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あなた

 みやは鏡台の前に座っていた。

 自分の姿を眺めていた。白無垢を着ている。白以外の色がない純白だ。いつの間に着替えたのか、いくら考えてもわからなかった。しっかりと紅をさした唇がいやらしいくらいに際立っていて、不快感がある。


 ――私は、こんな顔をしていたっけ?


 こんなに面長で、細い目をしていただろうか。

 それに、この室内はどうしてこんなに暗いのだろうと思った。そして、外はもう夜なのだと思い出した。暗いのは当然だ。部屋の中央にぽつりと置かれている鏡台と自分だけが、ぼんやりと照らされている。

 まだ見慣れない広い和室。天井の真ん中に、電球が一つだけぶら下がっている。この田舎では珍しい眩さに誘われて、羽虫が電球に何度か頭突きをする。じじ、と鳴いて真下に落ちた。

 ぽそ、と。

 ちょうど鏡台の中央、みやの目前に。怖いと感じなかった。

 遠くからは、酒が大量に入ったと思しき宴会の音が聞こえている。

 自分はここを動いてはならない。いずれあの宴から一人の男が抜け出して、この新婦を迎えに来てくれるから。

 さらに待っていると、ようやく迎えが来た。

 後ろの襖を雑に開いたのは、待ちわびた新郎だ。本日付けで夫となった男性だ。みやはほっとした。迎えに来てくれないのではないかと思った。随分と待たされた。けれどいいのだ、来てくれたから。酷く酔っぱらっていても、足取りがふらついていても、酒精に吐きそうになっても、初夜がどんなに手酷いものであっても、彼は確かに愛した男だ。

 みやは彼を呼ぶ。


 ――蓮見さま。


 自分はたしかに、幸せな花嫁になれたはずだ。

 彼の顔が変に白くぼやけて見えるけれど、きっと歓喜の涙のせいだ。


 場面が変わる。

 みやはやはり鏡台の前にいた。今度は白いブラウスと、小花柄のスカートを着ていた。

 長い髪を梳いていく。櫛は夫から貰った上等品だ。

 鏡に映る表情は曇っていて、あまり幸せそうではなかった。


 ――どうしてこんなに他人事の思考でいるのだろう、自分のことなのに。


 みやは外に出た。山間の凹みにへばりつくように広がった、小さな集落だった。みやが通りを歩いていると、どこからか湿った潜め声がする。そちらを見ると、村民が嫌な視線を向けてくる。明らかに悪意をもった笑みで、当てつけのように仰々しく一礼をしてくる。陰湿さに吐き気を催しながら、やっぱり外に出るのではなかった、と後悔した。

 自分はみんなに嫌われていたのだった。

 余所者だからって、それだけの理由で。

 こんなに大事なことを忘れてしまったのは、きっと新婚の幸せに耽っていたせいだ。

 もうあの家に戻ろうと踵を返したところで、向こうから子供たちが駆けてきた。


「せんせー!」

「×××先生っ」


 ――ああ。


 みやの中で、誰かがすすり泣く。

 おいで、と両腕を広げて膝を折ると、四人の子供たちが胸に飛び込んできた。三人の男の子と、一人の女の子。もう十歳近くになる彼らは、自分のかわいい教え子たちだった。

 教え子?

 じわじわと、己を思い出していく。自分が教師であったこと。待遇はあまり良くなかったけれど、慕ってくれるこの子たちのおかげで、自分はやってこれたのだということ。


「先生、お屋敷からずぅっと出てこないんだもんっ」

「おいもう先生って言っちゃいけないんだぞ、奥様っていうんだ」

「かっちゃんだってさっき先生って言ったー!」

「先生、元気? びょーきとかしなかった?」


 ええ元気よ、好きなように呼んでくれてもいいのよ、お外に出て来られなくてごめんね。

 彼らの頭を存分に撫でて、背を擦って、その温かさに瞳が潤んだ。

 久しく触れていなかった子供の体温。愛おしい。夫に感じる熱情とはまた違った、優しい気持ち。これが母性というものなのかは、まだわからない。

 女性は無条件で子供を愛せる。そんな理想は、必ずしもそうでないことを知っている。それくらいに年を重ねた今、彼ら自身の素直さ、愛らしさが自分をここまで愛させるのだと理解している。

 彼らの親は、決して自分の味方ではないけれど。今もずっと遠くから睨み付けてくる、あの親たちから生まれた子たちだけれど。この妙な集落の中にいて、彼らもきっと変わってしまうのだろうけれど。

 彼らがいたから、私は――ここで生きてこられたのだ。

 久しぶりに呼吸がしやすいと感じた。あの屋敷は空気が悪くて、敷地自体は広いのに、どこか息苦しいから。

 子供たちに癒されて浮き上がった心地のまま、私は屋敷に帰った。今日はいいことがありそうだと足取り軽く、自分に与えられた部屋に戻る。

 部屋の奥に鏡台がある。

 私の、唯一の花嫁道具だ。

 義母が、裏でこの鏡を気味悪いと愚痴っているのは知っている。けれどこれだけは手放せない。母の形見だ。


「あのね」


 私は鏡台の前で口を開く。


「今日はね、あの子たちに会ったのよ」


 話し相手は、鏡に映る笑顔の自分。


「何も変わっていなかったわ。担任の先生が変わってしまっても、私をまだ先生と呼んでくれるの」


 鏡の自分は、きっとこう返答する。

 あの子たちって、あの四人かしら?


「ふふ、そうよ。勝也くんと、紀久くんと、昭仁くんと、紀美子ちゃん。少しは身長が伸びたと思ったけれど、まだまだ可愛いまま」


 それは良かったわね。きっとあなたも、彼らのように可愛い子供を授かるわ。


「……そうだったら、いいわね」


 そうしたら、色々とお勉強も教えてあげられるわね。


「ええ、これでも元教師だもの」


 良かったわね。


「ええ、良かったわ」


 良かったと返しながら、本当にそうだろうか、なんておかしなことを考える。

 自分が産んだ子は、この家の子として生きていく。子供に自我が芽生えた時、果たして自分はどういう立ち位置になるのだろう。未だ余所者なのだろうか。子供にすら余所者と罵られるのだろうか。

 いやそれよりも。

 そもそもこの家の子供を腹に宿すことに、躊躇っている。嫁入り前まではそうではなかった。この屋敷に不信感を抱いたのはいつの頃だっただろう。嫌な静けさも、時折鼻先を掠める生臭さも、夜ごとに遠くから聞こえる野犬の鳴き声も、胸騒ぎがする。

 結婚は失敗だった、なんて思いたくはない。

 だって夫が唯一、この集落で自分を守ってくれた。彼に結婚を乞われたら選択肢なんてなかった。

 こんな時に思い出す温もりがある。


「……どこに行っちゃったの、ぽち」


 がら、と襖が開いた。

 咄嗟に笑みを作って振り返る。愛すべき夫が立っていた。どうしてか白くぼやけて見える彼の顔を、もう思い出せなくなっていた。それを不思議とも思わず、そういうものと納得して久しい。それでも足音から、不機嫌だなと察せられる。みやは「どうしたんですか」と気丈に声をかけて、――ぱしん。頬を張られて、勢いのまま倒れ込む。畳に手を着いて、叩かれた頬に手をあてた。頭の血液が偏ったみたいにぐらりと、脳が揺れた。


「……ぇ?」


 顔がまだ白くぼやけて見える夫を見上げて、「何故」と呟く。

 蓮見さま。

 あんなに優しかったのに。


「勝手に外に出るとは何事だ」

「……ごめん、なさい」


 夫は無言で、もう一度頬を叩いて去って行った。

 

 それが皮切りだった。

 この日を境に、夫は暴力を奮うようになった。


       *


 山下は一人で賃貸ワンルームのフローリングに座り込みながら、ぼうっとテレビを眺めていた。夜の十時だった。

ソファはあるけれど、ローテーブルにおいたつまみやら缶ビールやらにちまちま手を付けるには、床に直接座った方がいい。一度ソファに身を沈めてしまえば、開封済みの缶に手を伸ばすことすら億劫になる。

 近頃、面白い芸人がいない。知らないコンビ芸人が大口開けて笑っているけれど、何にそんなにウケているのかさっぱりだ。

 番組のスタッフクレジットが流れるところで、缶に残ったビールを煽った。

 山下はやっと動いた。ソファにどっかりと寝転んで、スマホを弄る。動画サイトのおすすめ欄に載っている動画を漁り、そうしている間に睡魔はやってくる。山下の今日が終わる。テレビも部屋の電気も点けっぱなしだった。

 すう、……すう、

 無呼吸ぎみの寝息が始まる。

 バラエティ番組を終えたら、またバラエティ番組が始まる。それも中盤になった頃、


 ぷつん、


 と、部屋の電気が消えた。LEDの真っ白い光が、余韻だけを残して。

 山下は起きない。

 おつまみにしていたあたりめのパッケージ、うずらの卵が二つ残っている缶、空になったビール缶、そういったものに、テレビ画面の光が歪に反射する。

 コマーシャルや番組内容によって、強い色彩が次々切り替わる。画面のバックライトで鮮やかに強調されて、山下の頬や部屋中がその色に照らされる。

 人物がアップにされた時の黄色っぽい白、海が映った時の青、――肉を捌く様子を捉えた赤。

 そこで画面は止まった。

 

 山下はその室内に、一人きりじゃなくなっていた。

 肘掛けを枕にして眠る山下の頭上に、女の顔がある。のっぺりとした、表情ない顔だった。

 ソファのすぐ傍で屈み込み、その女は、彼を覗き込んでいた。

 白無垢。

 大きく見開いた瞳。

 山下は朝まで起きなかった。


       *


 晴れ晴れとした秋空の下。一台の車が、道路の小岩をぎゃりぎゃり砕いて走っている。

 乗り慣れない車内の助手席で、蓮見はドア上のアシストグリップを握っていた。

 運転席の観月は、今にも銃乱射事件を起こしそうな目付きで叫ぶ。


「ぼぼぼ坊ちゃん! オレぇっ! 如月家にお仕えできてぇ! 光栄っした!」

「それ遺言?」

「遺書は部屋の棚の一番下の抽斗にあるんでよろしくおなしゃす!」

「この状況で観月が死ぬなら俺も死ぬんだけど……」


 観月の運転は上手とは言えないまでも、十分な腕前だった。

 レンタカーを借りて、ナビに従って走らせること約二時間。そして辿り着いた田舎町から、さらに山道を進んでいく。

 紅葉が綺麗だと思えたのは、精々五分くらいだった。

 片側に仁淀川を認めながら進むか細い道は、悠々な旅路とは言い難い。むき出しの岩肌が遠慮なく張り出しているし、道がコンクリートで舗装されてもいない。それに車体と側壁の間が、常に五十センチもない。対向車でも来てみろ、一巻の終わりだ。

 赤や黄色の木々の下を、武骨な鉄の箱がおっかなびっくり進んでいく。

 けれどそれでも、この先に停車スポットがあるはずなのだ。先に訪れた村のおじいさん八十代の話を信じるならば。

 からっと乾いた山道を進んで一時間。悪夢から覚めたみたいに、道が急に広がった。木々が生えず、土が大きく露出していて、乗用車なら三台は停められそうな空き地だ。

 そしてまだ続く道の先。ずっと向こうに、小さく。

 山間にへばりつく集落を見つけた。

 二人は速やかに車を降りた。

 村のおじいさん八十代は、たしかこう証言していた。


『いやぁ、五十年前だしねぇ……。んー……、そう、だって気がするんだけどなぁ。車ではそこまでだろうなぁ。何せ他所もんだ。目立つのはいけねぇ。ああいうとこは、外のものを一際嫌がる。だからおれも、『夜鳴村』に売るもんなんざひとっつもありゃしねぇんだ、昔から。おれの漬物はあんな奴らにゃあ……、あん、夜鳴村? ああ、今は別の名前になっちゃいるが、住んでる人間は変わりゃしねぇんだ。ほぅれ見てみろ、この額の傷だ、あいつらにやられたもんだ。むかぁしの話だども、山で見つけた子供を送ってやったらこんザマよ』『だがまあ、今となっちゃァあっこに子供なんざ一人もいやしねぇよぅ。たま~~~~に様子見に行く物好きのばあさんの話じゃ、ジジババしかいねぇって話だ。もう十年ともたねえだろうとよ』


 平均年齢六十代の自分の村を棚に上げて、おじいさんはきゃっきゃと嬉しそうに笑った。


 蓮見はしばし、おじいさんが言うところの『夜鳴村』を眺めていた。徐に周囲を眺め、開けた場所の外周に沿って歩く。そしてある地点で、そこに見えない壁を見たように、急に足を止めた。非常に嫌なものを見たとばかりに、眉を寄せる。

 す、と。潔癖な自分の清潔な和服の袖で、鼻を口ごと覆った。


「坊ちゃん?」

「……――。」


 蓮見は今、如月家が忌み嫌う穢れと相対した。積み重なって饐えて凝って肥大した、呪いの気配。言うなれば不浄の氷。嗅覚や触覚では感じられない、第六感でそれを認識した。

 目前の醜悪な空間は、けれど形栖家と相性は良いだろう。穢れを好む。そういう偶然が重なって、みやは肉体を置き去りにして、あの村に連れ込まれてしまったのだろう。

 迎えに行かなければいけない。

 殴り込む覚悟で取り返さなくてはいけない。


 ――俺の婚約者に何してくれてるんだ覚悟はできてるんだろうなこの誘拐犯共、と。


「観月、スマホ繋がってる?」

「んあ? ……まあ、辛うじて?」


 蓮見のスマホも、繋がってはいた。もちろんフリーの電波なんてものはなく、データ通信を示す数字とGが表示されている。


「そこから動かないで」


 蓮見は自分のスマホを見ながら一歩進んだ。決定的な一歩だった。薄皮一枚の威圧感と、急激に変わった空気と、突如そこに立ち込めた独特の匂い。

 そこにある境界線を、たった今越えたのだ。

 そしてその見えない境界線に沿って、今度は横に進んでいく。空き地の周囲に壁や柵は無く、一歩踏み込めばただの荒れ山。蓮見はずかずかとそこに踏み入って五分ほどで、赤い鳥居と社を見つけた。

 社は、時々は掃除をされているらしい。雨風に晒されるままというわけでもなく、修理の痕跡がある。けれどそう細々と世話をされているわけでもないらしく、その埃の溜まり具合から想像するに、精々三ヵ月に一度といったところだろうか。

 蓮見は「失礼します」と挨拶をして、社を覗き込んだ。薄汚れた三宝の上に、湿ってしわしわになった白紙が敷かれて、その上に――獣の牙が置かれていた。


「…………。」


 蓮見は無表情でそれを眺めて、数枚の写真を撮って、元来た道を戻っていく。凶悪な――本人からすると不安そうな――顔をする使用人に、蓮見は声をかける。先ほど超えた境界線を跨がないように。


「お願いがあるから、そこから動かないで聞いてくれる? この、俺の足元から先には絶対に来ないように」


 言いながら、蓮見は自分のスマホの画面を見せた。『圏外』となっている。その表示が見えるところまで一歩一歩と近づいてきた観月は、やがてくわっと目を見開き、自分のスマホを確認した。電波はまだ、細々と繋がっていた。


「坊ちゃん……」

「さっきそこで社を確認した。おそらくあの村を囲むようにして、結界みたいなものがある。ここからそっちが外、俺はもう内側に入った。……先に言っておくけど、社を壊すのはまだダメだよ。何を警戒したものかがわからない。内側に化物を飼っていて、それを逃がさないようにしている可能性もある。十五パーセントくらい」

「八十五パーセントは?」

「外側の人間の顔も見たくねぇってやつかな」


 蓮見は、社の内外を撮った写真を観月に送信した。


「いま送った写真から、情報を集めてほしい。有紀さんと共有しても構わない。……ほらそこ嫌そうな顔しない。それと、これを持っていって」


 観月は渋々と車に戻り、助手席側に上半身だけを突っ込んだ。時間はかからず、白い紙袋を「これッスか」と掲げた。


「それ。御守りだから持ってて。中身は見ない方がいい。怪しいものじゃないから。それじゃあ俺は行くけど、他に質問は?」

「まっ、えっ、本気でお一人で特攻するおつもりで?」

「自由に動けるのが一人くらい、外に待機しとかないと」


 蓮見は「じゃあね」と踵を返した。



 直線距離にして、約六百キロメートル。

 有名CMの「そうだ、京都行こう」と同じノリで思い立ったが吉日とばかりにここまで来た如月蓮見に、怖いものなどなかった。使用人たちを振り回したことに罪悪感が無いわけでもないけれど、それはもう仕方のないことだ。物事には優先順位がある。

 山中から村までは、地面を踏み慣らしただけの道だった。途中からはコンクリートで申し訳程度に舗装されていた。

 蓮見は進んで、久しぶりにコンクリートを踏んだ。――こつん。

 固い靴底が地面を鳴らした途端、


『せんせー、ご結婚、おめでとーございまぁすっ』


 子供の声が大きく響いてきた。音割れした村内放送だ。子供の無邪気な祝福の背後で、あのクラシック曲――結婚行進曲が聞こえている。

 蓮見は耳を塞ぎもせず歩く。

 馬鹿らしいほど無防備に、からんからんと跫音を鳴らして。


『おめでとぅございますっ』


 蓮見が山から真っ直ぐ歩いてきたこの道が、そのまま村の主要道路なのだろう。太めの一車線だった。

 まず五階建てなど存在しない。赤と青と白のサインポールが、床屋の入口で突っ立っている。


『また僕らの――』

『違うよ私もだよー!』

『わーってるよっ、えっと、学校を辞めてもっ、また僕らの教室にっ、いつでも遊びに来てくださいっ!』


 荷物が乗りっぱなしの軽トラックだとか、動くのかも怪しい黄ばんだ自販機だとか、軒先に吊るされた柿だとか、明らかにチェーン店ではなさそうなコンビニもどきだとか、バーバーなんちゃらの古ぼけた看板とか、そういったものが目に付いた。


『先生の幸せを願ってます!』

『願ってまぁすっ!』


 この町は殻だけを残して、すでに死んでいた。

 人がいなかった。動物も、花もなかった。

 おそらく住人のほとんどは、外に逃げ去っていたのだろう。

 赤い丸ランプのついた駐在所らしき建物に入った。片隅のファイル棚には住所録らしき冊子がそのまま置いてある。一つだけ置いてある机の上には、うっすらと埃がかかった印刷物がある。村内会が発行する情報紙だ。八月号と書いてある。大きな町とは違って、月一の発行でも紙一枚の片面印刷で収まるようだ。

 主婦コラム、農作物の引き取り手の募集。お悔み、と題された欄の氏名一覧に、蓮見は人差し指を置いた。ひと月間の死者がやけに多い。

 駐在所を出て、また歩く。

 目についた家屋のチャイムを鳴らす。しばらく待ったけれど、誰も出ない。仕方なく庭に侵入して掃き出し窓を確かめるけれど、雨戸が閉まっていた。さらに仕方なく、入り口に手をかけた。鍵が閉まっていた。それもそうだ。

 そうして何件かを見て回っていると、鍵のかかっていない家を発見した。


「お邪魔します」


 と一声かけて、内部を確かめる。線香と加齢臭の入り混じった、独特の臭いがあった。テレビ台には昔ながらの分厚いテレビが載っていて、その周囲には動物の置き物が雑然と並べられている。大きな座卓には木の器があって、その中で青くカビてちんまりと縮こまっているのは、おそらく蜜柑だったものだ。箪笥には国民的マスコットキャラクターのシールがべたべた貼り付けられている。似たデザインの皿がいくつも重なった食器棚、新聞紙に包まれたまま枯れ果てた大量の長ネギ、踏むところによっては凹んでしまう畳、べっ甲風の持ち手がついた大ぶりのハサミ、冷蔵庫の下の隙間からちらりと見える害虫用の粘着性捕獲器、日に焼けた文庫本、黄ばんだセロハンテープ――。生活感溢れる一般民家。


 混乱の様子はないけれど、大がかりな引っ越し準備をするほどの余裕もなかったようだ。

 きっとどこの家も同じようなものだと思う。


 蓮見は家を出て、再び歩く。


 からん、からん、からん、からん――……。


 蓮見の草履の音が道路の奥へと響いていって、あちらからは不気味な放送が聞こえ続ける。と、足元を黒い虫が通り抜けた。気味悪く艶めいて、人間によく嫌われる害虫だ。虫は蓮見の方を見向きもせず、道の先へ急いでいる。

 そして一匹二匹、三匹――進むにつれて、その数が増えていく。一定の方角へ。黒い虫に限らず、バッタや蛾の類も見受けられた。


「……この先か」


 虫が進む方へ。

 蓮見は迷わず向かっていく。かさかさかさと乾いた羽音が耳についた。

 突き当りを特に考えることなく左折し、右折し、その先を知っているかのように。蓮見はただ歩いて、トタン張りの納屋の横を通り、枯れ果てた花壇を横目に進み、そして――一見の平屋を見つけた。

敷地を生垣で囲んだ、一見は何の変哲もない日本家屋。

周囲の家々より立派で、蓮見が住む絲倉の屋敷に近かった。

 門は半開きになって、伊野上と札がかかっていた。足元を通り過ぎていく虫の数がそれはもうすごいことになっていて、犇めいていると言っても良い有様だった。昆虫も羽虫も集団で伊野上家の屋敷に這入り込んでいくから、屋内の様子もお察しだ。

 ここへ来て初めて、蓮見の足が止まりそうになった。


「さすがに、きついかな」


 虫だけならまだ良いけれど、それらが向かう先にあるものはおそらく――容赦のない死穢だ。

 直接死に触れた経験は、松野愛理が亡くなった時だけだ。

 今日はあの時とは違う。不意打ちではない。

 覚悟はしてきた。

 準備もしてきた。

 如月蓮見は、怯んではいけない――。

 胸の前で手の平を合わせて静かに開き、ぱあん、と打ち鳴らした。柏手。神への感謝だったり呼び出したりと意味はあるが、今は邪気祓いの意味を込めた。

 するとそれまで縦横無尽に走るのみだった虫たちが、一斉に道を開けた。

そうしてようやく蓮見は、深呼吸できる。祓いきれない邪気が喉にひっかかって、こほこほと乾いた咳をした。


「……いやほんと、きっついな」


 そして石畳の先、引き戸に目をやって――、

 白無垢の女を見た。

 白濁した摺り硝子で、輪郭はぼやけていた。硝子一枚挟んだすぐそこに佇んで、蓮見をじいっと見ている。人相までよくわかった。面長の女。細い眦の辺りは黒く陰っていて、胸元は真っ赤に染まっている。

 一瞬の対峙。

 蓮見がそれでも進んでいけば、女は硝子戸の奥へ消えて行った。その後を追ったけれど、いざ引き戸を開けた向こうに白無垢の女などいなかった。

 代わりに、それまで家の中に閉じ込められていた腐った空気が、どろりと雪崩れ襲ってくる。


「…………っ」


 死の臭い。

 思わず足が一歩後退した。けれど進まなければ。入らなければいけない。彼女はここにいる。特殊清掃業者御用達の防護服でも借りてくるんだった、ああもう、こんなことを考えている間にも彼女は。

 ぱきり、

 玄関のずっと向こうで、何かを踏み割った音がした。微かな音を辿ると、奥へ続く廊下の突き当りで、みやが怯えるように立ち竦んでいる。手には雑巾があった。花柄のスカートにブラウス――みやの趣味ではない服装だ。

 一瞬、彼女ではない誰かに見えた。

 けれど彼女だ、間違いない。

 直感と視界の齟齬に戸惑いつつ、蓮見は彼女に呼びかける。


「みや?」


 それで彼女が駆け寄ってきてくれればいいのに、肝心の彼女は、


「っ……!」


 蓮見に応えなかった。引きつった声を漏らして身を翻した。逃げていく。彼女の黒い髪が尾のように靡いた。


「待って、迎えに来ただけだから! 怒ってないから、全然怒ってないから、君のせいじゃないから!」


 とかなんとか、蓮見は色々なことを叫んだ。彼女に逃げないでほしいと、そんな一心で。

 ここにいる彼女は肉体のない、無防備な霊体だ。穢れが立ち込めるこんな館の中に、長時間置いておくわけにはいかない。

 蓮見は草履も脱がずに家屋へあがり、彼女を追う。


「君に本気で逃げられると本当に傷付くんだけど……っ」


 けれど無常にも彼女は去っていく。どうしてと考えながら、蓮見は後を追いかける。歩幅からか、すぐに追いつくことはできそうだった。

 けれどここで、場の嫌な空気が喉に詰まってしまった。

 蓮見の体は弱い。喉からひゅっと嫌な音がして、これはまずいなと冷静なことを考えた直後に、激しく咳込んでしまう。呼吸を整えようと吸い込む酸素は、まるで穢れの原液だった。どろりとして、喉が焼けるようだ。血の風味が体内からせり上がっている。

 これでみやを完全に見失うかと思いきや、彼女は振り向いて、困惑した面持ちで止まってくれていた。瞳はやはり、深く怯えているけれど。

 彼女の戦慄く唇が浅く開いて、


「ごめんなさい、ゆるしてください、ごめんなさい、……あなた」

「……え?」


 その呼称に、今度は蓮見が戸惑った。

 あなた。

 夫婦間の、あれか?

 ふらふらと彼女に追いついて、蓮見は彼女の手首を遠慮なく掴んだ。


「待って。あなた、って、どういう――」


 瞬間、何かが蓮見の手首を咬んだ。彼女を捕まえている方の手だった。ぎしりと締め付けられるような痛みが、骨を伝ってくる。袖から覗く手首にぞわりと、真っ黒い歯型が浮き上がる。

 ぐぐぐぐぅるるるるるぅ、と地鳴りのような、低く唸る声がする。鼻先を掠める獣の匂い。明らかに何かがいるそこに、けれど何も視認できない。みやも状況が把握できないらしく、怯えながら蓮見の様子を窺っているのみだった。

状況は理解できないけれど、ここに居るのは彼女の中身だ。肉体よりも大切な魂。――放してたまるか。

 蓮見はつい手に力を込めて、


「いっ!」


 彼女が苦痛を訴えた。それと同時に、蓮見の手首に透明な牙が突き刺さった。もはや歯形どころではなかった。反射的に力を緩めてしまう。

 彼女は蓮見の手を振り払い、弾かれたように背を向けて逃げ去ってしまった。さらに奥へ、穢れの方へ。今度こそ蓮見を恐怖の対象と見て、一目散だった。

 蓮見は嫁に逃げられて茫然とする夫よろしく、行き場のない手を引っ込めて、彼女の背を追った。

 彼女が横切った直後の襖が倒れてきた。

 彼女が走り抜けた廊下の床が、蓮見のただ一歩で抜け落ちた。

 まるでこの屋敷全体が、彼女の味方をしているようだ。


 ――意味がわからない。

 ――これは一体、どういう事態だ?


 咬まれた手首はじわじわと黒く腫れていく。応急処置として、患部に神酒を注ぎ掛けた。その上に護符を張り付けて布を巻き、端を咥えて結い締める。

 二本の犬歯が肌に食い込む感覚が、まだ残っている。


「みやが、狗神を使役した」


 ――違う。


「狗神が彼女を守ろうとしている……?」


 狗神は無邪気な神だ。元が動物、ゆえに善悪の判断ができない。

 飼主が「あいつ嫌い」と思ったから、飼主が「あの家の庭が羨ましい」と思ったから、それだけの些細な感情で人に害を齎す。守るなんて、そんな忠誠心すらも無い。

 ないはずだ。

 たかが呪詛。理性や意志なんてものは備われない――はず。


 一度、時系列順に整理してみよう。


 後に如月家の依頼人となる新が、伊野上家に嫁いだ。これは数年前。


 四ヵ月前、恐怖に耐えかねた新が絲倉町に移住した。


 三ヵ月前、呪われた白無垢が新の自宅前に置かれていた。


 一ヵ月前、新からの依頼があり、呪いを返した。伊野上新に差し向けられた狗神の呪い――半分は祟りと言える――は、正確に伊野上家へ返った。それを躱せず、伊野上家は力を失う。それがこの結果だ。この屋内に生きている人間は、おそらくいない。


 二日前、みやと伊野上彰人が接触。おそらくこの時に狗神の呪いがみやに及んだ。署への護送中、伊野上彰人が事故に遭った。


 昨日の朝、みやが仮死状態でいることを確認した。その日のうちに母親と形栖有紀が屋敷に訪れ、蓮見が四国へ到着。そして今日だ。


 次に事実確認をする。

 狗神の飼主は伊野上彰人。新の夫だ。呪いを返されて、弱った身で絲倉に来た。呪い返しが如月家の仕業とわかったのか、こちらに接触を試みた。そこでみやに一瞬でも悪意を向けたから、狗神がそれに従った。

 ということはつまり、如月家から呪い返しを受けたその後も、彼は狗神を使役できていた。その後に事故に遭って寝たきりとなった今、狗神が暴走状態にあるのか。


 疑問が三つある。


 一つ、先の狗神の動向。

 二つ、白無垢の女の正体。

 三つ、伊野上彰人は、どうして妻が絲倉町にいるとわかったのだろう。家から逃げようとする妻が行先を知らせるとは思えない。狗神は対象を憑り殺しはするけれど、飼主に標的を伝えるなんて頭はないはずだ。如月家のような神がかり的な直感か、優れた占術を扱うのか、地道な調査か、探偵を雇ったか、妙に引っ掛かる。


 いや、もっと単純に考えよう。

 たとえば伊野上新の実家関係の人間が、絲倉町にいたとか。


 ――そういえば伊野上新は、実家のことになると途端に口を噤んでいた。


 たとえばひと月前に伊野上新が如月家へやってきた時の、母親の質問。


 ――『それで? どうしてあなたは、この町に来たのぉ? 田舎が嫌になっちゃった? 何がそんなにダメだったの?』


これには、


『……夫、が。……少し、おかしくて』


 こう答えていた。蓮見も人間なので一言一句覚えている自信はないけれど、たしかこんな言い方だった。どうしてこの町を選んだのか、その理由には一切触れていない。

 その不自然さに、母親も勘付いていたのだと思う。


 ――『あなたのご両親とご実家は?』


 こんな直球の質問に、伊野上新は沈黙で答えた。

 なぜ。

 絲倉町へ引っ越してきたのは三ヵ月前と言った。それは嘘ではないにしても、きっとそれ以前から、何らかの形で絲倉町と関係があったとする。だから伊野上新が引っ越してきたし、伊野上彰人も追ってこられた。DⅤ被害者の逃亡先として実家を頼るのは自然なことで、ここまでは辻褄も合う。……けれどそれは、相談先に隠す必要はない。

 何かがあるのだ。

 伊野上新と、その実家にも、何かが。


 けれどそれは推論に過ぎない。いま考えるだけ無駄だ。蓮見は軽く眉根を寄せて、改めて前方を睨み付ける。

 そして不意に脳裏を掠める、男の必死な表情、


『待ってください、お、おおお、オレ、どうしても依頼をっ』


 ――あ。


 そういえば伊野上彰人は、如月家に何を依頼したかったのだろう。

 如月家が伊野上家の呪いを返したことを知って、報復にでも来たのか。それにしては、


「あの目は」


 助けを求めていた。返された呪いを受けて、それを止めてくれ許してくれと言いに来たのだろうか。だが引っかかる。それは蓮見の直感だ。何かが違っていると、頭の奥底で何かが騒いでいる。


 こと、


 左側から落下音がした。蓮見は警戒しつつ、音のした方を見る。そこにあった黄ばんだ襖を、そう、と開けてみる。

 黒い羽虫が傍を横切っていった。茶色の羽や黒い羽の虫、床に散らばって蠢く白い虫。それらが、布団に横たわる人型の何かに群がっている。うぞうぞと嫌な光を照り返しながら、小柄な人型の体表を這っている。虫のせいで人型が『誰』なのかは、少しもわからなかった。布団を汚す腐ったコーヒーみたいな真っ黒の液体だって、元々は人間だったものだ。人は死ぬと半分くらいは溶けて液体になる。血液とか脂肪とかそういうものが酸化して、強烈な異臭を放つ。剥がれ落ちた頭皮には、湿って固まった白髪がついたままだった。おそらく八十代以上の老人の、なれの果て。


 おぞましい光景だった。

 異臭はここからだ。


 うぐ、と後退った蓮見の傍を、黒い羽虫が絶え間なく飛び去っていく。この部屋一体が巨大な虫の巣のような有様だ。

 その人型の傍に、ころんと何かが落ちている。虫がうぞうぞと人型の何かを貪っている、すぐ傍。蓮見は袖で口元を覆ったまま、そちらに近寄った。手を近づけて、懐紙越しにそれを拾う。

 見たことのあるマスコット――伊野上彰人が持っていたそれと同じ、お子様に大人気のミノムシもどき。その毛に絡まっていた虫の死骸がぼとりと落ちる。


「……これ……」


 ――本物の獣の毛だ。


 人工毛ではない。

 そしてこの部屋の中でもう一つ異彩を放っているものがある。

 布団に横たわる死体の傍に、美味しそうな膳が置かれているのだ。蓮見にはわかる、これは彼女の料理だ。みそ汁は湯気こそ立っていないものの、まだ温かい。白米も粒が立っていて、彼女がしっかり炊き上げたのだろうとわかった。

 彼女はこの死体に昼食を作って持ってきたのだ。


「――……『殯』か?」


 もがり。一説によると、現代葬式の元になった、古代の葬儀様式だ。

 遺体に飯を与えることから真っ先にイメージされるけれど、蓮見は「いや、無いかなそれは」と瞬時に却下した。儀式にしては物々しさがない。日常の一環で、昼食をここに置いておくので目が覚めたらどうぞ、といった雰囲気だ。


 ――おそらく、自分とは見えているものが違うのだ。



 先の、蓮見を恐れながら『あなた』と呼んだ、彼女の態度も引っかかる。

 それに死者への料理、

 狗神が彼女を守ろうとしていた事実。


 蓮見の頭の中で、積み木がかちかちと積み上がっていく。


 剥きだしになった彼女の魂が、何者かの思念に触れて影響されている。

 肉体を眠らせている彼女は今、もしかしたらこの屋敷の夢を見ている状態なのかもしれない。


 部屋を出て先へ進んでいく。それで異臭は薄らいでいくけれど、穢れの大元ではなかったようだ。

 闇はもっと深くにある。


 草履がこつんと何かを蹴飛ばした。見ると、それは色の褪せた首輪だ。革製のそれは経年劣化でひび割れて、金具も錆び付いていた。金具を通す穴に巻き込まれた茶色の獣の毛が、使用感を感じさせる。こげ茶色になっているけれど、元は赤に塗られていたようだ。縫い目の際に塗料が少し残っている。


「十年やそこらじゃないだろうな」


 大きさから言って、中型犬から大型犬だ。


「…………。」


 ――何故だろう、知っている気がする。


「……知ってる……?」


 ――この首輪が柴犬に着けられていたことを知っている。


 頭が急に重くなって、一歩後退った。視界がぐらりと歪む。


 ――その犬がどんな声で吠えるのか、飼主がどんな女なのか、俺は知っている。


 頭の中にじんわりと、誰かの記憶が再生される。元々それを知っていたような、そして今、あたかもそれを思い出したような、大切なことを忘れていたような、弱い者を虐めたくて堪らなくなって、あの女を追いかけて長い黒髪を引っ張り上げて白い頬を手酷く殴りつけたいような、シャツを破り犯してやりたいような、暗い場所に閉じ込めてやりたいような、惨めな姿を眺めていたいような気持ちになって、


「いや俺は愛妻家だし」


 すぱぁんっ!

 自分の左肩を叩いた。頭を埋め尽くしかけていた記憶が、ぴょーいとどこかへ飛んでいく。


 一瞬、誰かの記憶が入り込みかけた。

 先の遺体かもしれないし、伊野上彰人かもしれないし、伊野上家の歴史に存在する誰かの過去かもしれない。誰であれ、それは自分とは相容れない人種であることは言うまでもない。


 蓮見は嫌悪を隠さず闇を睨む。


「俺に憑こうなんて、無謀なことするなよ」


 自分は寄せ付けない如月家だ。

 その絶対的な自負を持ち直し、先を行く。



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