松野愛理2
――あたしがえらいひとのおよめさんになったら、おとうさんとおかあさんはよろこんでくれるかもしれない。
認めよう。あたしはあいつが好きだ。恋をしている。恋をしたからあいつと一緒の学校に行きたいと思ったし、髪を黒く直すのに一秒の躊躇もなかった。ろくに寝なかった。夜中に一階から両親が喧嘩する声が聞こえてこようと、教師から「お前には厳しいんじゃないか」と言われようと、関係のないことだった。
『あいつ』は旧家のご子息で、あたしは名前をもらっただけの子供。
そんな薄い繋がりに、期待することもあった。
二年生に進級する前の冬休み、従弟が「着物の女の子」について聞いてきた。じっちゃんが「如月家の坊ちゃんのお相手」について話した時、あたしの失恋は確定した。
形栖家を悪し様に言って、だけどそれが最初で最後。
これ以降、あたしは嫉妬なんてくだらないことはしないと、決めた。
それが、あの女と初めて会う少し前の話だ。
レンタルビデオ屋であの女と会った二ヵ月後の初夏、また話す機会があった。
平日だった。絲倉町と隣町を隔てる川の土手に、あの女が立っていた。学校帰りで白い制服を着ている。川に夕日がぎらぎら照り付けて、シチュエーションだけで見ればどっかのドラマっぽい。
――如月家が認めた、あいつの許嫁。
心臓がぞわりと粟立ったみたいな、気持ちの悪い衝撃がある。
事実を知らずに会うのと知っていて会うのじゃ、やっぱり違うもんなんだな。
「ねえ」
「はい? ……あ」
そいつはあたしを見て、言葉通り「あ」という顔をした。
「お久しぶりです」
「何してんの」
「ちょっと考え事を」
「ふーん」
声なんてかけるつもりもなかったけど、こいつは放っとくと危ない気がした。お嬢様だろ、もっと危機感持てよ。
「……おかしなことを聞いてもいいですか?」
「なに」
「お友達って、どうやってできるのでしょう」
「知らね」
そんなテンプレな悩みをご相談されてもな。
「つーか友達ってそんなに必要なもんなの?」
「……ああ、あなたも」
「一緒にすんな」
仲間を見つけた顔するな。作ろうとしてできないのと、そもそも作ろうとしていないのとじゃ、天地の差があるんだよ。
「実は私、学校で浮いていて」
「そりゃそうだろ」
そいつは今までどこにもぶつけられなかった不安を、あたしに零し始める。
「遠巻きにされているっていうのか、虐めを受けているわけではないのですけど、どこかよそよそしくて……」
「ふーん」
「皆さんのように砕けた話し方をしようとしても、どうにも慣れなくて」
「ふーん」
あんたの事情とか知らねえよ。
そいつは川を見ている。じーっと、馬鹿みたいに黄昏れている。あいつにそういう顔でも見せりゃ、慰めくらいはもらえるんじゃねえの? 想像すると腹立ったから言わねえけど。
「その手のことで困ってるやつがなんで悩んでるのかわかんないけどさあ、なるようにしかならんでしょ」
「……なるように?」
「あたしは適当に一人で過ごせるから一人でいるんだけど」
あたしの右手は、コンビニのビニール袋の他に、レンタルビデオの専用バッグを提げている。借りた数枚のディスクは、前から興味があった旧作だ。
「だから何も言えない。待ってれば? そのうちなんとかなるっしょ」
「……ええっと、考え方が、大らかですね?」
無理に褒めようとするな。
今まで関わってきた中でも圧倒的に『いい奴』でいようとするそいつが、癪に障る。苦手なタイプだ。あたしが不愛想に「どーも」と言うと、そいつは箱入りのお嬢様らしく、ふふふと笑った。
嬉しそうな顔するな。
会いたくもない恋敵との再会を果たして、髪をまっすぐにしたけど、それだけだった。心境に変化があるとか、そういうイベントは全くない。
ただ『あの連中』と同じにはなりたくないと、心の底から思った。
『今更許嫁って。形栖家のってどゆこと?』
軽蔑した。
そうやって誰かの悪口を叩いて安心している連中と、能天気なあの女とじゃ、育ちからして違っていた。あたしはどちらでもない。お友達のできないお嬢様でもなければ、誰かを呪ったりもしないのだ。
あたしは身分を弁えている。
おとぎ話の主人公は、特別だからこそ主人公足りえるのだ。シンデレラは、いじめられっ子から幸せな姫へのメタモルフォーゼがドラマチックだから物語になれるのだ。そんな話が都合よく転がっているはずはない。
あたしはこの世のつまらない摂理を理解できている。
あたしはあたしらしく斜に構えた態度で、失恋を受け入れている。
あたしは現実を直視して、未来を見られる人間だ。
あたしはあいつらとは違う。あいつのことは諦めた。誰とも悪口を共有しない、誰も嫉まない、誰も傷付けない、誰も貶めない、誰も呪わない、
――それならどうして、名前を教えた?
心の中の誰かが、あたしの声で囁いた。
――くだらないおまじないに使われると知っていながら、どうしてあの連中に、あの女の名前を言ったんだ?
「……あれ?」
おまじないなんて信じていなかったから。それもある。
――それなら名前を教えなければよかったのに?
足下がひやりとした。
――恋敵の名前を教えて良いことにはならないと、本当は解っていたはずじゃないのか。
――わかっていて、教えたんじゃないのか?
あたしはそれを否定できない。
『今までどんだけ如月くんに純情と貴重な時間捧げてきたと思ってんの』『あっちはアンタの存在認識してないんじゃないかな?』『結局さぁ、住む世界が違うんだよねぇ』
その声はそのまま、あたしが内心で思っていたことだったからだ。
おぞましい。
他人の声で聴いたそれらを思い出して、さらに汚いと思った。
なんてひねくれていて、なんて子供っぽいんだろう。
これを問えば、きっと誰もが満場一致で頷くだろう。泣きたいくらいに、こう思う。
――あいつが最も嫌いそうな人種じゃないか?
その考えに至った時、あたしはちょうどレンタルディスクを見ていた。魔法使いの少年が学園生活を送るついでに英雄になっていくベストセラーだったけれど、残念ながら内容を頭に入れる余地がない。脳内を占有するのは、あいつの背中と、あの女の白い制服と、教室の馬鹿笑いだった。
『髪が綺麗なんだ』
あいつはそう言った。
それとは別の教室で、別の時期に、
『フィクションかってほど髪長いし』『あれほぼほぼ幽霊じゃん』
あの連中は自覚もなしに、あいつの言葉を笑った。
「…………。」
視界の端には、自分の黒髪が見える。それなりに長く、鬱陶しい癖毛。
何もかもが気に入らなかった。
「――しゃらくせぇ!」
一人で何を怒っているのだと、脳内の自分が呆れていた。けれどあたしは真面目に怒っていた。あの連中はどうしてあんなに汚いんだ。あいつはどうして女難の相なんてあるんだ。あの女はどうして友達がいないんだ。あたしはいつまでこんな風に腐ってるんだ。
魔法使いの少年が亡くなった両親と感動の再会を果たしているテレビ画面をつけっぱなしのまま、あたしは財布を引っ掴んで寮を飛び出した。目指すは街中の美容室だった。
翌朝教室に入ったら、数人の女子から視線をもらった。自分の席に着いてしばらくすると、後ろの席の山本里佳子がおそるおそる声をかけてきて、
「その髪って……」
「ああ、気分変えたの。悪い?」
「……や、別に……びっくりした……」
窓際に集まっていた三人組の女子生徒が、遠巻きにこっちを見ていた。若干引いているようだけど、あたしは満足している。
どうだ。
幽霊みたいな黒髪ストレートロングも悪くないだろ。
――もういい、と思う。
あたしが全部引き受けてやる。
密かに広まってしまったおまじないはあたしのせいじゃないけど、あの女の名前をリークしたのはあたしなんだ。しょうがない、あたしが始末をつけよう。あいつのファンと同じだけ、あの女にはアンチがついている。そいつらに名前を教えたのはあたしなんだ。あの女がおまじないの標的にされるのは、全部あたしが悪い。誰だよおまじないなんて流行らせたやつ末代まで許さねえ。
あの世間知らずはきっと、今も呑気に呆けているに違いない。あたしの奮起も罪悪感も知らずに、あいつの隣で馬鹿みたいに笑っているのだ。
それでいい。
「……いや、よくない! 全っ然よくない!」
あたしは、だって、まだあいつが好きだ。
好きだから、だから、あたしは今、こんなに走っているのだ。
機会があれば神社まで走って、おまじないの痕跡を見つけて、掘り返して、見つけた人形に『かたすみや』と書かれていればそれを書いたやつを十発殴る妄想をしながら、くだらないおまじないを台無しにしてやるのだ。
そのために走る。
神社に少しは関係しているあいつには、絶対に見つからないように。
夜の道を一人で、揺れるスカートは気にせずに、一人で闇の中を駆けていく。
自分の尻は自分で拭ってやろうじゃないか。
そして。
箱入りの世間知らずみたいに真っさらになって、何にも知らない顔で、いつかあいつに伝えるのだ。そしてちょっと困った顔の「ごめんね」と「ありがとう」を聞いて、乙女っぽくいじいじねとねとうじうじぎとぎとの粘着質なあたしとはお別れをする。
それまでは。
――あいつに知られたくない。
軽蔑なんて、されたくない。




