君は俺の妻になる
みやの頬に手が触れた。
「大丈夫?」
蓮見だった。
「ちょっとだけ、変なことを考えていました。大丈夫です」
「ねえ、みや」
「はい」
「俺が嫌い?」
「いいえ」
みやが否定すると、蓮見は苦笑した。
「ごめんね」
蓮見はひとまず謝罪してきた。みやは、それを受け取らない。
「いいえ」
ノーだけ返す機械みたいだと、我ながら思った。
「……ごめんね」
なんのつもりかひたすら謝罪してくる蓮見は、みやに熱っぽい視線を送ってくる。優しくて濃厚で、感情が明け透けな瞳だ。この期に及んで、怯えの陰すら見せない。
みやは今、彼の首を絞めている。
どうしてこんな行動をとっているのか、自分でもわからない。計画的な犯行ではない。溢れてくる感情をどうにかしたかっただけだった。
彼を縁側に押し倒して、着物の裾からはしたなく右脚を剥き出しにして彼に乗り上げて、小さな両手で彼の首を囲って、喉元で親指を交差させていた。誰が見てもよくわかる加害者と被害者だ。あと小一時間もすれば、この縁側で美少年の死体が一つ出来上がっているだろう。
そろそろ死体になるかもしれない蓮見は、彼女の頬から手を離さない。指先でふにふにつついてみたり、滑らかな手触りを楽しんでいる。
この殺意すら愛おしいという瞳で見られて、さらに髪に触れようとしてくるから、加害者は手に力を込めた。
「っ……!」
彼の喉が、か、と小さく鳴った。
けれど恐怖に苛まれているのは、むしろ加害者の方だ。
加害者は、いま自分が下に敷いている被害者が恐ろしくてたまらなかった。呼吸が荒く、全身がかたかたと震えて、みっともなく怯えている。
「ねえ、お願いです」
怖くて怖くて、たまらないから。
「名前を、返して……っ」
名前を、意思を、世界の色を、返して。自由にして。
結婚なんてしたくない。
訴えるけれど、こんな感情すら、彼には受け入れられてしまう。
彼の優しさは愛に溢れている。本当に、生存本能がある生き物なのかと疑ってしまうくらいに。被害者として正しくない。彼はこの場において、どうしようもなく間違っている。
みやは、彼の愛情が怖い。
やがて彼は、自分の帯に手を伸ばした。いつから用意していたのか、取り出した鋏を握る。さすが如月家の血筋の者だ。母親と同類だ。こうなることを予想できていたのだろう。
その鋏で、自分は刺されてしまうのだろうか。それでもいいと、みやは思う。
けれど彼の行動は、みやの予想と大きく外れていた。
自分の後ろ髪を乱暴に握って、一切の躊躇もなく、一息に――切ってしまった。
「……え?」
あまりの予想外に、みやは驚いて手を放してしまう。
彼はみやに馬乗りにされたまま、今しがた切った髪を見せつける。
「もう二度と、君の忌み名は使わない。この髪に誓って。……こんなもので悪いけど、俺には他に何もない……ていうか、俺が持っているものは、これしか知らないから」
髪は大事なものである。濫りに切り落としてはいけないものである。それは如月家の教えだ。
蓮見はみやと同じ、箱入りの子供だ。大事なものとそうでないものを、如月家の基準でしか判断できない。彼女への誓いとして最適なものを、蓮見は植え付けられた知識の中でのみ探し出した。
髪を切ったからなんだというのだ。どうせまた生えてくるものを苦痛もなく捧げたところで、説得力を持たない。彼女の――実感した恐怖に対する謝罪としても、誓いの担保としても、とても満たないだろう。
ごく一般的な感覚として。
みやは、彼の行動に素気無く目を逸らすことすらできる。
――それほど無意味な行動なのだと、彼は自覚しながら、
――それでも私が絆されてしまうことすら、お見通しなのかもしれない。
彼の行動の逐一に、みやへの信頼と打算が透けて見える。
「……貴方は」
みやは呻くように、
「貴方はどこまで、私を追い詰めれば」
彼女の頭に手が置かれて、そのまま下に引き寄せられた。蓮見の上にうつぶせにさせられたみやは、抵抗する気も起きない。みやは彼の着物にしがみついてすすり泣きながら、己の恨みつらみを彼にぶつける。彼は彼女の下で布団になって、服が彼女の涙でじわじわ濡れていくのを黙って受け入れる。
「お願い、かえして」
「できない。君の名前は返せない。だからこの目も返せない」
一刀両断だった。三断にも四断にもされた。
――それなのに。
――彼は、こんなに酷いのに。
「私は貴方を頼って、優しくされて、そんなことを繰り返したら、私は……っ」
――私は。
「本当に、」
――彼を愛してしまう。
「……お願い」「あんな風には、なりたくないんです」「わかってます。あれが普通ではないことくらい。仲の良い夫婦って、きっと幸せなことで、喜ぶべきで、私が見たものが……、私の両親が、間違っていたんだって、わかってるんです。理解していて、それでも」
愛し合った男女の成れの果てに、あの地獄があるというならば、みやは彼らをなぞるわけにはいかない。怖いのだ。脳裏に焼きついた彼らの声も、時折思い出してしまう腐敗した生焼けの鶏肉の生臭さも、みやを戒める。
「貴方が、私を好きと言うなら、私は貴方と仲良くなりたくない。貴方を好きになりたくない」
「そう。君はとても怖がりだね」
両腕で彼女を抱き締めている残酷な布団は、彼女を離そうとはしなかった。
「ごめんね。それでも君が好きだよ」
「蓮見さまのお気持ちには、応えられそうにありません」
「さっきから聞いてると、俺のことが好きって一生懸命告白してくれているみたいで可愛かったけど」
「告白なんてしてないです」
「自覚がないのも可愛いね。今は……、いや、この先も、それでいいよ。ずっと怖がっていればいい。君がどんな答えを出しても、未来はどうせ変わらないから」
未来。
みやは顔を上げて、彼とまともに顔を合わせた。
「君は俺の妻になる」
それは絶対だと、如月家の嫡男が予言する。
みやの胸に、こみあげてくるものがある。吐き気か怖気か、それとも歓迎してはいけない部類の感情であるのか、わからない。それが苦しいのは事実だから、みやはただ一言、彼に願う。
「私を、愛さないでください」
蓮見は、暗い部屋の許嫁に初めて会いに行った時と同じように、泣きそうな顔で言う。
「ごめんね」
――紺碧。
みやには、彼の瞳が鮮やかに見える。みやの色彩への執着が、自縛霊のように染み着いているからだ。その碧い瞳で、彼はみやを愛おしそうに見つめる。
そして彼は、みやにどこまでも優しいから、
「優しいのが怖いなら、これからは少しだけ、厳しくしてあげる」




