怖がってもいいよ
一夜明けた。時計は日暮れ時を指している。
白い着物に身を包んだみやは、蓮見の後ろで両膝を着いた。
彼の長い髪を丁寧に掬い、梳る。彼の明るい茶髪は、その色の印象そのままに柔らかい。櫛の歯がするりと通る。
遠くで車のエンジン音がして、タイヤが石を踏むざらついた音も微かに聞こえた。それらは正門の前でぴたりと止まる。
「お迎えが来ましたね」
「みたいだね」
部屋は常とは違う緊張感に包まれている。儀式前の、潔癖で厳かな、一つの間違えすら見咎められてしまいそうな息苦しさがある。蓮見の態度こそ普段と変わらないものの、その空気はどこか硬質で、触れがたい。
みやが何より懸念しているのは、今夜の『祓い』にみやも参加しなければいけないということだ。呪われたから祓ってもらう、当然のことだとは思う。
だけど、緊張する。
何か話をして、気を紛らわせたい。
まだ出発すらしていないのだから、私語も許されているはずだ。みやは考えて、
「呪いを集めて、いいことなんてありませんよね?」
振る話題を盛大に間違えた。
そうだね危険だからねと律儀に付き合ってくれる彼は、とても優しい。
「呪物って、ものによっては何十年単位で管理しなければならないものなんだ。作り手の技量と『材料』にもよるけど」
材料。その言葉に、ぞっとする。
たとえばどういうものですかと訊ねなくても、大凡の検討はついてしまう。みやとて全くの無知ではないのだ。人の髪、血液、爪、そういったものは呪物に込めるものとしてポピュラーであり、場合によっては人体そのものであったりもする。ーー如月家にいた頃に、与えられた本で読んだ。
みやは櫛を置いて、真新しい髪紐を手に取った。彼の髪を束ねていく。
「強い呪物は、概して無敵だ。隔離して、浄化に努めつつ、時間が解決してくれるのを待つだけになる」
みやは好奇心で問う。
「そういうものを、見たことがあるんですか」
「秘密」
秘密にされてしまった。その線引きの容赦のなさは、彼らしいと思う。
「今回の場合はもっと救いようがあるから、本当なら、知れるものは知っておくべきなんだよ」
「たとえば?」
「なんでも」
外で一度、強い風が吹いた。風通しの良い屋敷を、生ぬるい空気が抜けていく。
「呪術に際して、特に必要な要素は『秘匿』と『対象』と、『犠牲』あるいは『材料』なんだけど。第一の『秘匿』によって隠されたものを、できるだけ暴いてしまう。目に見えない概念的な力は、昔から『知識』と『視線』に弱い。たしか二年くらい前に話したと思うけど……」
「二年……」
みやがまだ如月家で教育を受けていた頃、彼が折を見て外へ連れ出してくれることがあった。
二年前。その日は夜桜を見た。花見の名所の限られた区域だけは好きに歩いていいと言われたので、彼と手を繋いで一緒にいたのだ。数人の大人が距離を空けて付いてきたので、あの足音が少し怖いと思ったことを覚えている。
口下手なみやと少しの言葉を交わして、それだけでとても幸せそうな彼の横顔。地面に枯れ散った花弁を踏みしめた。持ち物は、温かいお茶が入った小さな水筒と、薄手のストール。時間すら自由にならず、すぐに迎えの大人が来てしまったけれど、その間に話したのは、「彼らはただの護衛だから、怖がらないであげて」と「唐揚げは好き?」と「将来は猫とか飼いたい?」、それと――、
「ええと……、如月家が秘匿を重んじる理由、……超常的な力の低下に繋がる、とか、京の儀式も、それを特に気にしているとか」
「……うん、それ」
よく覚えてたねと、彼は目を丸くした。次いで嬉しそうに目を細める。
「神秘の術は見られるのも知られるのもダメ。つまり、知ることでおまじないに対抗できる。最初から術で返すよりは穏便な方法だね。返すのはちょっと過激だから」
だから如月家は呪力を保つために秘匿性を重んじる、と話す。
「でも流行っていたおまじないには、秘匿も何もないんじゃ? お友達と一緒にやった方もいらっしゃいますし、方法は初めから開示されている状態です」
「そうなんだけどね、こういうのって捉え方にもよるんだよ。おまじないをやった時間や、呪物を埋めた具体的な場所、それを行ったことを知っている人数、対象の名前、このうち一つでもわからなければ、秘匿性の欠片くらいは保持していることになる」
「……それはとても、曖昧です」
みやがぽつりと言うと、
「そもそも呪力自体が曖昧なものだからね」
その曖昧な力を生業にしている家系の彼は、余裕のある微笑みで返す。
「大人数が関わる西洋式の呪術なんかも、効果は絶大だしね。色々と例外はあるけど……それを語ると長くなるから、とりあえず基本的なことを知っていればいい」
「……はい」
「……まあ、そういうわけで第一に知ることが大事なんだけど、今回は情報より速さを優先させてもらうよ。多少手荒になるだろうけど、これ以上、俺の失態には誰も巻き込めない」
「失態って、」
「失態だよ」
蓮見は一葉の写真を手に取った。
みやも、彼の後ろからちらりと覗いてみる。
本日、気遣わしそうな名取から「坊ちゃんは全然悪くなんてないんですよ」と手渡されていたものだ。
ポラロイドカメラで簡易に撮影された、三〇五号室の『箱』。その中身が見えやすいように、蓋を開け放して撮られている。
中には、フェルトの人形が詰まっていた。そして腹のあたりに名前がある。手の込んだ刺繍だったり、縫い糸で直線的な文字が縫われていたり、紙に書かれたりしていた。
その写真だけでは、数人の名前を確認するだけで精一杯だ。
小さな手作り人形。人の無邪気な悪意が込められたそれ。
乱雑に積み重なるそれらの中に、みやは二つ、それを見つけた。
『カタス ミヤ』
『かたすみや』
筆跡が違った。
片方は縫い糸で直線的に、片方は紙に丸っこく書かれていた。表面を見ただけでこれなら、中身を一つ一つ確認するとどうなるだろう。
みやはおまじないに使われた自分の名前を見て、それだけだった。何も言わずに彼の髪を最後まで整えて、終わりましたと言う代わりに、彼の隣に膝で移動する。
「結崎瑠香の話を聞く限り、このおまじない……呪詛の一部の動機に俺が関わっている。君が標的にされたのも俺のせいかもしれない。正直ね、心当たりはあるんだよ。松野愛理については、まだよくわかっていないけど」
「…………。」
「今回のことが終われば、俺はきっと家でお叱りを受けるだろうな」
彼はそう言って立ち上がった。袴の裾が、みやの手に擦れる。夏の普段着に使う浴衣などとは違う、格式ばった服装だ。
けれど本気ではないな、とみやは思う。
如月家で執り行われる儀式の衣装は、もっと清い。触れるのを躊躇うほどに。
かつて、如月家の暗い部屋にいたみやを迎えに来て、
――「君が、俺のお嫁さんなんだね」
と言った幼い日の彼は、家紋の入った白い正装をしていた。
今回は、それとは違う。きっと彼はいつものようにお祓いをこなすのだろう。何をするのかも、どういう手順なのかも、みやは知らないけれど。
蓮見は棚からマッチを持ってきて元の位置に座ると、陶器の皿で写真を燃やした。「『――、――』」なんと言ったのかみやにはわからないけれど、祝詞か言霊か何かなのだろうと思う。写真は端から黒く焦げて、丸まりながら燃え尽きた。
きっと呪いは、今日で終わる。
針金でも入っているのかというほどまっすぐに伸びた蓮見の背を追って、みやは廊下を歩いた。付かず離れず、自分が心地良いと思える距離を保つ。
草履を履き、玄関を出る寸前になって、電気のスイッチを切った。
ぱち、ぱち。
廊下の灯りと、玄関の天井にぶら下がる灯りが、電気の供給が切れた順に消える。そうしてみやの目の前には、深い闇が生まれる。広い屋敷中の光が落とされてしまえば、ただ穏やかな静寂が満ちるのみ。
「行こう」
「はい」
蓮見はみやの背をそっと押して、先に外へ出した。殿になってくれているらしい。
二人は無言で正門の潜戸を抜け、そこに停まっている黒い車――野外球技と同じ名前の車種だった――に近づいていく。
運転席側のドアに立っているのは、名取だった。どこで売っているのかわからないヒョウ柄のシャツと、ショッキングピンクのボトムズを履いている。みやには色が確認できないけれど、古い着物に割烹着姿の名取を見慣れていると、服の輪郭だけでも十分な違和感がある。お祓いに際しての気合が服装に表れているのだな、とみやは思った。
蓮見はみやの背に手を添えながら、
「お疲れ様」
「こんばんは坊ちゃん。みやさんも、今回は災難でございました」
「こんばんは。よろしくお願いします」
名取が後部座席のドアを開け、まず蓮見が乗り込む。続いてみやも、車内に着席した。外側から浅く腰掛け、足をするりと引き入れながら体を正面に向かせる――着物やスカートでの着席は最初こそ気を遣っていたものの、今ではその仕草も身に着いていた。
「今のうちに説明しておくね」
蓮見は前を見ながら言う。
「今回は君を連れていくけど、目隠しはするし、耳栓もしてもらう。動くのも話すのも止めてほしい。俺は話しかけられても応答しないし、……そもそも聞こえないと思うけどね。吐き気がある場合は我慢せず、その場で吐いて。徹底できるね?」
確認ではない。命令だ。事務的な声色は、不思議とすんなり脳内に染みていく。言い含められた内容は、つまり呼吸以外は何もするなということだろう。
それが彼にとって必要なことと知っているから、みやは「はい」と頷く。
どぅろん、とエンジンがかかった。車体は滑らかに動き出し、小石をじゃりじゃり踏みつける音がした。
「怖がってもいいよ。だけど、信じてほしい」
静かな車内で、彼が言った。
「この土地には神様がいて、助けてくれるかはわからないけど、見てくれてはいる。何より俺の中にも、その血はある」
君の中にも、同じように。――慰めのような、けれど事実だった。
シートに着いていたみやの手に、彼の片手が重なった。自覚もしていなかった細かな震えを、一回り大きな手が抑え込む。恐怖と緊張は、自分が思う以上に大きかったらしい。みやは何も言わずに彼の手の温かさを受け入れる。
体温が似ていた。血管を意識した。重なった手の中それぞれに、細い血管が幾筋も通っている。赤い命の液体が通る道。青みを帯びて、皮膚を開いて見れば、それは紫にも見えるだろう。みやは、ふ、とあえやかな息を吐く。
――そう、如月家と形栖家は共にあった。遠い過去から現在に至るまで婚姻を繰り返し、両家の血は混ざり続けている。
蓮見は言う、
「だから、大丈夫」
車のタイヤが石を踏み、がこん、と揺れた。十字路を右折する。車のライトが、前を走る車の背中を照らす。リアガラスの左下部に目立つステッカーが貼ってあって、その文字はここからよく見える。『赤ちゃんが乗ってます』。
――私たちは家名が違うから、冠する名誉も、善悪が明白な歴史も、持ち得る能力も、母親も父親も立場も、何もかもが違うけれど――、
「俺は君を助けられるよ」
――この身に流れる血液に、そう違いは無いのかもしれない。




