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形栖みや

 私が私の許嫁に出会ったのは、六歳の時だ。

 もっともその時は、許嫁のことなんて何も知らなかったのだけれど。



 絲倉美術館の『市民の絵』コーナー。その一番目立つところに、私の絵が飾られた。お気に入りの水彩画だった。

 名前を出すのは恥ずかしいし、親の意向もあって匿名にしてもらった。

 絵を描くのは好きだ。

 色鮮やかな絵の具は、同じ色名でもメーカーによって微妙に色味が違っている。それを用いても、否、だからこそ、思った通りの色を作るのは難しい。

 世界は色であふれている。

 私は自分が描きたいものを、そのまま紙に描き写していく。世界を切り取って、スケッチブックの中に閉じ込めて、自分だけの宝物にしていくのだ。


 たとえそれが、自分の頭の中にしかない世界だとしても。

 なかなか家の外に出られない私の空想の世界は、私が色を与えて外に生み出してあげなければ、目にはできないものだから。

 絵はすごいのだ。

 この世にはないものを見られるから。


 私の独りよがりの絵が、みんなの前に展示される。不思議な心地だ。あんまりにも気になって、両親におねだりして、美術館まで連れてきてもらった。

 本当は、気軽に外に出てはならない。

 相応の学問は家庭教師に教えてもらっていたし、体を動かしたいなら、高い塀に囲まれた庭の中。私の生活は、広い家の中で完結していた。

 美術館に行くのも、もちろん初めてだった。

 そこには多くの絵が飾られていた。額に入れられた様々な絵画は、それだけでものすごく偉そうに見える。中にはよくわからない絵具をぶちまけたような絵もあった。不思議なものだ。私には、芸術が理解できないのかもしれない、なんて考えた。


 市民の絵のコーナーに来た。

 一番奥。私の絵の前に、一人の男の子が立っていた。

 お気に入りの紺色のスカートと白いブラウスを着ている私と違って、その子は和服姿だった。私の絵をじっと見上げている。

 どうしたんだろう。絵に変なところがあったかな。不安になっていると、男の子は振り向いて、私ににこりと笑う。


「こんにちは」


 綺麗な子だった。優しげな目元も、明るい色の髪も、美術館のライトに照らされれば一つの作品のようだ。私は本気で、天使様がやってきたのかと思った。こんなに綺麗な人を見たのは初めてだ。私は「こ、こんにちは……」と消え入るような声を返す。


「ごめんね、邪魔だったかな」

「いっ、いえ! あの、ぜんぜん、じゃまなんて……、ぶらぶらしてただけ、なので」


 家族以外と話すのも、ほとんど初めてだった。


「ここを長い間占領してしまっていたよ。すごいな、この絵には色が見えた気がする」

「……色、あるよ?」

「……そうだね」


 その子はもう一度、名残惜しそうに私の絵を見て、「それじゃあ」と去って行こうとする。


「ま、待って」

「うん?」

「あの……、この絵、すき、ですか?」

「好きだよ」


 すき。そう言われた途端、私の心臓のあたりが一回だけ、どくんと大きく鳴った。じゃあね、あのね、とはっきりしない私の言葉を、彼は根気強く待ってくれた。

 私はポケットから、あるものを取り出す。


「これ、あげます」

「……絵の具?」

「うん。この絵に使ったんです」


 大好きな、青色の絵の具のチューブだった。中は半分ほど残っていた。

 人との接触が極端に少ない私は、慣れないながらに、相手をもてなそうと思ったのだ。


「君が、これを描いたの?」

「うんっ」


 家族以外に初めて出会った私のファンに、少しでも喜んでほしかった。



 帰りの車内で、私はみんなに報告した。運転席の父、助手席の母、後部座席には私と兄がいる。


「あのね、美術館に天使みたいな子がいたんだよ。髪の毛が薄い茶色で、目も青くて、すごく綺麗だったの!」


 父や兄からは「変なことしてないだろうな」とか「ふらふら後を追ったりしてないか?」なんて意地悪なことを言われた。

 助手席からは「よかったわね」と優しい声が返ってきた。母は綺麗な人だった。そういえば髪の色が、さっき会った子に似ているかもしれない。

 そして母は不思議なことを言った。


「その子とは、また会えるわ」

「どこで?」

「さあ」

「いつ?」

「いつかしらね」


 母親は、時折こうして変なことを言う。だけどそれは『本当になる』ことだから、私は素直に「ふうん」と頷いた。母が言うなら、本当にまたあの子と会えるのだろう。


「お父さんとお母さんみたいに、仲良しの家族になれるといいわねぇ」


 仲良しの、家族。

 それはとても素敵なことだと思った。

 話の繋がりがよくわからなかったけれど、それが悪い意味ではないのは事実だったから、私は頷いた。


「はい、おかあさん」


 両親はとっても仲良しだ。使用人の人もそう言っている。昔から一緒にいて、離れるのなんて想像もできないって。父はお料理がとっても上手で、母が一番好きな味を知っている。私と兄が見ていないところで二人がくっついていることだって、私はちゃんと知っていたのだ。


 父が死んだのは、半年後だった。


 その時、兄は家にいなかった。

 母と私が見ている中、父は息を引き取った。静かな最期だった。私は幼過ぎて、この時に父の死を真っ向から突き付けられていたのは母だけだった。


「なんで」


 母が、ぽつりとつぶやく。

 低くて、あまりにも空しくて、私は「ぇ」と顔を上げた。母は瞬きもせず、父をずうっと見つめていた。私は何度も母を呼ぶ。母がどうにかしてくれなければ、幼い私は何をしていいのかもわからなかった。お腹が空いても、自分では何もできない。むやみにお菓子を食べてはいけませんと言われているし、外に出てもいけないし、勝手に電話もしちゃいけないから、良い子の私はひたすら、母が動いてくれるのを待った。

 そうして、三日間。

 私は台所で水を飲み、睡眠の時は自室にと、自主的に行動した。

 母は父の遺体に付き添ったまま、その場を動かなかった。


「……おかあさん……」


 とうとう怖くなって、あんまりにもひもじくて、私は母を呼んだ。兄が帰ってくればいいのに、ここには私と母と、死んでしまった父しかいない。

 項垂れたままの母の横顔は、髪に隠れていて見えなかった。ただその時、ゆるゆると持ち上がっていく口角だけはよく見えた。


「ああ、そうよ」


 何か名案を思い付いたと言いたげだった。

 そして母は、私が見ている前で、父の耳元で、何かを囁いた。


「       」


 土気色の肌をして、死臭をまき散らしながら、()()()()()


 死を完全には理解していないけれど、もう二度と目覚めない状態だと認識していた。だから少しの疑問はあった。どうして父がまた起きてくれたのかもわからなかった。

 父にべったりとくっつく母。そんな母に引っ張られて、よろよろとぐらつきながら廊下を歩行する父。

 彼らに漠然とした不安を抱えながら、私はその背中を見ていた。私たち以外に誰もいない家で、私は一人きりになった心地がした。

 悲哀に満ちた家中に、不気味な臭気が染みついていく。


 生き返った父は、母のおねだりに応えて夕食を作ってくれた。実に三日ぶりの食事だったから、私は無邪気に喜んだ。

 ダイニングで出された夕食を見て、私は「ぇ」と呟いた。

 箸を取れなかった。

 つんと鼻を突く臭い、不自然に糸を引いている野菜、生ぬるいみそ汁に入った芋は、明らかに火が通っていない。卵焼きと思しきものは、焦げと生の部分が混ざってべっちゃりと皿に張り付いていた。


「……ねえ、これ……」

「お父さんが作ってくれたのよ。久しぶりねえ。放っておいてごめんねみや、お腹空いたわよねえ。ほら、いただきましょう」

「…………。」


 食卓を見る。

 見たことのないものがたくさんある。

 三日ぶりの、食べ物らしき何か。その香りからして、およそ口にできるものではなかった。お腹は空腹で鳴いているのに。

 死者が作ったものはみんなこうなのかもしれないし、冷蔵庫の食品がすべて腐っていたのかもしれない。六歳の私は何もわからず、目前の事態を処理するので精一杯だった。

 お向かいに座る母が、火の通っていないじゃが芋を食べる。しゃりしゃりと音がしている。「おいしいわねぇ」と笑顔で言う。

 やがて私が箸を取らないのを見咎めて、叱ってきた。その声はだんだんと強くなり、私が見たこともない剣幕で、


「食べなさいッ!」


 食べなければずっとこのままよ、と。


「っ……で、でも」

「ほら、お父さんからも何か言ってやって」

「っ――!」


 びく、肩が震える。

 左隣でぎちぎちと、音がする。首がかしぐ音。ぽき、と。みち、と。あまりにも大げさに、その首が鳴る。小動物の首を捻ったような。頭上から、その不気味な音が落ちる。

 ――視線。

 見られている。

 父親だったものが、今は人形よりも不気味な何かが、こちらを見下ろしてくる。


「 み や 」


 ――ッ!

 私は呼吸を忘れた。顔を俯かせて、締まりなくかちかちと打ち合わさる歯の音がやけに明瞭だった。


「 たべ な さい」


 おとうさん。

 だいすきなおとうさん。


 父の瞳は悲しそうに濁っていた。

 私は父親の死体の手から、酸っぱい鶏肉を食べた。


「 お い しい ?」

「うん」


 腐りかけの食材でできた、吐き気がするほどひどい味の夕食。

 私は蒼褪めて、口元は引き攣って、ぼろぼろの有様だけれど、精一杯、年相応に笑って、


「おいしいよ、おとうさん」


 ――その、直後。

 父はそのまま、食卓に倒れた。ぐらりと。自分が用意した夕食をぶちまけて台無しにしながら、今度こそ死んだ。床に肉じゃがらしきものがまき散らかされて、私はその様子を逃さず見ていた。


「あ、あ……」


 母が立ち上がる。


「ああ、ああ、ぁ、アアァあああああああ……ッ」


 母が嘆く。今度こそ壊れてしまったみたいに、関節がぐにゃぐにゃになった父の死体を抱き起した。私は何も言えず、何をするべきなのかもわからずに、彼らを見ていた。ずうっと、椅子に座っていた。母が「嫌よ」「私も連れていって」「あなた」と泣き叫ぶ様子を、その始終を、一晩。


 早朝になって。

 如月家の人たちが乗り込んできて、私は保護された。



 両親は、許嫁同士だったのだそうだ。

 母は如月家の出身で、父はそのまま形栖だった。幼い頃からずっと共にいることを誓った、おしどり夫婦。

 母は父の忌み名を知っていた。父を無理に起こしたのは、母がそう命じたからなのだろう。


 私は数か月間、お医者さんのカウンセリングを受けた。後に、如月家のお屋敷の中でも窓の少ない、一番に暗い部屋に入れられた。しばらくはここにいなければいけない。ここにある本は何でも読んでいいと言われた。酷いことなんて何もされない。如月家の人はみんな親切だ。

 そして私にも許嫁がいるのだと聞かされた。

 その時、真っ先に浮かんだのは、


『お父さんとお母さんみたいに、仲良しの家族になれるといいわねぇ』


 母の言葉だった。

 結婚をして、子供を作って、健やかに平穏に暮らしていく。そのためには、夫婦が幸せでいなければいけない。――私の両親のように。

 愛に縛られた、仲の良い夫婦。

 だけど、その先にあるものは、なに?


『ああ、あなた、どうして、どうして? なんで置いて行ってしまうの、私を、ねえあなた、起きて、また傍にいて、ずっと一緒だと約束したじゃない――』


 冷たい手で心臓を撫でられたようだった。


「ひ……っ」


 私は暗い部屋の隅で蹲り、一人で震えた。頭をいやいやと振り、小さな手で髪を掻きむしりながら、


「いや、……嫌、いやぁ……っ」


 両親のようにおぞましい、あの関係の中にいるのだけは、嫌だ。その結論に至るまで時間はかからなかった。発展途中の幼い脳みその中で、そういくつものプロセスを経ず、直結してしまった。

 そしてこびりついた。

 呪いのように。

 ――『仲良し』は、怖い。


「……、……――、――……っ」


 細い悲鳴は、誰に届くこともなかった。


 そしてその二年後、ある夏の日。

 私は私の許嫁と会った。

 美術館で出会った男の子だった。

 そして私の世界の色すらも、彼に奪われた。


 ――「君が、俺のお嫁さんになるんだね」


 私を将来の妻と定めた彼は、優しくしてくれた。

 如月家の屋敷の敷地から出るにも理由を必要とする私に、外の世界を見せてくれようとした。彼は仕事をこなして、その褒賞として、私との外出を望むことがあるのだとも気付いていた。お花見の時も、紅葉狩りをした時も、彼は体のどこかを怪我しているか、呪詛をかけられたりしていた。

 そこまでして距離を縮めてこようとする彼のことが、私は、震えるほどに怖かった。


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