思っていたけれど、その心配はなくなったことでほっとした。他校の奥深くまで足を運ばないでいられるにこしたことはないので、「大丈夫です、お待ちしてます」と二つ返事で頷いた。
「あ、これよかったら食べてー」
机の大袋から取り出した飴包みのチョコレートを一つ手渡してくれた事務員に礼を述べつつ、蓮見が来るのを待つ。
視線を感じた。
振り向くと、玄関の外で半分私服の集団が校庭の方に歩いていく。移動を伴う授業なのか、彼らの腕には教科書と筆記用具があった。
Tシャツ、ポロシャツ、水色のワイシャツと、彼らの服装は色使いも様々だ。どこか都会的で、友人同士でふざけ合う表情にも快活とした透明感がある。それはみやの学校には無いものだった。
男性と混じって勉学に励むというのは、どんな心地なんだろう。緊張したり、怖くはないのだろうか。
偏差値は白女よりも五は高いのに、勉強尽くしというイメージも浮かばない。
ここで真っ白な制服はやはり目立つのか、彼らと目が合った。
玄関口越しに「お、白女の子じゃん」「めずらし」「お嬢様っぽーい」と聞こえると、みやは今すぐ逃げ出したい気持ちになる。注目されるのは嫌いだ。
「みや」
「っ」
呼ばれて前に向き直ると、蓮見が居た。その後ろから、白衣を着た四十代ほどの女性教諭がゆったりと歩いてきている。やれやれしょうがない子ねえと言いたげに苦笑しているのが気になった。
「ごめん。校門で待っててもらえれば良かったんだけど……」
蓮見はちらりと、女性教諭――保険医を見やった。
「あのね、本当は保健室までお迎えしてほしかったくらいなのよ?」
「そこまで重症じゃないですって」
会話を聞いていたみやは、蓮見が無理を言っていたのだろうなと悟った。電話のごたつきの原因も、きっとこれだ。
「もうちょっとゆったり来てくれても良かったんだよ?」
「すみません」
「謝らなくてもいいけど。まあいい、もう行こうか」
「はい。……あ、先生、彼のご容体はいかがでしょう?」
何となく、学園関係者の前で蓮見さまと呼ぶのは気が引けた。
「症状としてはただの風邪ですけど、こう見えて熱がけっこう高いから、もしかしたら夜にもっと上がるかもしれません。病院も勧めてはみたんですけど、」
「絶対に嫌です」
「みたいなので様子を看ててもらえますか」
「……はい。お世話様でした」
呆れた風な保険医が「お大事に」と手を振った。
如月蓮見は生真面目だ。
正式な制服の着用義務が生じる式典以外の日でも、指定のスクールシャツやらネクタイやらで身を固めている。制服の夏服は、夏服といえども学生らしく堅苦しいが、彼は文句も言わず粛々とそれを着る。先ほど見かけた生徒集団とも、やはり違う。
道中、蓮見が突然「ごめんね」と言うから、みやは彼を見上げた。
「街中で俺と歩くの、嫌だよね。前のこともあったし」
前のこと。
示された件を、みやは瞬時に察する。それはあの屋敷に移り住むことになって間もない頃の、苦い記憶だった。
みやは「気にしません」と言う他に、答えを持ち得ない。
「授業中の時間帯に、わざわざ私を呼ぶくらいです。何かあったのでしょう」
蓮見がみやを名指しで迎えに来させるくらいなのだから、理由があるはずだ。大雨の日、滑り台の下で一人固まっていたみやを迎えに来たのだって、彼が気を回した結果なのだろう。町中で蓮見といたくないというみやの想いを知っていても。
曖昧に笑う彼はここで詳しく話す気は無いようだけれど、みやは彼の思惑を薄々理解していた。如月家の性質は、みやもよく知っていた。
二人は無言で歩いていく。
そういえば。
南天の実が生る坂を上がりながら、みやはふと考えた。
何か忘れている気がする。
何か。……何だろう?
変わり映えもなければ味気もない帰路を進み、大きな門の脇の潜戸を開け、彼を先に中へ入れて、
がらっ、
彼が引き戸を開ける音がして、
――あっ。
脳内に、それが思い出された。
「金賞、おめでとうございます」
あの展示を見て時間は経ってしまったけれど、言わなければと思っていた事だった。透明感がどうだ、火の揺れがどうだと、一般的には素晴らしい水彩画。
蓮見は珍しく言葉に詰まって、けれどすぐに持ち直す。
「やっぱり見たのか」
「ええ。いけませんでしたか?」
「いけなくはないけど」
見て欲しくはなかったのだろう。
それならコンテストなどに応募しなければ良かったのに。
みやは、玄関に上がる蓮見の背中をじっと見つめる。と、彼が振り向いた。
「御守り見せて。前に渡したやつ」
絵のことは忘れることにしたようなので、みやは言及しなかった。
急いで鞄を開けた。彼から渡されたお守りはあまり外に出していてはいけないものと思っていたから、持ち手にぶら下げたりはせず、鞄の前面ポケットに入れてある。
指先に独特の布地と紐の感触があって、――ずるり、
「えっ」
ポケットから引きずり出したそれを見て、みやは目を瞠った。
黒かった。
文字も無い、ただただ白かったそれが、下部から墨汁に浸されたように黒く腐っている。紐が結ばれている上部にかろうじて白が残っているが、お守りとしての効力は期待できないだろう。
持っていたくない。
みやの思いを汲み取ったのか、蓮見がそれを奪い取った。そして表裏をまじまじと見つめてやっぱりねと息を吐いた。何が「やっぱり」なのか、みやにはわからない。困惑した表情で蓮見を見つめる。
「簡易的なものとはいえ、少し体調を崩すだけでこうなるなんて……。不甲斐ないな、まったく」
「えっと……?」
「これは俺が作ったやつだから、俺が弱ったらダメになるんだ。そうなったら俺が直接みやを連れてた方がいいから、今日も呼び出させてもらったんだよ。学校っていう場所自体が安全ではないから、できるだけ早めにしようと思って」
納得した? と問われた。
納得しました。とみやは頷いた。
如月は代々、祓う家である。
元を辿れば地域を治めていた明主の家柄で、ここに至るまでにも長い長い歴史があるわけだが、「今はもう祓うしか取り柄のない、褒められるところのない家系だよ」と蓮見は言う。
お札を何枚も手書きして「ハーッ!」と投げつけたり、あなたの祖先のお墓がろくに掃除もされないことに拗ねて子孫であるあなたを呪ってしまったんですとお告げしてみたり――それが一般的な『祓い』のイメージらしいとみやが知ったのは、つい最近の話だ。
如月は、それ自体が祓いである。
その名の者がそこにいるだけで、悪いものは勝手にどこかへ行く。白女に入学して奏多に出会うまで、みやにとっての『祓い』とは、そういうものだったのだ。
如月の次期当主である如月蓮見にも、その力があった。
だから今回はその力を利用したのだろう。彼はその力でもって、みやを護衛しようとしたわけだ。
ちなみに形栖は、如月とは逆の家系である。
電子音が鳴った。
蓮見は寝間着の襟元に手を入れ体温計を取り出すと、表示された数字を確認した。体温計はそのまま、傍らに正座しているみやに手渡された。
三十八度九分。
蓮見の平熱は三十五度四分である。
彼の額に置いた濡れタオルも、すぐにぬるまってしまうわけだ。
みやは体温計の上部のスイッチを切って、お盆に置いた。水差し、小さなグラス、風邪薬も完備している。
みやは蓮見の額からタオルを取ると、草色の紬――蓮見が選び与えたものだ――の袖を濡らさないように氷水に浸し、絞る。
「明日の朝、学校には私から連絡を入れます。私もお休みします。何か食べたいものはありませんか?」
蓮見の額に冷やし直したタオルを乗せた。
「……みかんゼリーかな。明日にでも」
みやが時計を見ると、夜の十時だ。坂を下りた所にあるコンビニエンスストアなら営業しているだろう。それならと腰を上げかけたが、
「明、日、に、で、も」
「はい」
座り直すことにした。
観月か名取に頼めばいいよ。みやは外に出ないこと。じゃあおやすみ。とあっさり目を閉じた蓮見に、みやは「おやすみなさい」と義務的に答えた。
彼の入眠を邪魔しないように、そして紬の裾を踏まないように、そうっと立ち上がる。布団の傍に置かれた行灯の蝋燭を灯した後、天井中央の丸蛍光灯の紐を引き、ぱち、ぱち、と一段ずつ光度を落とした。
行灯だけが頼りとなった部屋で、みやは再び元の位置に座った。
広い部屋だ。如月蓮見の性格を表すように、最低限のもの以外何もない。普段着や着物を入れる着物箪笥と、壁のハンガーにかけられた制服と、本が数冊、そして教科書類。みやの部屋と大した違いはない。
まったく、寂しい人間性だ。そして寒々しい関係性だ――みやの口角がじわりと上がって、嘲笑の形になった。
如月蓮見に受動的な人間は、彼の意識が落ちた途端、簡単に本性を表す。
火が揺れる。
影が揺れる。
灯りが届かない部屋の四隅に、深い闇ができる。
みやの冷たい視線の先で、眠る蓮見は苦しそうに呼吸をしている。彼は先ほどまで平然と会話をしていたけれど、それは彼がそう見せていただけであって、本来ならば声を出すのも辛かったはずだ。みやはそれに気付いていた。頬の赤みも、声を出す直前に微かな気怠さがあったのも、学校で彼を見た時からわかっていた。
みやは桜の木にへばりつく毛虫を見るような瞳で蓮見を見つめ、そうっと動いた。
彼の首元に両手を差し向けて、
「…………。」
止めた。
彼は起きない。
彼の首を捕えようとした白い手を何事もなかったように下げていき、掛け布団を剥がし、彼の濃い色の――たしか深藍と聞いた――寝間着の襟元を寛げる。
見える範囲の肌に滲んだ汗を、もう一枚のタオルで拭っていった。