もう君の目では
「はい、はい。……ええ、問題のウォークマンは回収いたしました。明日、そちらに届けます」
人形はすべて焼き祓い、経過のみとなります。蓮見は縁側に腰かけ、庭を眺めながら、通話相手の反応を待つ。
「はい。みやは……、本当に置いて行っていいのか、判断しかねておりますが……」
通話相手は、実の母親である。蓮見は明日から三日ほど、実家に戻ることが決定されている。そこで今回の件について説明し、お叱り――罰則を受ける予定になっている。それにみやが付き合う必要もないので、この屋敷に置いていくことになる。
スマートフォンの向こうで、母親が訊ねてきた。
形栖みやはどうしているか。蓮見は答える。
「まだ眠っています。あれから二十時間以上経ちますが、やはり彼女には俺の声が効き過ぎるようです」
続いての質問。
形栖みやの洗脳を解いていいのか。それで蓮見は後悔しないのか。
「後悔するかは、わかりません。彼女の反応次第でしょう。けれど少なくとも、間違った選択ではないと思います」
それなら何も言うことはないと、母親は言う。
蓮見は以前、みやの忌み名を使った事実に耐えかねて、母親に打ち明けた。そして蓮見は間違ったことはしていないと回答をくれたのも母親だった。
それを反故にするのは緊張したけれど、母親はさして気にしていないようだ。そうですかと言って、母親は通話を切る。蓮見は通話終了の画面を見て、ほっと息を吐いた。
ひぐらしが鳴いていた。
ここからは夕日がよく見える。
背にしていた障子の向こうで、衣擦れの音がした。
噂をすれば影。二十時間も寝ていた彼女は、やっと目を覚ましてくれたようだ。彼女らしくもなく、障子が雑に開け放たれて、
「蓮見さまっ」
飛びついてきた彼女を受け止めた。
「おはよう」
「お、はよう、ございま……っ」
蓮見に縋りながら、彼女は泣きじゃくる。悲しい夢を見たのだろう。彼女は時折『意味のある夢』を見るのだと、蓮見は知っている。どうしたの? 悲しい夢を見た? みやを宥めながら、ゆっくりと問う。
「松野愛理さん、……あの方は……」
「うん」
「彼女は、恋を、していたんです」
「……そっか」
恋の相手を言わないのは、松野愛理への気遣いなのだろう。
「おまじないをする他の子たちの想いもわかってしまったし、だけど許せもしなかったんです。心の隙間に呪いが入り込み、彼女自体が呪いと化した。……私には、そのように見えました」
「うん」
それはとても、悲しいことだね。
「こんなことが、あるのですか?」
「……素人の仕業とはいえ、あれだけの数の呪物が、浄化もされずに無防備な人間の傍にあったら、影響はあるよ。共感に特化した才能もあるし、松野愛理の場合は、そういうのもあったんじゃないかな。ただ、どうして地面を掘り返してまで呪物を集めていたのかはわからないままだけど……、君は、それも見たの?」
「はい。でも……」
みやは口籠り、そのまま黙ってしまう。蓮見は、顔を上げない彼女に「いいよ。もう終わったことだ」と柔らかく言い聞かせた。「終わったことですか?」「うん、あとはこちらで処理できる」「終わったこと、……本当に?」「うん。だから――」
蓮見は一拍置いて、
「あの鳥居は、もう君の目では赤く見えないと思う」
それを未練とするモノが消えてしまったから、もうこの世のどこにもいないから。みやの世界では、またいつものように、黒に近い灰色程度の色味にしか見えないはずだ。
「……あの、鳥居」
みやは、彼の衣服をそっと握る。
「松野さんは、何回あの神社に行って、何度穴を掘り返して、そうしながら、何度あの鳥居を眺めたのでしょう」
色を認識できるほどの、執着、未練、嫉妬、恋情――、みやには受け止めきれない様々な感情が、そこにあったのだろう。
「解決したなら、古ヶ崎さんもお帰りになるのでしょう。後でご挨拶をしなければいけませんね」
「そうだね。明後日には東都に帰るそうだから、明日にでも行ってあげて。俺は明日から三日ほど実家に戻るし、一緒にはいけないけど」
「……戻られてしまうのですか?」
「まあね。色々とあるし」
「色々と」
みやは何を考えたのか、顔色を悪くしていく。そして申し訳なさそうに、
「蓮見さまには、ご迷惑をおかけしました」
「迷惑じゃないよ? 君が元気になるなら、それに越したことはない」
「でも……」
「あのね。俺はみやを守る義務があるし、みやは俺に守られる義務がある」
わかるね? と言えば、みやは蓮見が意図した通りに「はい」と頷くしかない。
如月家は形栖家を監督することを条件に、形栖家の生き残りを民衆から庇った。そして形栖家を保護することを条件に、魂の名前を差し出させたのだ。
如月家と形栖家は、遠い過去の約束に縛られている。
だから彼女が気にすることは、本当に何もないのだ。
「それより、体調は大丈夫? ずっと寝てたけど」
「……あっ」
みやは蓮見から離れて、両手で顔を覆ってしまう。
「お見苦しい恰好をお見せしました。顔を洗ってきます……っ」
「いってらっしゃい」
寝起きの彼女もかわいいな。蓮見は笑顔で手を振って、ぱたぱたと恥ずかしそうに走り去っていく許嫁の背を見送る。
そうしながら、数日前のことを思い出す。
みやとの引きこもり生活を開始した初日、昼食を持ってきた名取が持ってきた情報、『形栖みやについて』。蓮見は廊下でそれを聞いて、恋人ごっこを終わらせることを決めたのだ。
――どうしてみやは、俺を怖がるんだろう。恨まれるのはまだしも、あの恐がり方はなんだろう。
その答えは彼女の過去にあるのではないかと、名取が言った。
『みやさんはね、六歳の頃に、父親が母親に操られるのを目にしているんですよ』
みやの両親。
父親は形栖雪路といった。その妻は、蓮見の母親の妹――つまりは蓮見の叔母に当たる、香苗である。
――二人はとても仲が良かったと聞いているけれど。
蓮見が言って、
――ええ、良すぎたんですよねえ。
名取が頷いた。
『雪路さんが病で亡くなってしまっても、それを受け入れられなかったんでしょう。だから、そのう、つまりは、亡くなった雪路さんに、もう一度会いたかったんでしょう。香苗さんは、言霊の強い才をお持ちの方でした』
蓮見と同じように、あるいはそれ以上に――声が強い人だった。
声量が大きいのではないし、覇気があるわけでもないのに、その声には特殊な魅力があった。
『そのお声で、雪路さんの忌み名を使って、雪路さんの魂を肉体に呼び戻したんですよう。けれどそんなのは、やはり一時的なものですからねえ。骨の髄まで力つきた雪路さんを抱き締めて嘆く母親を、みやさんはずうっと見ていたそうですよう』
蓮見は呼吸を忘れた。
『その夜にどんなやりとりがあったのか、本人以外はわかりゃしませんけどね』『アタシは思うんですけどねえ』『みやさんは、その両親の姿を見て、間違った認識をしてしまっているのではないかと』
名取との話は、それで終わった。
「お待たせしました」
帰ってきたみやから、ほんのりとシャンプーの匂いがする。シャワーを浴びたのだろう。ドライヤーで乾かしたばかりの黒髪には自然な艶があり、さらさらと揺れている。
着物も、寝間着ではなくなっていた。
いつもの彼女らしい澄ました表情で、けれど瞳にはほんのりと蓮見への恋心を宿しながら、隣に腰掛ける。
縁側には二人と、蓮見が飲んでいた麦茶が一つ。無言のまま、ひぐらしの声を聴いている。色濃い夕日が、空をゆっくりと伝い落ちていく。
蓮見は彼女に手を伸ばした。ぴくりと反応した彼女は抵抗せず、されるがままだ。蓮見が耳にわざと触れると、彼女の頬が赤くなって、すぐに顔を逸らしてしまう。
かわいいな、このままでいたいなと思いながら、蓮見は言う。
「『××××、元に戻って。君は俺の恋人ではないよ』」
穏やかな心地で、彼女の名前を使った。
「…………、…………?」
彼女は、何を言われたのかわからないという顔をして、蓮見を見た。
「……はすみ、さま……?」
呼ばれても、蓮見は答えなかった。
呆然としていた彼女の顔が、困惑、そして恐れへと色を変えていく。「……え?」「そんな、」「……あれ?」かたかたと震えながら、彼女は立った。そのまま少しずつ、蓮見から距離を取る。
「――ッ」
口元を押さえて、彼女はその場に頽れた。
彼女は思い出しているのだ。
蓮見が望んだ『恋人のような許嫁同士』になるのに邪魔だった、忘れ去られていたおぞましい過去。吐き気を催す記憶を。
恋心を容易に塗り潰せるだけの恐怖を、脳裏に巡らせている。時折「うぐ、」と苦しそうに呻く彼女を、蓮見は心静かに見守っている。
「みや」
そうしながら、告白する。
「好きだよ」
青春を満喫する男子高生の清廉さで、初心にはにかみながら、彼はずっと言わなかった想いを打ち明けた。
丸く蹲って、床に額を擦り付け、長い黒髪をまき散らし、悲痛に泣きじゃくりながら必死に嘔吐く、とてもかわいい初恋の彼女に。
「初めて君の絵を見た時から、君が好きだ」




