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伊野上の話

 時を遡って、ちょうどひと月前。

 十月、平日だった。

 蓮見は朝から如月家の本邸に出向いていた。如月家御用達とも言える学校は、蓮見の定期的な休みにも対応する『理解のある』施設だ。

 蓮見が本邸に到着して少しした頃、ある女性が如月家に訪ねて来た。訪問にあたって小綺麗なブラウスとスカートを纏った、四十代ほどの主婦だった。


「これからお話を聞くのぉ。ちょうどいいからぁ、蓮見も同席しなさぁい?」


 とは、母親の命令である。

 母親と使用人に挟まれて心細そうに歩くその女性は、廊下で鉢合わせた蓮見を見て、そして親子の会話を聞いて、「自分は間の悪い時に来てしまったのか」という顔をした。

 けれど如月家への相談は基本的に予約制だ。この日時を指定したのは母親で間違いはないので、蓮見の定期報告と依頼者の相談が被ることを見越したのだろう。女性には何の咎もない。


 ――また面倒事だろうか。


 蓮見は、女性へにこやかに「お気になさらず」と返した。

 表座敷に案内された女性は、座布団の上で恐縮していた。視線が下に向きがちだ。目元にもうっすらと隈があって、疲れが目立っている。

 座卓の向こうに蓮見と母親が座ると、改めて頭を下げる。


「伊野上新と申します。三ヵ月ほど前に、絲倉町に引っ越してきました。私のような余所者の話でも、聞いていただけるのでしょうか」

「相談者に余所者も馬鹿者もないわぁ」


 相変わらず口が悪い。

 自分の口調は、母親にだけは似ていない。

 蓮見は、母親と依頼人の会話を黙って聞いている。


「そもそもこの町に住まうのなら余所者じゃないんだしぃ。そんな心の狭っちぃ理屈はお忘れなさぁい」

「……はい」


 母親は、伊野上に人差し指を突きつけて、


「前に住んでいたのが、そういうところだったんでしょぉ?」

「――!」


 伊野上は目を見開き、続いて困惑した。

 どうしてわかったのか、という顔だった。

 蓮見は隣の母親と伊野上の様子を眺めながら、心静かにお茶を飲む。庭で、鹿威しがかこんと鳴った。


「まあ、だからといって、気にすることはないわぁ。絲倉はねぇ、その辺は、ちょっと特殊な町なのよぉ」

「特殊、といいますと?」

「やっぱり知らないで引っ越してきたのぉ? まあそれでも、貴女のような人には住み易いのかもねぇ」


 蓮見の母親は、どこか含みのある言い方をする。もったいぶっていると言うのか、怪しさを匂わせる。声質も信じられないほど幼いから、倒錯的とも言えた。


「ここにはねぇ、二つの有名な学校があるの。この子はそのうちの一つ、『絲倉学園』に通っているわぁ」母親の目が蓮見を一瞥して、「あと一つは『白雪女学園』。どちらも国内では有名よねぇ。学園には寮があって、遠方からの生徒は在学期間中の滞在も可能なの」蓮見にとってはわかりきった事実を、依頼人にわかりやすく解説していく。


「外部からの入学者とほぼ同じ数だけ卒業して、絲倉の流入も流出も一定。その一方で、古くからの住人もしぶとく残っているわぁ。つまりここは、土着の人間と外の人間が入り混じる町なの。その温度差も文化の違いも、ある程度は折り合いを付けられる。そういう町民性ができている、というのかしらぁ」


 ここは『停滞』と『進歩』が入り混じった町だ。

 伊野上は「はぁ」と訝しそうにしている。

 母親は構わずに、「だからねぇ」と満面の笑みで核心に触れる。


「気にすることはないのよぉ。あなたの、染みついた獣臭さも」


 母親の言葉に、蓮見の呼吸も一拍止まった。やはり、と思った。けれど特に言うことはない。自分がこの場で発言するとすれば、母親に促された時のみだ。

 蓮見が伊野上を窺い見ると、――狼狽えていた。顔を青くして、己の髪を弄っている。焦った時の癖だろうか。

 母親は追撃する。


「四国の、どこかの村にいたんじゃなぁい?」


 俺でもこんなに無慈悲じゃない、と蓮見は思う。

 村。今はあまり言わないけれど、一昔前なら集落を指すのだろう。隠したかっただろうに。

 蓮見は、絶句している伊野上に、うちの母親がどうもすみませんと心の内で謝った。同情はしない。



「伊野上さん、ねぇ。いのうえ、じゃなくて、本当は『いのかみ』――犬神から派生したんじゃないかしらぁ?」

「そんな、ダジャレみたいな……」

「この国の人って昔から言葉遊びが好きでしょぉ。語呂とかそういうのを合わせたりねぇ。特定のならわしとか、信仰とか? そういうものを捨てられない場合、中途半端に一部分を残して、無害そうな皮を被るの。真面目で切実なんだからぁ。特に被差別家庭とかは、ねぇ。『犬神憑き』とか、有名でしょう?」


 猛攻が止まらない。


「土地には、特有の臭いがあるわ。そこに住む人間にも。その臭いを引き連れている限り、貴女は『それ』から逃げられない」

「……どうすれば逃げられますか?」


 伊野上は怯えていた。

 蓮見の母親か、己の出身か、あるいは両方か。追い詰められていて、今にもふらりと走って道路に飛び込んでしまいそうですらあった。

 さてどうやって収拾を着けるのかと、蓮見は横目で母親を見る。この当面の対処として適当なのは、――臭いの上書きか。


「この町の臭いで、上書きしてしまえばいいのよぉ」


 母親の言葉は、いつも淀まない。

 何せここは、『様々な事情』が入り乱れる街だ。

 蓮見の中で予想していた対処法が母親の意見と合致して、ほっと息を吐く。まだ修行中の身なので、答え合わせは大切だ。

 拍子抜けしたらしい伊野上が、


「臭いの上書きとは、どれほどで……?」


 小さな希望を見つけた、ささやかな声だった。


「さあねぇ。それは人によるわぁ。……それで? どうしてあなたは、この町に来たのぉ? 田舎が嫌になっちゃった? 何がそんなにダメだったの?」

「……夫、が。……少し、おかしくて」


 伊野上が言うには。

 犬神憑きは彼女ではなく、夫の家系なのだという。


「私は元々、あの村では歓迎されていませんでした。引っ込み思案というか、ネットで言うコミュ障、というやつなんです。生まれつき。……そんなだから、あの閉鎖的な場所では馴染めずにいて」


 伊野上は、おどおどと落ち着かない視線を下にやって、テーブルの一点を見つめた。人との交流に苦労していなさそうな如月母子とは、目を合わせまいとしているようだった。

 そうして、語り始める。


 ――私は東北の生まれでした。田舎です。

 そこでも色々なことはあったけれど、生まれ育った町ですから、普通に暮らしていました。友人もそこそこいて、勉強もそこそこです。

 大学を卒業した私はある時、一念発起して、西の方に移住しました。

 

 大人しい女性が一人、家を出て遠いところで優しい人に出会い、なんだかんだいってうまくいって、その地域に受け入れられて、一番始めに出会った男性と喧嘩しながら近づいて、結婚して、幸せになる。


 そんな話が溢れているでしょう。

 私もその手の映画だとかドラマだとか、人並みには知っています。

 だからきっと、自分もうまくいくと思っていました。私も田舎の生まれなんだから、きっと馴染めると。

 そうして私は、あの村……いえ、集落、と言ってもいいようなところに移住しました。

 

 知っていますか。本当の田舎って、そこに移り住んでから何年経っても、余所者は余所者なんですよ。たとえ孫の代だろうと。先祖代々その地にいなければ、決して認められない。そんな場所に、世間知らずの若者が一人ふらりとやってきたら。

 ……わかるでしょう。

 でも、きっとご想像よりは穏やかなものだと思いますよ。回覧板が回ってこないとか、集落の行事を誰も教えてくれないとか。無視をされるだけ、というか。

 商店に行けばものを売ってはくれるし、聞けば答えてくれます。

 こう言うと、都会もそうだよ、みたいなことを言われるのでしょうね。東都や、京のいわゆる学生アパートとか。隣人に無関心で、アパートの薄い壁をドンドン殴られたりしなければ、敢えて話すこともない、というような。


 でもね、それとは違うんですよ。


 他人同士が集まるのが都会です。都会にあるのは、消極的な無関心です。

その必要が無いからとか、どうせ他人だし、みたいな、一種の合理主義みたいな空気が充満してる。

 あの集落と違って「絶対に関わるものか」みたいな気負いがない。

 わかるでしょう。

 陰湿さが全然違うの。

 けれど私は、そこで肩身を狭くして生きるしかなかった。


 ある日、私は彼に出会いました。

 集落で一番大きな家に住む男性でした。初めて好意的に声をかけてくれました。私はすぐに彼に惹かれて、間もなく結婚しました。


 始めは、夢のようでした。

 義両親と同居になってしまうけれど、何も気にしなくていい。君は働かなくてもいい、一生養ってあげられる、お金もある、何も苦労はさせない。その言葉を信じました。そしてその約束の通り。そこの嫁でいる私は養われてはいたし、苦労はしなかったし、お金もある様子でした。


 けれどその家では、おかしなことが多かった。

 結婚してから知った。気が付いた。

 家の中が妙に獣臭かったこと。男性が、他の住人たちと話しているのを見たことが無いこと。入ってはいけないと言われた部屋に一歩でも入った時、姑に初めて怒鳴られたこと。その理由を説明してくれないこと。そういえば結婚式、三々九度の時に飲み下したお酒が少し鉄臭かったこと。家をお掃除すると、飼ってもいない犬か猫の毛が無数に落ちていたこと。たくさんあった。変だと思ったこと。たくさん。あったのに。


 ……。

 そして。

 ……そう。


 結婚して、五年目か、六年目か。

 それくらい経った頃。

 深夜でした。


 異様に喉が渇いて、水を飲みに立ちました。

 長い廊下を一人で歩きました。台所はその先にあります。その道のりの途中に、例の「入ってはいけない部屋」もありました。もう二度とその部屋に立ち入らないと強く心に決めていましたから、私はそちらを見ないように通り過ぎようとして――。

 視界の端に、違和感がありました。

 その部屋の襖が、開いていたのです。五センチほどでしょうか。真っ黒な隙間。

 ……さっき見た時は、確実に閉じられていたのに。

 好奇心よりも、私は怖かった。私はすぐに立ち去ろうと、何も見なかったことにして足を動かし、


 ごとん。


 部屋の中で、何かが鳴った。重い何かが落ちる音だった。

 ひ、と小さく、喉が鳴る。

 怖かった。同時に、その物音で私の頭が冷やされた気もしていた。

 この家への不信感、彼への不信感、この集落の気質。こんなにも不安に感じていたのに。私はどうして、この集落から出られないなんて思っていたのだろう?

 目が覚めた心地です。けれど決して、清々しくはなく。

 何と言うのでしょう。

 あれは、そうですね……臭いものに蓋をしたゴミ箱を目の前にしている、そんな得体の知れない不快感です。


 吐き気を催して、その場から動けなくなった。日本家屋の有機的な薄暗さ。深夜の湿った静寂。その中で、私は息を詰めて突っ立ったまま。

 そしてどうしてだか、よせばいいのに、僅かに開いたその部屋を確かめずにはいられなくなりました。

 生唾を飲み込んで、私はその部屋に近づきます。じりじりと、呼吸も忘れて。

 たった五センチの隙間。その戸に手を引っ掻けて、すうっと横に滑らせる。

 室内から、冷たい空気が逃げていきます。

 月灯りが射したそこは、一見普通の和室です。ただ真ん中に一つの鏡台が置かれていました。ええ、通常であれば壁に沿って置かれているであろう、大きなものです。

 鏡の前に、白無垢を着た女性が項垂れて座っていました。綿帽子を深く被って、ぼろぼろの座布団の上に。俯いている女の顔は、陰っていて見えません。こちらには背中を向けていて、その姿は鏡面でしか確認できませんでした。

 その女が顔を上げます。

 

 ぐ、ぐ、ぐっ、


 かくかくと首を軋ませながら、徐々に。機械的な動きで。綿帽子の下から、その白い顔が露わになっていく。鏡にそれが映っている。


 ――顔を見てはいけない。 


 と、思いました。


 ――悪いものだ。これはいけない。


 そう考えながら、私はその場から動けなかった。立ちながらにして、金縛りに遭ったように。

 私に霊感なんてものはありませんから、当然のことながら、初めての経験です。

 だから、その恐怖を理解することすら難しい。言語にすることも。そしてその顔が上がりきる前に、ずっと遠くで『犬の遠吠え』がして。私は弾かれたように、その場から逃げ出しました。喉の渇きなど忘れて布団に潜り、そのまま夜を明かしました。


 それが、一日目。

 ここまではまだ大丈夫。

 その部屋にさえ近寄らなければ。

 姑の言いつけを守っていれば良いのだと。




 それから一ヵ月ほどした、ある夜。


 目が覚めると、真っ暗な部屋にいました。

 ええ、あの和室です。あまりに暗いので最初はわかりませんでしたが。

 目の前に、あの鏡がありました。

 私は鏡の前に座っていたのです。

 そう、ひと月前にあの女性が座っていたのと同じように。

 灯りもないのに、不思議なことに、目の前の鏡だけははっきりと見えている。そこに映っている私の顔と、背後に立つ女性の姿まで、はっきりと。

 印象的な白無垢、綿帽子。その装束の胸元が、血を吐いたように真っ赤になっていることに、この時初めて気が付きました。


 ――――、―――。


 女がぼそぼそと、何かを呟いています。頭上から、その湿った声が落ちてくる。

 内容は聞き取れません。

 視線を動かすこともできません。鏡面の上部には、きっと女の顔が写っている。視界の上に、その白さが見えている。

 ――見てはいけない。直視してはいけない。理解してはいけない――。

 胸中でそればかりを反芻する自分の顔は、死んだように真っ青でした。

 やがて。

 その女が動きます。


 ぐ、ぐ、ぐ――。


 最初は、顔を前方へ。そして機械的な動きで、下を向く……私を見る。

 真上。視線を感じる。

 女がそのまま、ゆっくりと、私を覆いこむように、腰をきしきしと曲げて、大きくお辞儀をするような恰好で、


 真上から、私を覗き込もうとする。


 そこで一度、意識が途切れました。

 犬の遠吠えで目を覚ますと、朝でした。締め切られたその部屋には、襖の隙間からぽつぽつと日光が射すだけ。私は鏡の前に倒れたまま、眠ってしまっていたようです。

 無心でした。呆けていた、というのでしょうか。過ぎた恐怖が感覚を麻痺させたのか。

 私は自分でも不思議なほど落ち着いて、とにかくその部屋を出ようと立ち上がり、襖を開けようとして。

 その襖に、ガムテープが目張りしてあったことを知りました。

 内側から、隙間なくびっしりと。

 無理やりこじ開けられた後のように力なくぶら下がったテープの先が、どうしてか、あの白無垢を思い起こさせた。

 ――そこで、恐怖が一気に弾けた。

 意味のわからないことを叫びながら、私はその屋敷から逃げ去りました。


 ふらりと外に出て、しばらく歩いて。

 集落のある夫婦の会話を、耳に入れました。


「余所者で良かった」

「うちの娘が娶られなくて良かった」

「独り者で助かったね」

「あんな家に、うちの娘をやれるわけがないから」


 これが、この村のやり方なの。私はそう思いました。


 西日本。特に四国の一部では、婚姻前に家筋を調べる風習があるそうですね。

 だからさっき「犬神」と言われた時、本当は、ああそうだろうなって思ったんです。

 そうですよね、犬神憑きの家とは、一緒になんてなりたくないですよね。

 でも私はそれを知らなかった。

 集落の誰も何も教えてくれなかった。

 ……あの時の夫婦の会話の意味、私、いま初めて知ったんです。

 そっか。

 みんな、なにも教えてくれなかったんだ。

 私に。何も。……何も。


「そういえば」


 語りながら顔を俯けていた伊野上は、はっと顔を上げた。


「あの場所で一度も、犬を見ていません。小さな集落とはいえ、誰か一人くらいはペットを飼っていそうなものなのに。ああ、犬だけじゃない、猫も。兎も。何も、何も、あそこには本当に住人しかいなかった。今になって、まだたくさん、おかしいところが見えてくる」


口内でくぐもらせた声色。

これまで溜め込んでいた不安を少しずつ零していく。


「……あの家を出た後で、夢を見るようになったんです。あの家に戻る夢。夫や義両親が真顔で見守っている中、私はあの部屋まで歩いていく……」

「戻りたい?」

「まさか」

「そう。それであなた、何を持ってきたの?」

「ッ!」


伊野上の肩が、激しく跳ねた。ぱっと顔を上げて母親を見ると、何かを言いかけて、すぐに沈黙する。言いあぐねた末に、持っていた風呂敷包みを座卓に置いた。

話すより、見る方が早いと思ったのだろう。

それがゆっくりと解かれる。桐箱だった。蓋が開けられる。

黒いカビが繁殖した、白い着物。――白無垢だ。


「ぅ」


蓮見が小さく声を漏らすと、母親が揶揄う口調で「きつい?」ときいてくる。


「……いえ、まだ」


見ていたくはない。明らかに悪いものだとは思う。吐き気もしてくる。けれどまだ耐えられる範囲だった。

どうしてこんなものを前にして、そんなに平気な顔ができるのだろう。蓮見は時々、この母親のことが恐ろしくなる。

この白無垢からは、獣の涎と、焼け焦げた髪か何かを混ぜた臭いがする。


「これは?」

「この町に逃げてきて、一ヵ月くらいした時に、家の前に置かれていたんです」


 ――桐箱に入って、玄関の前に。


「ちょっと買い物に出ている隙に」

「家も知られているばかりか、監視されているようね」

「…………。」


 言われなくても分かっているだろうに。

 追い打ちをかけるのは止めてあげてほしい。


「それはあなたが着たもの?」

「そう、だとは思います。あまり覚えていなくて」

「あなたが屋敷で見たという白無垢の女と同じ?」

「わかりません。あの時は、柄なんて気にしている余裕もなくって」

「ふうん。これが玄関に置かれていたって言ってたけど、こんなに傷んでいたの?」

「いえ。これが置かれて、今は……二ヵ月くらいですけど、真っ白なままでした」

「たった二ヵ月でここまで傷まないものよねぇ、普通は」

「っう、嘘じゃないです!」

「誰も嘘だなんて言ってないわよぉ。――蓮見」

「はい。失礼します」


 蓮見は立ち上がって、それを手に取った。手にずっしりと重みがくる。

 保存状態が悪い、どころではない湿気を感じた。雨に濡れた着物を生乾きの状態で畳んだようだ。


「白打掛、ねえ。掛下や小物類は?」

「それだけです」


 蓮見は会話を聞きながら、それを見ていく。広げると、黒黴の割合が想像以上に広かった。白を侵食する黒。神の前で誓われたのであろう婚姻が、虚しいもののように思える。

 蓮見の心に一瞬、己の許嫁の顔が浮かんだ。――大丈夫、自分たちには関係のないことだ。

 黒の割合が一番濃く、最も嫌だと感じる箇所を探して、


「深山、糸切り持ってきて」


 襖の外から「少々お待ちを」と声がする。

 ほどなくして黒服の男、深山から糸切りを受け取った。下がろうとする男の背後に「穢れがある。深山以外は下がっておいた方がいい」と付け加えた。途端、部屋の周囲から二人ほどの気配が去った。この屋敷の使用人のほとんどが、如月家直系の人間に従順だ。

 きしり、と張り詰める空気。緊張感に、伊野上はますます縮こまった。

 蓮見は糸切りを片手に構えながら、


「これ、解いても構いませんね」

「え、ええ」


 状況のわからない伊野上に一応は確認を取ると、蓮見は迷いなく、その白無垢――もう無垢という名称は似合わない忌物に、手を加える。

 襟だ。

 元の白地がわからないほどびっしりと黒黴を生やし、その周囲も黄ばんでいる。

 襟の縫い目を見つけ出し、蓮見は容赦なく糸を取った。

 袋状になっている襟の中。

 真っ黒な和紙の小さな包みがあった。それを広げてみる。

 以下のものが入っていた。


 ――束ねられた髪と、獣の毛。

 ――人の奥歯と、獣の牙。


「それにこの紙も……」

「獣の涎に漬けられているのね」


  元白無垢の上に広げられた黒い和紙、その上にころりと転がる、明らかな『呪い』の証。


「呪われてしまったのねっ? かーわーいーそーおっ」


 伊野上は、今にも失神してしまいそうだった。

 結婚式という神聖な儀式を穢された。

 伊野上は気絶すらできないようだ。幽鬼の表情をして、ぼそりと呟く。


「本当に異常なんです、あの家は」

「異常、ねえ」


「なんで私はあんな家に入ってしまったのか」「ありえない」「こんなところまで追ってくるなんて」

 半ば狂乱しながら顔を覆う彼女を前に、母親が言う。


「犬はマーキングする生物だもん。どこに行っても臭いを辿ってこられちゃうわ。ここに暮らせば臭いは薄れる、とはいえ時間がかかりすぎるし。もう見つけられてしまっているのなら、また隠れるのも難しいかしらね?」

「どう、すれば」

「呪いは返すに限るわ。それをすると、あなたの夫とやらがどうなるかはわからないけどねぇ」

「返す。……できるんですか、そんなこと」

「がんばるわ。うちも慈善事業じゃないし」母親は人差し指と親指で輪っかを作り、「相応のコレはいただくけど」とウインクする。


「絲倉の住民だし、わ・り・び・き、だぞっ」

「あ、ありがとうございます……?」

「それとね、一つ聞きたいのだけど」

「はい」

「あなたのご両親とご実家は?」

「…………。」


 黙り込んでしまった。

 ぐ、と噛み締められた唇は少し白くなった。恨みか後悔か悲しみか、そんな良くない類の感情であることは見て取れる。


「ふぅん……。まぁいいわぁ」


 伊野上の反応を気にもせず、軽薄に微笑む母親を、蓮見は怪訝な目で一瞥した。明らかに何かあるだろうに、この余裕は何なのだろう。

 それからは、仕事の話になっていった。


 蓮見は黒い包みを残して白無垢を折りたたみ、桐箱にしまい込むと、手を洗いに行った。再び部屋に戻ったけれど、蓮見が入る余地のない金銭的な話になっていた。

 菊花の練りきりを一口ぶん切り出して、口に含む。上品な甘みと滑らかな舌触りに、一点の欠けもない。けれど、彼女がいるあの屋敷で食べた方が、きっと美味しかった。


 伊野上の夫が彰人であること、写真、行動。聞き出せることをすべて聞き出して、支払いは前金と後払いの二分割になること、生活を自粛する必要はないこと、問題があったらすぐに知らせること。お決まりの注意事項を淡々と告げた後で、母親は伊野上を帰した。

 母親の仕事だ。

 蓮見はこの件に関わるつもりはない。この夜に母親の『呪い返し』を見学したら、時刻はもう夜の八時近くなっていた。

 いつもの座敷で、いつものように定期報告を完遂した。

 ただ。


「これで、終わった気がしません」


 疑わしいというか、嫌な予感がするというか。如月家特有の直感よりも、経験則じみた確信がある。「この後にも、何か……」という蓮見の問いに、母親は「そぉねぇ」と首肯した。

 座卓に行儀悪く頬杖をつく母親と、生真面目に背筋を伸ばす息子。


「呪いを返すということは、新たな呪いを産む可能性があるわねぇ。かつての形栖家が、そうして自滅していったように」


 如月家が気に入らないという理由で呪い、呪い返されて、それで終われなかったあの家のように。

 伊野上に向いた呪いは問題なく返した。次に警戒するのは――逆恨み。

 憑き物筋ということは、大なり小なり呪いの知識があるということだ。この件を発端として、呪い合戦に発展する可能性もなくはない。


「ねぇ蓮見?」

「はい」

「うちは、祓うためならなんだって、どんな流派にだって手を出すわ。それでなんとかなるなら、聖水だって消臭除菌スプレーだって使う」

「はい。けれど……」

「ええ、『憑き物筋には手を出さない』」


 如月家の取り決めの一つだ。

 犬だけでなく、イタチ、狐、猫、この国中に希少ながらも点在する憑き物筋、その全てに干渉しないこととしている。 

 ただ仕掛けてくるのがあちらであれば、知らないふりもできない。


「何か欲しいものはある?」


 おもむろに、母親が言った。

 蓮見はこの先をうっすら察した。母親が要求を訊ねるのは、案件を丸ごと、または一部を任せてくる前振りだからだ。


「なんでも言いなさいなぁ。いつもの通り、お小遣い?」


 蓮見は一秒も考えることなく、己の望みを心に浮かべた。到底『お小遣い』という金額ではないお小遣いをもらうよりも、やりたいことがある。


「折を見て、彼女を『外』に連れて行きたいと考えています。許可をください」


 いただければ嬉しい。

 ではなくて、

 ください。

 言葉に強い意思を込めてしまった。それに気付いたのか、母親は「外、ねぇ」と溜息を吐き、「貴方はほんっとーにみやさんのことしか考えてないのねぇ」


「以前にはあの屋敷の敷地内に俺の離れを建てていただきましたし、個人的な物欲も持ち合わせてはいますよ。人間ですから、それなりには」

「はいはい。でも、外ねぇ? んまぁいいでしょ。籍をうちに入れて、事務的なごたごたが片付いてからにしてねぇ」

「ありがとうございます」

「こうまでするんだものぉ。報われなさいよぉ?」

「もう十分に報われていますので」

「あらあら、無欲だことぉ。今時の子はハングリー精神がないわぁ」

「主語を大きくするのはご法度ですよ」


 そろそろ帰りますと席を立つ蓮見に、母親は「お土産でももらっていって」と。手渡された紙袋には『九六堂』とある。カスタードプリンや卵の風味を生かしたカステラなどを得意とした、最近話題の和洋菓子店だった気がする。


「これは?」

「前にちょっとお話した議員さんから。美味しいわよぉ」

「ありがとうございます」


 今日は甘いものを食べられる気がしなかったけれど、みやに渡せば喜ばれるはずだ。

 みやは、まだ蓮見に慣れてくれない。けれどおいしいものを口に入れた瞬間の、淡く綻ぶ表情は、想像するだけで甘い心地になれる。

 我ながらいじらしい発想だ。

 早く帰りたい。

 はあ、と大きく溜息を吐いた。呼気が変に作用したのか、咳が出た。風邪もひいていないのに、乾いた咳を三回ほど、繰り返した。


 ――伊野上新の依頼を受けて、呪いを返してから、一ヵ月。

みやの右目が傷付けられた。彼女に接触したあの男は、やはり伊野上家の長男。新の元夫だ。

 蓮見は彼を写真で見知っていたし、名前も分かっていた。もちろん写真よりもずうっと窶れてはいたけれど、返された呪いを処理しきれなかったのなら、さもありなん。

 男は間もなく死ぬだろう。

 因果応報だ。

 蓮見は男を見放したし、伊野上家の末路などどうでもよかった。

 その余裕は、翌朝に一転する。


「……あれ?」


 毎朝部屋に来る彼女が、今朝は来なかった。

 みそ汁の匂いも、卵焼きの香もしなかった。足音すらも。

 しんと静けさだけが満ちる廊下を、蓮見は寝間着に上着を引っ掻けて、速足で突き進んだ。


「開けるよ」


 そうして訪れた彼女の部屋。

 その布団の上に、彼女は静かに眠っていた。身じろぎ一つ、呼吸一つもせず。

 死んだように冷たい彼女の肌に触れた途端、蓮見は理解した。

 伊野上家の恨みが、形栖みやに飛び火したのだと。



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