松野愛理3
あたしがあいつに初めて会った、雪の夜。
あいつは「今料理できる者がいないから、カップ麺で悪いけど」と言いながら、好きな種類を選ばせてくれた。安いのから若干高いのまで。あたしはその中でもメジャーな銘柄を選んで、遠慮なくお湯をもらったのだ。
そして一室を借りた。
その夜に、それを聞いた。お手洗いを借りようと、廊下に出てしばらく進んだ時だ。曲がり角を曲がった途端、あたしはつい隠れてしまった。
縁側にいたあいつは積雪を眺めながら、スマホの向こうの誰かと会話をしていた。
『それは俺がなんとかするよ。必要なものはまた後日連絡するから』
口調は砕けているけど、親しさがない。たぶんこれは、上から目線ならぬ上から口調ってやつだ。電話の相手は同級生とかではないなと思う。あたしは何故かその場から動けず、会話を聞いていた。
『うん、……うん、わかった。ありがとう。要件はそれだけだけど、ちょっと待って。今、近くに彼女がいない? ……うん、代わって』
彼女。
誰だ?
あたしは角に隠れつつ、そうっと様子を窺う。
約十秒。保留ボタンも使用されたであろう、長い時間。あいつはスマホを耳に当てたまま、待ちきれないように微笑んで、次の瞬間、
ふ、と雰囲気が変わった。
『こんばんは、蓮見です。こんな夜遅くまで、お勉強だったの?』
さっきまでと全然違っていた。
温かくも冷たくもないプラスチックみたいな声が、その瞬間、たしかに温もりを帯びた。つまらなそうに凍てついた瞳が、ちらちら落ちてくる雪の粒を一つ一つ楽しそうに眺めて、まるで違う。さっきまでのあいつと違う。――電話の向こうの誰かが、あいつをそうさせている?
『そう。聞いていると思うけど、君の引っ越しの日取りが決まったよ。部屋の要望があれば聞くからね。……うん、そうだね』
あいつはその後も二言三言話して、
『おやすみ、また会おうね。みや』
みや。
それがあいつの、大事な人の名前。
――あの時にあたしは、その名前を知ったのか。
穴を掘り返しながら、それを思い出した。
そうなのだ。あたしは最初から、自分が付け入る隙がないことなんてわかっていた。
よしひろが「形栖みや」と出会うずっと前に、あたしはその名前を認識していた。
穴を掘る。
一度掘り出された土は柔らかくて、掘り返すのは簡単だった。
ザかっ、ざカッ、ざかっ、
最初はどこに穴があるのかわからなくて、途方に暮れたものだった。懐中電灯で注意深く見回して、わかりやすく小山になっているものから手を付けていた。けれど最近は、どうしてだろう、人形の場所がわかるようになってきた。だってとても嫌な感じがするから。
ざかっ、ざっ、ざく、
人形を見つけた。『小鳥遊百合』とあった。よかった、形栖みやじゃなかった。
次はどこを掘ればいい? ――ああ、あそこ、鳥居の横の木の根元。
そしてあたしはまた、スコップを振り下ろす。
そんな単調な作業をしていると、自分の醜い感情を思い出してしまう。
『ええ、ヘッドホンなんて初めてです。耳触りとか、優しいんですね』『お友達って、どうやってできるのでしょう』『ね、名前知らない? 如月くんの許嫁ちゃんのさぁ』『松野愛理。帰りたくないなら一緒においで』
叶わないと知っていた。最初から横恋慕していた。嫉妬と焦燥と怒りと、色々な感情が混ざり合っていく。このぐちゃぐちゃな感情こそが恋だとか愛だとか言われるものの真髄だ。警察に見つかったら一発アウトになりそうな、こんなおかしな行動だって、恋ゆえなんだ。
頭の中で、優しいあいつと世間知らずなお嬢様が、平和に笑った。
――ドず、
掘る手に力が入ってしまった。
スコップの先が人形の首に食い込んでいた。人形の顔は、元々激しく切り裂かれていて綿が飛び出している。その腹には、あたしの担任の教師の名前があった。
「…………。」
あたしは人形をビニール袋に入れて、トートバッグに雑に突っ込んで、帰宅しようと立ち上がった。
すぐ横に、真っ赤な鳥居があった。
ここでは神前式も行っているらしい。
「……はは」
あたしの口元が、空しく吊り上がった。
一晩で集めた人形を、クローゼットの段ボールにぶち込んだ。
今日で何日になるだろう。
人形の数も初めは数えていたけど、二十を超えたあたりからどうでもよくなった。
たくさんの呪いが、目に見える形でそこにある。真剣な憎悪も、遊び混じりの悪戯めいたものも、一緒くたにしてここにある。
それを、ぼうっと眺めることが増えた。
気が付いたら二時間経っていたとか、そんなことはザラだった。
どうすればいいのかな、と考える。
うまく働かない頭で、抱えた膝に額を付けて、あたしはひたすらに考える。
段ボールいっぱいの呪いを、どうすればいいのか。
そういえば近頃、あいつを見ていない。長期休みだから、遠くからちょっと様子を窺う程度もできない。
寂しいなんて思わない。
けど。
ちょっとだけ、悲しいとは思う。
目の前の人形たちが、みんなこっちを見て笑っている。毎晩毎晩、あたしがベッドに入ったら、クローゼットの中からひそひそと話す声がしているのも知っている。あまりに煩いからウォークマンで歌を聞いているけど、正直眠れていない。頭が痛いのだってそのせいだ。悪循環だ。どうしよう、どうしよう。
――誰か助けて。
――誰が助けてくれるんだ?
あたしはわかっている。
自分はもう、そろそろ『ダメ』だ。
今目の前にあるこいつらは、あたしが手に負えないものたちだ。だけど仕方ないとも思う。これはあたしが決めたことで、一つの罰の形なんだから。
そして次の夜も神社に行った。次の夜も。次も、次も。
最後の方は、罪悪感で「ごめんなさい」と泣きながら。
限界だと悟って、あいつに手紙を書いた。素直に謝って、あの人形をどうにかしてもらった方がいいと考えた。あいつはあたしのためなら動いてくれる。名付け子ってのは、如月家にとって特別らしいから。
午後六時、屋上に上った。
夕焼けが綺麗だった。
心を落ち着けるには、ここが最適だ。七時になったら美術室に行って、あいつに話さなければいけない。形栖みやとのこと、おまじないのこと、人形のこと。そうしたらきっと、あいつへの気持ちも伝えることになるだろう。
それまでは、ここにいよう。
フェンスの傍で、眼下に広がる光景を眺めていた。
ウォークマンの電源を入れた。
聞こえるのは聞き慣れたイントロでなく、ひそひそとした笑い声だった。密閉された空間で何十人もの子供が笑っている。イヤホンから聞こえてくる。くすくすくす、しんじゃえ、とんじゃえ、くすくすくす、あはははは、くやしいくせに、しんじゃえ、あのおんなもしんじゃえ、ざんねんでしたー、たかいたかい、しんじゃえ、しんじゃえ、しんじゃえ、しんじゃえ。
あたしはそれを聞きながら、フェンスに手足をかけていた。自分でも、どうしてそんなことをしているのかわからなかった。そうするべきだと思った。
フェンスを上る。
町が見える。夏の風が吹いている。夏にはそぐわないパーカーだけど、着てきて良かった。今日はちょっとだけ肌寒い。フェンスについた手が少し痛い。スカートが揺れる。
ふ、と浮遊感があった。
耳にかけていたイヤホンが外れてしまう。
そういえば。
あのウォークマンで聞いていた、
うんざりするほど明るい、
あの歌は、
あの気弱な女が、
初めてヘッドホンで、
目が合った、
ごシャっ
*
あたしは自分の部屋にいた。
視界には白黒のフィルターがかかっていて、ものの輪郭もわからない。
ただそこに、あいつと、友達がいない気弱女がいることはわかった。
まつのあいり
あたしの名前。随分久しぶりに聞いた気がする。
――どうして。
ふと、そう思った。けど、何がどうしてなのかわからない。
どうして?
その先に繋がる文章が、今のあたしにはわからない。
どうしてこんなことになったのか、とか?
そんなの、もはやどうでもいいことだ。
あいつがこちらを見ている。友達のいない気弱女をその腕に抱きながら。
あんたがあたしを見ていないことなんて、ずっと前から知っていた。
けれど恋をした心は本物で、あんたがくれた温もりも嘘じゃなくて、「こんなものしかないけど」と恥ずかしそうに差し出してくれたカップラーメンが美味しかったのも嘘じゃなくて、貸してくれたシャワーに溶かした涙の熱さも覚えている。
あたしが死んだことさえも。
そのすべてが現実だ。
涙が両目から流れていくのに、温度はなかった。滴り落ちた水滴は床に着く前に消え散ってしまった。泣いている。それなのに、鼻の奥が熱くなる感覚も、目頭がひりつく感覚も、もう思い出せなかった。
――ああ。
自分の存在の場違いを悟る。それこそ、箱入りの浮世離れした気弱女よりも。
あたしは許されない存在なのだと、認めてしまった。
消えていく。
あたしの足から、腰、胸、さらさらと粒子になって中空に溶けていく。
最期の最後。
あたしと目を合わせているあいつは、泣いていなかった。ただいつものように穏やかに、一抹の後悔だけを秘めた瞳で、見送ってくれていた。
そういうやつだよな、あんたって。
意識が薄らぐ。
光が見える。あたしが解けていく。白く、白く、白く――、




