許嫁ってそんなことすんの?
みやが事実と違うことを言ったことが珍しくて、奏多の心には妙にあの言葉が引っかかっていた。
夏が好きって。
あのみやちゃんも人を外見で判断するところがあるんだなあ、なんて思う。彼女は何となく、内面まで見透かしていそうな気がするから。
たしかに奏多はやかましいとか黙っててもうるさいとか言われた事があるけれど、その必要以上に元気なキャラクターのイメージ、といえば夏。なんて単純な思考なんだろう。
実際の奏多は冬の方がずっと好きだ。大気が澄んでいて清潔な気がするし、空が綺麗に見えるから。あと暖かい食べ物も好きだ。冬空の下で飲む甘酒も。
みやちゃんも普通の人みたいなこと言うんだなと新たな発見をして、ちょっと嬉しい。少々特殊な友人は、近頃心を開いてきてくれているような気がする。
『幽霊? ……いえ、見えることも聞けることもないですね』
そんな言葉を、思い出した。
アスファルトで舗装された岐路、桜の残骸を踏みしめて歩きながら、みやは言った。
曰く。
私も、毎日幽霊の姿を見聞きしているわけではないんですよ。むしろそんな事態は珍しいくらいです。
世の中には色々な体質の人がいて、その中には半分があちらの世界にいっている人も居るのだろうけれど、自分はそうではないという。
ではこの友人は、あの雪の日に、何をもって『止めた方がいいですよ』などと言ったのか。
みやはそうですねえと少し考えて、
『私は、いわゆる曰く付きのものがわかるんです』
『曰く付き?』
『ええ。イメージで言うと、事故現場に切断された右手と一緒に落ちていた携帯でしたり、飛び降り自殺した方が最後まで音楽を聴いていたウォークマンとか、そういったものがわかるんです』
『……あの手袋は、それじゃあ、そういうものだったの?』
『そうですね。何かが入っていたことは確かです。その中身が実体だったのかそうでなかったのかはわかりませんが、……まあ、大なり小なり呪われているという点では、大した違いはないでしょう』
あれに実体があったら事件になるかもしれないというだけの違いです。と付け加えられたって、奏多はそれが大した違いでないのかどうかもわからなかった。
『あの……』
怖々と声をかけられて、奏多は何かと応じた。
みやはその無表情の下で、何かを恐れている様だった。
『……怖く、ないんですね』
『ないよ。それでわたしが死ぬわけじゃないし』
奏多の反応に、みやはほうと安堵の息を吐いた。それに奏多は、「あれ?」と思った。
そして今日に至る。
ばうん、と重たげに揺れる胸が大変にいい。
下着で支えるにしても限界はある。体操着は大変に無防備な装備である。跳ねたり跳んだりすれば、揺れるものは揺れるのだ。
――いい胸してるなあ。……あ、一点入った。
体育の授業中である。
バレーボールを鮮やかに打ち返して着地した友人の胸部を、体育館の端で休憩中の奏多が何とはなしに見つめていた。胸に目がいってしまう現象は男に限らない。
体育の授業の時だけゴムで結い上げている黒髪。夏の湿気と熱気がこもる体育館に汗ばんだうなじが大変に艶めかしい。奏多がいるのはみやと対面するチームの側で、ネット越しにみやの正面ばかりが見えるのだけれど、時折見える無防備な素肌が大変に思春期を感じさせた。
「形栖さんっ!」
「はい――っ」
弱々しい返答とは裏腹に、ボールを打ち返したり機械みたいに正確にサーブを打ったり、見かけのわりによく動く。みやは熱血家ではないけれど、見た目の通りに真面目で一生懸命なのだ。それでいて出るところは出て、引っ込むところは引っ込んで、なかなかのスタイル。美少女であることに資格が要るなら、みやは間違いなく条件を満たしていると思う。大人しい優等生系、というやつだろうか。
ネット側にいたみやが動いた。
とんっ、
上から侵入するボールを相手に返さず、合わせた両手首あたりで打ち上げた。
天は二物も三物も与えるのだ。
そう、たとえばあの目とか。奏多には見えないものが見えているから、それもたぶん神さまにもらったものだ。――だってみやちゃんは形栖の家の人だから。
みやが打ち上げたボールに、皆が注目した。
誰が動くのか、皆がわかっていた。
バレー部所属のリーダーが跳び、ボールを捉え、相手側に勢いよく打ち落とす。一点。
形栖家。
形栖家といえば、如月家も。
みやの許嫁の――奏多は個人の未来を縛るようなこの制度には盛大に意義を唱えたいけれど――如月蓮見は、いわずもがなこの『如月』だ。
両家の印象といえば。
「……うーん、名前だけは知ってる」
自問自答の余地もなく、大変によく聞く答えである。
奏多は、良くも悪くも一般的な若人だ。
ばうん、とボールが跳ねる。
相手が打ったものだけれど、ライン外だった。一点。
詳しいことは知らないけれど形栖みやはすごい人だから、ある意味では遠い人で、本来なら自分が友人だなんておこがましいのかもしれないと考えたこともなくはない。
だけどどうして彼女と友人でいられるのかといえば、それは――、
「……へ?」
奏多は、間抜けな声を発した。
ネットの向こう。
一心にボールを追っているみやを注視する。
じいっと。その胸部と、その上の首回りを。
見間違えかと思った。
白い腕がぬるりと、彼女に巻き付いているなんて。
視認した途端、周りの音が遠退いた。
どちらかのチームを応援する声も、チームメイトに指示を出すリーダーの声も、分厚い壁に遮られた様だった。
気のせいかと考えた。
誰も騒がないから。その異常を視ているのは、自分だけだから。
奏多はみやの方を向いたまま、顔を逸らすこともできずに、せめて眼球を動かして下を見た。がちがちに錆びたロボットみたいな動きだった。体育座りをしている自分の膝と、体育用の白いスニーカーと、その下にワックスで分厚くコーティングされた木材が見える。
それだけ。
いつもの日常の光景。
それなのに。
「……っ」
またそろそろと視線を上げて確かめてみる。
みやがサーブを打った。
その細い首周りに、後ろから抱き着くように、白い手が巻き付いていた。細い指が蛆虫のように滑らかに動いて、みやの体操着を探って、頬をべっとりと撫でて、気まぐれに首を絞めた。
奏多に見せつけているような存在感で、――だってそれは、この場において誰もが真っ先に気づかなければいけないほどの『白』なのだ。
血が通う人体ではおよそありえないほどの。
あれは――、
「……み、や……ちゃん」
――生きていない気がする。
体育館に閉じ込められた熱気とは違う、ねっとりとした寒気が、背筋を舐める。
奏多はごくりと唾を飲んだ。
今度こそ本当に、あれから目を逸らせない。
薄く開いた唇から「ぁ」「ぇ」と、言葉になっていない母音がこぼれ落ちていく。何よりあの腕を見ているのが自分一人だという現状が、奏多の思考を追い詰めていく。
あれにまとわりつかれているみやは、異変を察していない。
侵入するボールを止めようと、みやが跳躍した。
その足首を別の白い手が掴んで、
「みやちゃ――、」
がたんっ
大きな音がして、奏多は上げかけた声を切った。
コートの中でみやが膝を着いていた。前髪で目元が見えないけれど、顔色が悪い。
「大丈夫!?」
「どうしたの? 具合悪い?」
みやのチームの生徒が彼女に走り寄っていった。相手のチームも、落ちてきたボールを返さず止めて、心配そうに様子をみている。
「保健室行く?」
「無理しない方がいいよ」
リーダーがみやの背を擦った。
「いえ、大丈夫です。ちょっと立ち眩みしただけですので」
「本当? ……じゃあ、とりあえずこの試合だけ休んでよう?」
「……はい。すみません」
「謝んないでよ。いっぱい点取ってくれたし、」
「すみません、佐藤先生と形栖さんはいますか?」
体育館の入口に事務の女性が立っていた。
みやを壁際に連れて行こうとしていたリーダーはその場に止まり、首を傾げながらも、軽く背を押して行ってきていいよと示す。
体育教師とみやが事務の女性と話す。
生徒たちは三人を気にしながら試合に戻った。
奏多の休憩時間が終わった。
奏多のチームとみやのチームの対戦が始まった時、すでにみやはいなかった。あちらのリーダーが言うには、みやは事情があって帰宅したと言う。
「そういえばあの時、ちらっと聞いちゃったんだけどさー」
教室の廊下側の女子が、弁当をつつきながら言う。
友人の二人に向けているようだけれど、実際はクラス中がその話を聞いていた。
「隣には如月蓮見くんがいるでしょ? なんか倒れちゃって、そのお迎えに行ったみたい」
「えっ……? うっそ、許嫁ってそんなことすんの?」
「それ嫁じゃなくて、付き人よねぇ……」
今話題の男尊女卑、両家のしきたりがうんぬん、ていうかやっぱり両想いなのかな、そういえば前に相合傘してるの見たけど、タイプ違うけどお似合いだよね、でも形栖さんちょっと嫌そうな気もするけど、まあでも卒業したらアウトなんでしょ。
フェミニズムを語りたそうな女子と、彼らを眺めて楽しむ女子が、好き勝手に話を広げていった。
放課後になってもまだ日が高かった。暑くて息苦しい感覚がした。
汗で背中に張り付いた制服の感触が、何故か強く伝わる。
見えない誰かを背負っている。
そんなイメージが頭に浮かんで、奏多は一瞬呼吸を止めた。制服のシャツを後ろ手に剥がして、帰路を急ぐ。