吐きたくなるよ
学園外のコインパーキングに車を置いて、三人は絲倉学園の裏門に向かう。
閉じている裏門の前に黒いスーツの男性が二人立っていて、それぞれ五十代中頃と四十代前半ほどだった。彼らは蓮見と目が合うと、丁寧なお辞儀をする。
「お待ちしておりました」
「お疲れ様です」
蓮見は「ご苦労様」と返して、
「異変は?」
「何も」
「良かった。ありがとう。もうしばらくお願い」
男の一人が裏門に手をかけて、人が通れる程度の間を空ける。
蓮見が進み入ると、みやも慌てて付いていった。その際に、男二人から蓮見にするのと同じように頭を下げられて驚いてしまう。「こ、こんばんはっ」場違いだが間違ってはいない挨拶を残して、絲倉学園の敷地に踏み入る。
裏門から入って三十歩ほどで、真正面に職員玄関が見える。それを無視して左に曲がり、校舎まわりの舗装された歩道を歩く。図書室の窓の前を過ぎ、木を囲うベンチの横を通り過ぎ、女子寮の前に立った。
蓮見はふと、女子寮を見上げた。
「……歓迎されてるかな」
みやが「えっ」と同じように上を見たら、灯りが落ちたいくつもの窓の中に、一つだけ明るい部屋が見えた。
三階、左から五番目。
「三〇五号室……?」
「行こう」
正面玄関と廊下。最低限の共有通路のみが蛍光灯に照らされていた。三人はその人口の光の中を歩く。頭上で、ぱち、……ぱちぱち、と電気が爆ぜるような不規則な音がする。みやはその下を通りながら、虫が光源に近づきながら感電死する様を想像した。
階段にさしかかる。
立っているだけで汗が滲む湿気で、階段の手すりはぬめっていた。
階段を上がり、踊り場で曲がり、それを二回繰り返して三階に上がる。こつ、こつ、こつ、こつ――、三人分の足音が反響する。
さらに上階への階段を目に入れてしまったのは、不可抗力だった。
みやは何とは無しに、四階への階段と、先に続く踊り場を一瞥して、ぴた、と足を止めた。
じじ、じじ、と何度も明滅している、死にかけの蛍光灯の下。
踊り場の床に、腕が落ちていた。
人間の二の腕から先が、角から飛び出していた。床にころりと転がっている。
見間違いだろうかと思っていると、
ずず、
と、腕が動いた。曲がり角の向こうに後退していく。
その腕を持った何かが、腕を床に垂らしたまま、階段を上っていくのだ。
心臓が一度、強く拡縮した。ひやりと冷たい風が、上階からここまでゆるゆると漂ってくる気がする。あ、と小さな声は掠れてしまって情けない。
「……は、はすみ、さま、あの」
「気にしなくていいよ。あれは、ああいうものだから」
おいで、と手を差し伸べられる。それを掴まないわけにはいかなくて、みやは慌てて彼の手を取った。彼の手が熱く感じて、自分の体温が冷え切っていることに気が付いた。
そうしてたどり着いた三〇五号室のドア前に、見張りはいなかった。
階段を上がって三階の通路に出るまでは、黄色いテープが張ってあって物々しい雰囲気に満ちた現場を想像していたけれど。こうまで何もないと、みやは気圧されてしまいそうになる。
こんなに静かでいいのだろうか。
三階にいる自分たちの足音は、きっと一階にまで届いている。誰の声もしない。みやはここに来るまで、ドアの前を通るたび密かに耳を立てていたけれど。
――やっぱり、ここには誰もいない。
蓮見も名取も何も言わない。住民はどこかに避難させているのだろう。みやの知らないところで、大きな力が動いていたようだ。
不思議なことがあった。
三〇五号室のドアスコープから、光が漏れていないのだ。住人が来客を確認するためのそれは、外から見ても灯りの有無くらいはわかる。
外から見て、この部屋は点灯しているはずだけれど?
「どうしたの?」
「さっきは明かりがついていたのに、消えているようで……」
「そうだね」
蓮見は「不思議だね」という感想もなく、「これはこうこうこういう原理で」と解説も付けず、ただ頷いた。
みやは視線を下げていって、もう一つ疑問を増やした。ドアの下にある微かな隙間からは、内部の明かりが漏れているのだ。
けれどさっきは、ドアスコープが真っ暗だった。
――塞がれていた?
みやは理解した。
住人が来客者を確認するための、覗き穴。
ドア一枚を挟んだ向こうに誰かが立って、こちらを見ていたのだ。
大きく開いたその瞳で、じっと。
その部屋には、何かがいる。
みやはドアを見つめて、立ち竦んだまま動けそうにない。暑いのか寒いのかもわからない、夏の夜の悪寒。呼吸をするのも憚られる硬直状態だった。
「落ち着いて。大丈夫だからね」
そう言う蓮見に、繋いでいた手を解かれた。みやは追い縋ってしまいそうになった手を引っ込めて、不安にかられながらも彼を見る。
彼の手には、黒い布があった。細く長いそれを、彼は両手に持つ。絞殺でも企んでいそうな構えだ。
「この先は何も見なくていいから。後ろ向いて」
みやは従った。後ろにはもちろん名取がいた。目が合って、なんとなくぺこりと頭を下げる。胸で両手をぎゅっと握っていたのは、恐怖からだった。それをわかっていただろうに、彼も名取も何も言わなかった。
視界が黒で覆われる。
両目にかけられた黒布は後頭部で結ばれて、
「痛くない?」
「はい」
「緩くも、ない……かな」
布と耳上の間に指を入れられた。締め付け具合を確かめたようだ。
「なんだか、君にこれをやると、どうも……」
「はい?」
「いや、いい。移動するよ」
「はい。……っ!?」
左手を、そっと取られた。腰にも彼の右腕が回されて、優しく引き寄せられる。西洋式のエスコートのような恰好に、みやの思考は止まった。左側に、昨夜と同じような感触がある。体勢は少々違っていても近さは間違いなく同じだ。目が見えないから、彼を感じているしかない。
蓮見は冷静な指示を飛ばす。
「じゃあ、開けてくれる?」
「はいはい」
躊躇もクソもない。
彼にお願いされた名取は三〇五号室のドアを、情け容赦なく引き開けた。
人が住む家には、気配がある。たとえ家人が外出していても、独特の生活感がそこかしこに染みついている。それは人の温度の名残であったり、体臭の残滓であったり、自覚は難しいけれど、たしかにその人の家だと感じられるもの。
その住人が死人であった場合、どうなるか?
みやはそれを、たった今、体感した。
ぞくり、
まず、空気が冷たい。ささやかな吐息でさえ凍ってしまいそうな冷気が、部屋の形に凝っている。この部屋だけに満ち固まっている。
みやは嘗て写真で見た、都会の風物詩、満員電車を思い出した。電車の入り口から溢れそうな乗客を、駅員が中へ押し込めているものだった。――受ける印象が、それと同じだ。
真っ先に思う。
入りたくない。
入口があっても、その室内に自分が入る余地などないのだと思わされる。そこに踏み入ることを躊躇うのは、正常な反応だ。
それでも蓮見は、
「行くよ」
そうして無慈悲にみやを連れて行く。
みやは、もはや何も言えないままに、彼に従った。
玄関で土足を脱いで「段差あるから気を付けてね」と甲斐甲斐しい介助付きで、部屋に上がる。
はい片足上げてー、はい下ろしてー、もう片足上げてー、と幼児を相手にするような口調で言われたので、みやはやはり否応も無く従った。着物のため――それでなくとも、みやの性分として――足をあまり高くは上げられなかった。せいぜい鼠が下を通れる程度の高さだったと思う。そうして彼手ずから片足ずつ履かされたのは、スリッパのようだ。「……もしかして楽しんでいますか?」「わりと」彼の趣味がわからない。
そうして数歩進んで、止まる。
正面に、曖昧な圧迫感がある。暖簾か何かの、行く先を阻むものだと思った。蓮見は「ああ、流石だね」と言いながら、みやの手を一旦放した。
布をするりと、押し開く音がする。
鼻の奥がつんと痛くなった。凍った血液を嗅いでいるような鉄臭と、粘膜という粘膜、皮膚という皮膚が拒絶する異物の存在を感じる。
おぞましいものが、どこかにある。
みやがそれを感じられるくらいだ。彼がわからないはずはない。
それでも彼は、「ゆっくり行こうね。すぐだから」と余裕そうにみやを気遣ってくれるのだ。心臓に育毛剤でもぶっかけたのだろうか。
「座布団あるでしょ? 座って」
みやはスリッパを履いた足の爪先に柔い布の感触を認め、それと彼の手を頼りに、正座をする。
「これを」彼は敢えて事務的な声色で、「口に含んで。飲んでもいいけど、年齢的に飲んじゃいけないやつだし、吐き出す時に喉も傷めるから」そうしてみやの手に、瓶を握らせる。
「お酒ですか?」
「椿山神社のお神酒」
「……吐き出さなければいけないのでしょうか?」
「必要なことだから」
好意を抱く男性にそんな姿を見られては、乙女心が死んでしまう。え、え、と戸惑うみやに、蓮見はさらに何かを触れさせた。つるりとして丸みを帯びた、陶器の大きな器だ。少し深い。
そして彼は一言「これに」。
「出せと?」
「出発前に言ったよね。吐きたくなったら吐いてって。吐きたくなるよ。というわけではい、とりあえず一口分だけでいいよ」
鬼ですか?
こういった場では、彼の辞書にデリカシーは存在しないらしい。
みやは絶対に戻したりしないぞと決意して、おそるおそる、酒を口に含んだ。アルコールの匂いで、喉から鼻奥まで焼けてしまいそうだ。つんとして仄かな苦みがある。これが大人の味なのだろう。
それだけだったら耐えられた。
それは突然だった。
「っ……ん、ぐ……っ!?」
口の中で、血の味がした。土と新鮮な血液を混ぜてできた、赤黒い泥の味だ。あるいは、腐肉。どろりと半固形の物体だった。みやの舌はそれを拒絶する。嘔吐感に、背中がびくんと跳ねた。
「っ――、……ッ」
びしゃあ、と吐き出したそれが、うまく器の中に収まったのかは知れない。このおぞましい刺激臭が喉奥に残ってしまっている。それを吐き出そうと、みやは何度も咳込んだ。
それが収まって、
「もう何回かやろう。また一口分ね」
「……ぇ……?」
嫌とは言えなかった。
怯えるみやの、瓶を持っている手に、彼の手が添えられる。――それを放さないように、そしてこの苦行から逃れないように。彼の手は強くみやの手を動かし、もう一口。
「ん、ぅ、……く、」
ほぼ拷問だった。
それを何度も繰り返すと、やがて口に含んだものが異物でなくなっていくことに気付いた。清らかな酒に、口内が濯がれていく。
お疲れ様と解放された時には、みやの息は絶え絶えである。口元をそっと拭われた。
よく頑張ったねと頭を撫でられて、みやは「……はい」と力なく返事をした。もうどうにでもなれという気分である。
「悪いところにお酒を置くと黒くなるって、有名だよね。それと同じ。みやは体質的に、弱いものだったら剥がれやすいみたいだから。これで九割くらいは、まあ、大丈夫かな」
彼は現状のこれを『弱いもの』と表した。それなら何が強いのだろう。すごい呪物がどうという話をしたけれど、そういうものかな。みやはよくわからないまま、呼吸を整える。
「これ以降は耳栓をするよ。この座布団から動かないように。この先、もし吐き気があったら出しちゃっていいからね」
あと――、
彼は声を潜めた。
左の耳元に、彼がさらに近づく気配がする。唇が触れてしまいそうな距離だ。
右耳は彼の手でそうっと塞がれた。
「これからの話は俺の独り言とでも思って、返事はしなくていい。肩の力を抜いて、深呼吸しよう。吸って、……吐いて」
ぽそりぽそりと内緒話をするような、抑揚のない声で、
「神社の階段の入口の、大きな鳥居を想像できる? 上の部分に扁額がある。木の板から椿山神社って文字が浮き彫りにされていて、文字と装飾の部分だけは染料で塗装されているね。あれは金色なんだ。修正が入ったばかりで、真新く見える。それよりもっと視線を上げて見えた空は、」
晴れている。
「晴れている。少し雲が浮いていて、あまり動かない。暖かい、春だ」
彼はゆっくり、ゆっくり、言い聞かせる。絵本を読む母親のように。
頭がぼうっとする。
思考の輪郭がふわふわ溶けていく。
「深呼吸しよう。吸って、……吐いて、……吸って……吐いて」「君は一人で立っている。目の前の石段を登っていく」「解放感でいっぱいになって」「沢山の鳥居を潜って」「すーっと、浮かぶように」「階段の先へ、先へ」
彼の声がする。
甘くて、低くて、意思を蕩かす。
「君は白い着物を着ている」「白で刺繍された桜の柄だ」「桜が咲いている」「ちらちらと、桜の花弁が降る」「遠くで、かすかに、猫の声が聞こえている」「優しい風がある」「春の風だ」「吸って、……吐いて、」「君はとても良い気分だ」「そのままずっと階段に沿って、上っていく。すうっと」「すうっと、」
上っていく。とても気持ちが良い。彼の声は心地良い。ずうっと聞いていたい。どこまで続くのかわからない石段の先に向かう。全速力で向かいたいような、このままでいたいような、不思議な気持ちを持て余しながら、すうっと、すーっと、
そうして。
みやは自分の両耳が耳栓で塞がれたことも、「後は任せてね」と愛おしそうに囁かれたことも、周囲で起こっていることも、何一つ知らないまま意識を落とした。




