良い話と悪い話がある
角膜に傷がついてしまった、らしい。
「えっと、しばらくは目に薬を入れ、その上を眼帯で覆い、できるだけ瞬きをしないように。一週間したらまた来てください。細菌が入らなければ失明の恐れもないので、入院の必要もない……とお医者様が」
みやは医師の言葉を思い出し、報告していく。
待合室の長椅子に座っていた蓮見は、それを聞いて軽く息を吐いた。「大事にならなくて良かった」という言葉通り、彼には心配をかけてしまっていたらしい。みやが「ここで待っててください一人で大丈夫ですぜひ一人で行かせてください」と主張しなければ、診察室までしれっと付き添おうとした彼である。
これは子供扱いではなく、彼なりに大事にしてくれているのだとみやは知っている。
――『初めて君の絵を見た時から、君が好きだ』
この恐ろしい言葉を、忘れられるわけがないのだから。
それにしても真っ白な病院内での和服は、些か個性が強い。他の患者やミーハーそうな看護師の目が、物珍しそうにちらちらとこちらに向いている。
「処方箋は?」
「お会計の時にもらえるそうです」
「そう。じゃあ帰りに薬局に寄って行こう。お茶菓子も買って帰ろうか」
「お茶菓子」
「今日はね、みやに少し話があるんだ。こちらの事情で悪いけど、下手をすれば長くなる」
彼の声が固い。
なんだろう。自分に何か不手際があったのだろうか。
――許嫁関係の解消、とか?
気になるけれど、ここでは問わない。秘密主義な如月家の「大切なお話」をみやから問うのは、失礼な行いだ。
それから家まで、問題はなかった。
車内で「学校では問題ない?」「はい」「テストでわからないところがあったら教えられるからね」「今は大丈夫です」とかいう、不器用な父親と思春期の娘みたいなやりとりがあった程度だ。
制服から普段着に着替えた。今日は秋らしい黒地に、十五夜の月の模様が前身ごろに大きく配置されたもので、どちらかといえばモダンなデザインだ。
支度が済むと、すぐに廊下を回って座敷に向かう。
障子は開いていた。すでに彼がいる。
広いテーブルには、お茶菓子と湯気の立つお茶が用意されていた。
「入って」
「はい。失礼します」
障子戸を閉じて、みやは空いている座布団に座った。
対面する彼はいつものように、春のような雰囲気を纏っている。お茶で喉を潤す彼の視線が微かに下向いて、ふ、と躊躇いの色が見える。
身構えているみやも、ここで「おや」と思う。
――もしかして緊張している? 不安を感じているの?
如月蓮見ともあろう方が、何をそんなに恐れることがあるだろう。
やはり話とは、関係の解消だろうか。巷では婚約破棄がどうとかいうファンタジー小説が流行っていることを、みやは知っている。
そうした場合、自分はどうなるのだろう。
そんな風に深まっていくみやの思考は、蓮見の声で中断させられる。
「良い話と悪い話がある、って洋画っぽく始めたいところだけど、肝心の話は一つだけだし……、みやにしてみれば悪い話かもしれない」
洋画っぽく始めなければいけない理由もないので、みやは「まあ」とお上品に返しておいた。どんな話も応じなければいけない。
――たとえ彼との同棲生活が終わってしまったって、怖いことなどない。自分は誰かの意向に従うだけ。だから大丈夫。むしろそれなら――彼から解放される。
みやなりに覚悟を決めて、頷いた。
蓮見は数瞬だけ躊躇い、けれど彼女を真っ直ぐ見て、
「俺が高校を卒業したら、式を挙げることになった」
「……はぇ?」
みやらしからぬ声が漏れた。
しきをあげることになった。
「……どなたの、ですか?」
「俺たちの」
「蓮見さまと、」
「みや」
「……………………………………………、………? ……あら、まあ」
「思考を放棄しないで」
みやの脳が無意識に甘いものを求めたので、お茶菓子をいただいた。品の良い甘みと栗のほっくりした食感が見事な、栗蒸し羊羹である。
漆塗りの和菓子切は使い慣れているとはいえ、眼帯をしたままではやや扱いにくい。
菓子に苦戦しながらじっくり味わい、こくりと飲み込み、
「お話はわかりました」
とりあえず返答した。「えー」と「あー」を全校集会の校長先生のように繰り返しながら、現実を徐々に受け入れていく。
「それは如月家の決定ですか?」
「母はそう言ってる。俺は……、それはどうかな、と思ってる。君はまだ高校生活が残っているし、待ってほしいなら、交渉はしてみようと思う」
「蓮見さまも大学には行かれるのですよね」
「そのつもりだよ」
「お互い、学生結婚というやつですね」
「そうなるね。だけど大学と高校とでは、扱いが違ってくる」
高校生が結婚することも、なくはない。ただ非常に少ない。揶揄いやいじめの対象になるケースもある。蓮見は常識的な意見を淡々と語り、
「どうしたい?」
問う。
みやは答える。
「如月家の意向として、退学の必要はないのでしょう?」
「今のところは」
「承知しました。大丈夫です」
「……いいの?」
「学園の生徒たちは、私の事情は少なからずご存じでしょう。結婚相手が決まっていることも、卒業したら夫婦となることも、公然となっています。その予定が早まっただけですし、皆さんも変わらず接してくださると思うのです」
「そう。それじゃあ、みやの気持ちは?」
問題なく流れていた問答が、そこで止まった。
みやがぴたりと口を噤むと、追撃がある。
「周囲のことについては、問題ないと受け取った。みやは、本当に大丈夫?」
俺と一緒になって平気? と聞きたいのだろうか。……違う。彼の穏やかな目つきの奥に、意地悪な光が見え隠れしている。
みやは、彼の正しい質問を受け取った。
――君を愛している俺と、一緒になる覚悟はできた?
できているわけがなかった。「婚姻自体は、最初から決まっていたことですから」と微妙にずれた返答をするので精一杯だった。
彼に愛されるのが怖い。
そして自らも彼を愛してしまうことが、一番怖い。
「花嫁衣装は、みやの着物の最新の採寸結果で作っている。今から大幅に肥えることも痩せることもないように、重々気を付けてほしい。衣装合わせのために、今月末に如月の本邸へ戻れとも言っていた」
「それは構いませんが、今月末ですか? 衣装はそんなに早くできないはずでは、」
そこでみやははっとして、
「申し訳ありません。如月家の意向に逆らう気はないのです」
「わかってる。俺もそこには疑問があったから」
想像よりずっと早くに、予定時期の繰り上げが決まっていたのだろう。内々に話を進め、断れない段階になってから蓮見に命じたのだ。昨年、みやが刺繍の柄を決めた時から、如月家はそうするつもりだったのかもしれない。
みやも蓮見も子供の内だ。大人の事情に翻弄される。
「式は桜が咲いているうちに済ませるということだよ」
外から、冷たい秋の風の音が聞こえた。
桜が咲く三月下旬の結婚式を想定すると、あと半年もなかった。
「式の日取りは、春休み中と考えても良いですか」
「おそらく」
「承知いたしました」
「それと、事務的な手続きで式がごたつくことは避けたいと。だから入籍自体は済ませておきたいみたいで、これも突然なんだけど、来年の一月だそうだ」
あと二ヵ月しかない。
絶句したみやに、蓮見は「その気持ちはよくわかる」と言いたげに頷いた。
「早いよね。だけど縁起の良い日にこだわって、それも式の前となると、どうしてもこの日しかない」
「……『天赦日』」
「そう、天がすべての罪を赦す日。この国で最上の吉日。君がこの屋敷に来たのも、その日だったね。おそらく式も三月の天赦日になる」
季節ごとに置かれるというその日は、年に五日から七日しかない。
それなら、入籍と式が月単位でずれるのも当然だろう。
「ごめん。これでも大安とか、一粒万倍日も提案はしてみたんだけど、……頑固なんだよな……」
「沙耶さまのお人柄は存じております。むしろ蓮見さまにお気を遣わせてしまって、申し訳ないというか」
如月家にいたみやは、蓮見の母親とも面識がある。如月家の現当主がマスコットキャラの皮を被った偏屈者であることも、多少は勘付いている。
二人は同時に溜息を吐いた。
「というわけで、俺からの連絡事項は以上。みやは何かある?」
「連絡事項というか、ご相談が一つ」
みやは、壁にかかっている時計を見上げた。
午後六時半を回っていた。
「今日のお夕食、どうしましょう?」
献立を何も決めていなかった。
今から作るのでも良いけれど、時間はかかる。
蓮見は一瞬考えて、「ちょっと待ってて」と席を立った。戻ってきた彼の手には数枚のチラシが抱えられていた。うどんの猫丸、宅配寿司の金の皿、ピザバット等々、チェーン店から街角の定食屋まで様々な出前メニューだ。
「観月から貰ったチラシを取っておいたから、今日はこのどれかにしよう」
「はい……っ」
みやの目が輝く。自分から店に行くのでもなく、自宅で作るのでもない食事とは、いったいどんなものなのだろう。存在を知ってはいたけれど、自分で頼んだことはなかった。
「どこに頼むか、同時に指を指そう」
「はい」
「いっせーの、」
満場一致で選ばれたのは、ピザバットだった。
人生で一度は食べてみたかった、ピザとかいうカロリー爆弾。ジャンクな味と、もっちり生地が特徴的な異国の料理。多彩なメニューから厳選して頼んだ『五種の野菜と四種のチーズデラックス』を嬉しそうに食べるみやと、興味深そうに眺めつつゆっくり味わう蓮見は、長い時間をかけてそれを平らげた。
ここに奏多がいれば「やっぱり仲良しなの?」と真顔で言われていそうなものである。




