君は誰だ
ぴーーーーーーーーーーー、
テレビが点いていた。耳が痛くなるような、高いエラー音が鳴っている。
画面には一つのアイドルグループが写っている。ステージの上で踊っている。音楽番組の一場面だ。
じ、じじ、ぶつ、
テレビの調子が悪いのか、途切れ途切れに、映像は進む。
歌は、愛と希望と夢に溢れた明るい歌詞なのだろうと、想像できた。
赤い造花の花弁が降り注ぐ演出の中、彼女たちが笑顔で、
『えいっ!』
ステージの上で、元気に飛び上がった。アイドルらしく愛らしさを表現して、マイクを片手に、足は床を蹴り上げて、カメラは彼女たちを上手に映していた。
そして、止まった。
彼女たちは中空にいる。
画面に、砂嵐の横線が走る。線を境に、画面がずれた。彼女たちの手足が、笑顔の頭が、横にずれる。降り注いでいた赤い造花が無残に滲み出して、広がった。全員がひしゃげたまま固まった。
そしてまた、
ぴーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
つい十分ほど前、みやの片耳を塞いだ時から、テレビはそれを繰り返している。勝手にスイッチが入ったのだ。チャンネルはわからない。きっとどこのチャンネルでもない。
蓮見は、みやから離れた。彼女の後ろに新たな座布団を敷いて座る。
真正面に大きな窓。右手にベッド、後ろに出入口。
左側のクローゼットから、かた、と音がした。
薄く開いていく。
今しがたみやに言い聞かせたのと同じ速度で、すーっと。
幅は拳一つ分の暗闇が、二人を覗いている。
蓮見は、けれどそちらを見なかった。横目ではその異変を察しているけれど、あえて見ない。冷静を保つ。彼は笑みさえ浮かべられる余裕を忘れない。
心に隙を作らない。
同情はしない。
この世界は生者の世界だ。
迷う魂は、悪ではなくとも、正しくない。
彼は、みやの手から取り去った器を見る。
よく見れば赤と黒が混じった、異臭を放つ液体が満ちている。波の一つも立てない平面になっていて、嫌な艶もある。それなのに鏡にはならない。光さえ吸い込むようなその液体が、仮に何かを映すとするなら、それは自分の死に顔なのだろう。蓮見はそれを、いくつか前の仕事で見た。――魔のものが見せる死など、信じていないけれど。
蓮見は一言呟いて、マッチの火を落とした。器の中の『酒もどき』は、よく燃えた。
次いで、横に置いていた蝋燭にも火を灯し、電気は消してしまう。四角い部屋に、灯りは小さな火だけになった。二人分の影が、ゆら、と揺れる。
これより始まるのは、秘密事だ。
蓮見は、すう、と深く酸素を取り込んだ。
元を辿れば、如月家は祓いの家ではない。
形栖家と同じく、まじない事を家業としていた。
ただし形栖家と違い、そのまじないは人の祝福に近いものだった。民も貴族も、後ろ暗い仕事はすべて形栖家に持ちかけるから、如月家は清く在れた。如月家は人々の味方として、晴天祈願、安産祈願、恋愛成就祈願、家庭運向上、試験合格祈願、なんでもやった。
霊を祓う。
生来のその能力を生かすこともあったが、当時は副業に留まっていたという。その理由は明白だ。この世には、霊への怯えよりも、人の欲が圧倒的に多いからだ。
その歴史により、如月家の祓いの根本は『秘匿』――呪いに準じている。
蓮見は春の陽光が好きだ。
暗闇に灯る蝋燭の灯りも好きだ。
悪霊の存在一つで支障をきたしてしまう電化製品よりも、原始的な火を信用している。こと、こういう状況においては。
ふら、
隙間から漏れ出る冷気に、蝋燭の炎が危うげに揺れた。けれど掻き消えることはない。五号――約十三センチメートルの、桜色をした和蝋燭だ。空気がよく通る構造上、大きく揺れるが、しぶとく燃える。儚く灯る洋蝋燭との差は、並べて見なくても顕著である。
長い蝋燭の真ん中には、ぽつりと一つ、飾り彫りされている模様がある。
枝に椿。
如月家の家紋である。
如月家の血を練り込んだ蝋燭。それを灯した光の中は、強力な結界になる。彼女がいるために、実家からの持ち出しが許された逸品だった。
みやの背中と蓮見の正面が、光が及ぶ範囲である。通常よりも明らかに濃い闇に、ぽっかりと広がる円形の安全地帯は、狭く心許ない。
火を灯した瞬間から、テレビ画面はぶつんと音を立てて消えてしまっていた。
蓮見は、正面に置いている蝋燭に、左手でそっと触れた。
ずず、
左側へずらしていく。火の位置が変わる。真正面から照らされていた顔の右側が陰っていく。鼻筋を境にして、ちょうど半身を闇の中に置いたところで、彼はその手をぴたりと止めた。
背筋を正して、小さな声で言葉を連ねていく。「――、――」先の、みやに向けていたものより硬質で透徹とした文言が、部屋に満ちる。闇に隠れて見えない机の下、カーテンの裏、クローゼットの隙間の奥、ありとあらゆる隙間を、彼の囁きが埋め尽くす。
きィ、
反応があった。
右側。ベッドがある方だ。
蓮見はそちらを見なかったけれど、火が右側に揺らいで一瞬だけ照らされたベッドの下から、白い手が飛び出していた。爪で床を引っ掻いていた。火の位置が戻ると、その手は再び闇の中に紛れた。
蓮見は続ける。「――、――、――、――」厳かに、しなやかに、平坦に。
キぃ、いいいい。左側のクローゼットの扉の内側から聞こえた。
き、ぎゅキ、ギュぎぎぃ。背後の壁から聞こえた。
きぃいいい、ぎ、ぶち、人差し指の爪が剥がれてしまった音がした。
きい、
クローゼットの扉が大きく開く。冷気が吹き付けて、ひた、ひた、と足音がする。それは光の円に入らないぎりぎりの闇の中で、しばらく歩き回った。ひた、ひた、――ひたひた、ふらついていて、まばらな跫音だった。
火が揺れる。一瞬照らされた床には、赤い足跡が付着している。火が気まぐれにあちこちを照らすほど、それは増えていく。
蓮見はただ前だけを見ていた。両手は正座した膝に置いていた。
「 きィいいいいイイイいいぃイいいい 」
右の耳元から、その声が聞こえた。
どこか壊れてしゃがれた、女性の裏声だった。
――来た。
蓮見は口を閉じた。右側にいるものと目を合わせないように、再び深呼吸をする。
鼻の奥が痛くなるような冷気と鉄臭。凍り付いた血液の匂い。
脳裏にあの光景が蘇る。アスファルトに落ちて体液をまき散らしながら潰れた果実。ねじ曲がった関節から飛び出した中身。割れた頭――、きっと今、すぐ真横にいるものも、側頭部が陥没しているのだろう。
同時に、別の顔も思い出す。
雪の夜、行き場のない少女を駅で見つけた。名付け子だとわかったから、保護した。如月家の者として、それは当然のことだった。もしかしたらそれが間違いだったのかもしれない。
超能力じみた直感を持っていると、言われることがある。
けれど万能ではないから、だから、こういうことが起きるのだ。
彼は口を開き、
「『君は誰だ』」
訊ねた。
隣にいるものはひゅるう、と生臭く鳴いた。
死者は呼吸をしない。吐き出すのは死臭のみだ。
「『君は誰だ』」
目線を伏せると、視界の右端に血まみれのパーカーの袖が見えた。到底ありえない角度で、ぐるんと上向いた手があった。指先は擦り傷で赤くなっていた。蝋燭の灯りがそちらに向くと、嫌がるように手を引っ込めた。
「『君は誰だ』」
三度目。
右側にいるものは、いなくなった。
再び足音がする。ひたひたと。みやの前に行って、左側に来て、蓮見の背後。反時計回りに、ひたひた、ぐるぐる。壁に爪を立てて、きいいィいいいいい。その行動に意味などないのだろう。蓮見は「わからないのか」と、自分の名前も思い出せなくなったものに問う。かつて友人だったものへの、せめてもの悼みだ。
やがて足音が止まった。
それは、みやの真正面に来ていた。
光に守られている背中と違って、彼女の前半身は無防備になっている。
彼女の顔をじっと覗き込みながら、
ゆめは
あきらめ
ない
こいだって
いつだって
呪う。
希望にあふれた歌詞をぼそぼそと、悪意まみれの声で吐き出して、みやを呪う。時々にちゃりと血を噛む音を挟みつつ、凝縮された憎悪をみやに向けている。
蓮見は袖から、古い懐中時計を取り出した。
せかいは あなたの ためにある
だれでも ない あなたの ために
その呪いが、再び彼女の中に入り込む前に。
「『止めなさい、松野愛理』」
みやの肩を引き倒し、後ろから片腕で抱き込んだ。彼女は目隠しの布の下で、幸せな夢を見てくれている。抵抗なく収まった彼女の体を強く抱き、蓮見は蓋を開けた懐中時計を前に突き出した。
それは時計ではなく、鏡だった。
磨かれた鏡面が、そこにいるものを映す。




